第58話 監督の決断
国立の軽蔑する監督像のなかに、動けない監督というものがある。
選手を信じて任せると言いながら、実質は采配放棄。
目の前の試合に全力を注ぐというのは、つまり最後まで勝ち上がるビジョンを持っていないからである。
その中の一つが、投手運用である。
昔の甲子園は、エース一人に任せていれば、どうにかなったものであるらしい。
国立から見ても、当時のエースの球数は馬鹿げたものになっている。
国立の監督としての方針は、かなり明確なものである。
一番大事なのが、選手を壊さないこと。
そして二番目が選手を育てることで、試合に勝つのは三番目である。
もっとも育っていることを証明するために、試合で結果を出さなければいけないわけだが。
耕作は三回戦を完投したし、一回戦からずっと全ての試合で投げている。
異色の左のサイドスローは、本人がなんと言おうと、まさにエースの姿であろう。
三巡目の東名大菅原打線も、上位打線でようやく一点。
そして試合は終盤に入ってくる。
国立はここで、自分の仕事をする。
優也をマウンドに送るのだ。
しかし耕作を完全には引っ込めず、ファーストに置いておくのは思い切りが悪いのか、リスク管理が出来ているというのか。
(山根君が本当のエースなら、すっぱり代えたかもしれないが)
耕作はこの夏、甲子園ばかりではなく、本当に粘り強いピッチングをしている。
これが人生最後の大会になるだろうからと、完全に甘さを排したピッチングになっているのだ。
命がけなどということは言わない。
ただ、選手生命ぐらいは賭けているかもしれない。
このままずっと、とにかく怪我にだけは気をつけてというのが、本当に正しいことなのか。
ぶっ壊れてでも甲子園に来たいという高校球児は、毎年のように存在する。
普通に生活できる程度なら、故障も怖くはない。
本当の死と向き合っている、正志と比べれば。
耕作はこの甲子園で、自己最速を更新した。
甲子園は選手たちに、限界以上の力を与えてくれる。
だがそれは故障の危険と引き換えだ。
野球部内でもごくわずかしか、正志の事情は知らない。
だが耕作は国立と同じく知ってしまっている。
耕作は間違いなく、自分のためだけに投げるピッチャーではない。
チームのために戦うのだ。彼の主戦場は、農地の中にある。
敵などいない、ひたすら作物を育て続ける、孤独な戦いだ。
だからこそ、誰かのために投げることが出来る。
優也にもまた、似たようなものを国立は感じている。
入学時には単なる素材に過ぎなかったが、いつからか急激に精神的にも成長したような気がする。
あれがシニア時代は、文句ばかりを言うお山の大将だったというのか。
確実に勝てるチームメイトを得たことが、その人格の幅を広げたというのか。
(あるいは自分よりも、ずっとぎりぎりで戦っている人間がいると、どこかで知ったのかな)
どれだけ甲子園が、魂を燃やしてまでも来たいところだとしても、実際には来れなくても死ぬわけではない。
三年目の夏を不完全燃焼で終えても、人生はまだまだ続いていく。
正志はそれとは違う次元でプレイをしている。
追い込まれた方が強くなるというわけでもないが、正志には今、それが一番のモチベーションになっているのは確かだ。
最後の夏を迎える三年生より、さらに追い詰められた空気。
優也にもそれが感染して、プレイに影響しているのか。
確かに一人の選手のパフォーマンスが、他の選手やチーム全体に、影響を与えることはある。
それを思えばここから三年、白富東が一番強いのは今年かもしれない。
甲子園にはマモノが棲むが、神様も住んでいる。
そして面白い試合や、期待出来る選手を無邪気に応援する。
実力以上のバッティングやピッチングを、してしまう者もいる。
優也もその一人だろう。
耕作から代わった七回、ストレートの球速が145kmを記録した。
これまで計測されていた、最速は143kmである。
甲子園はドラマチックな演出のために、球速が出やすい設定をしているというのは昔のこと。
今はほぼどの球場でも計測方法が統一されているので、信じてもいい数字である。
スライダーの後のストレートで、このスピードが出た。
残念なことに空振りではなく内野フライであったが、とにかくワンナウトには違いない。
(肩が軽いぜ)
念入りに肩を作ってあるので、いきなりの登板というわけではない。
ピッチャーは先発が花形と言われているが、優也はクローザー的に使われる抑えも気に入っている。
塩谷はストレートの球速は、あまり気にしないように言っている。
優也の最大の武器は、スライダーだ。
鋭く速く、カット気味に曲がる。
空振りも取れるし、詰まった当たりにすることも出来る。
(それでも145kmか)
喜ばしいと言うよりは、何か危険なものを感じる。
甲子園では限界を超えてしまうピッチャーが、それなりにいるのだ。
だがそれが潜在的な力の発揮なのかと、区別する手段はない。
優也にしてもまだ肉体の全ての出力を、指先に集められているわけではないのだ。
だからこれは、普通に考えれば甲子園のマモノではなく神様が、応援してくれていると考えた方が、精神上いいだろう。
ストレート見せ球に、空振りを取るのはチェンジアップとスライダー。
まずこの回は、三人で終わらせることに成功する。
残り二イニングで、三点差。
今の回はまだ打線の弱いところと当たれたが、八回からは上位に回ってくる。
ただ上手くすれば、アウトカウントのいいところで、相手の打線と当たれるかもしれない。
一イニングに一点までなら、逃げ切れる。
塩谷は必死で、優也のコンビネーションで相手を抑える手段を考える。
白富東としては、追加点はいくらあってもいい。
だが井野は完全に復調したのか、アウトを積み重ねる。
打順的に考えても、延長に入らなければ点を取るのは難しい。
残りのイニングを抑えて決める。
あと六人。
三点を取られる前に、あと六つのアウトを取る。
八回の表、上位打線でもない白富東は、簡単にアウト三つを取られてしまった。
バッターとして打席に立った優也も、あっさりと凡退である。
菅原の井野は、この終盤にきて一番落ち着いたピッチングをしている。
序盤の失点が、本当に惜しいところだ。
八回の裏は、菅原の上位打線に回る。
だが優也は残り二イニングを、全力で投げ抜いてくる。
単なる力勝負ではなく、カーブとチェンジアップを上手く使う。
だがツーアウトから、菅原もクリーンナップは外野の頭を越える打球を打ってくる。
ツーアウト二塁で、四番に回ってきた。
ここでホームランが出たとしたら、一気に一点差にまで迫ってしまう。
東名大菅原ともなれば、ベンチには代打要員が何人もいるのだ。
そしてそういった選手は、データが少ないため対策が不充分である。
(左の四番なんだよな)
塩谷は考える。優也の決め球であるスライダーは、左打者には懐に飛び込むようになるため、空振りを取ろうとしてもカットされる可能性がある。
逆に言うとあのスライダーは、左打者でもそうそう打てるものではない。
スライダーとチェンジアップを使って、ツーストライクに追い込む。
ボール球も使っているので、これで平行カウント。
常識的に考えれば、ここが決める場面である。
(歩かせるつもりで外角攻めか?)
バッターボックスの中で、主砲の四番は考える。
延長になれば井野のスタミナが充分な、菅原が有利になってくる。
最初から継投を考えていた白富東と違い、まだまだピッチャーには力が残っているのだ。
延長になれば勝てる。
そう考える菅原の四番は、主砲という意識がわずかに薄れていたのか。
優也の投げた五球目はストレート。
(内だと!)
インハイの球を、全力で叩いた。
センター仲邑が、必死で追いかける。
高く上がったボールは、わずかに風の影響も受けただろう。
フェンスに背中をくっつけた仲邑の、顔の高さにボールは飛んできた。
センターフライでチェンジである。
色々な意味の溜め息が、多くの場所で起こった。
ホームランとまではいかなくても、せめて一点が入っていれば。
あるいはここで四番を打ち取ったことで、一気に勝利には近付いたかと。
ベンチに戻ってくるバッテリーは、グラブとミットを合わせる。
優也は一年生であるが、こういったところで物怖じはしない。
国立はそれを迎えて、まずは一言。
「ナイスボール」
それはいいのだが、あとは最後の向こうの攻撃だ。
東名大菅原は五番と、あと六番あたりまでは普通に打たせてくるだろうが、それ以降は代打攻勢になる可能性が高い。
代打と言うのはバッティングが良くても、守備に不安がある選手が回っていたりする。
だが西東京の私立の強豪であると、それを上回る代打の打撃専門がいてもおかしくない。
そういったバッターのデータは、さすがに代打だけに少ない。
そしてこちらのピッチャーのデータは、おおよそ知られている。
九回の表の攻撃もあっさりと終わり、そして最終回。
三点差から先頭の五番が、クリーンヒットを打ってきた。
六番を相手に内野はやや深め。
それに対して強振してきた六番であるが、ぼてぼてのゴロとなって一塁がぎりぎりのアウト。
ワンナウト二塁で、やはり代打が出てくる。
左打者。
体格から見ても、一発を狙える打者なのだろう。
国立はここで、最後の賭けに出る。
ファーストの耕作をマウンドに戻し、サードに入っていた正志をファーストへ、そして優也はサードへ。
左バッターには左ピッチャーを。
そんな単純なことだけではなく、耕作は不思議と強打の選手にも打たれないのだ。
左対左になったところで、さらに右の代打を出してくるか?
もしもそんな余裕があるなら、菅原の監督の決断力は恐ろしい。
だがバッターはそのまま。
さすがにこの場面で、代打の代打を出してくることはない。
(これで抑えれば、おそらく勝てる)
そう思った国立であったが、全てが思うとおりにはいかない。
内角に入ったスライダーを、左の代打は強振する。
ライトの悠木が深くまで走ってキャッチするが、これは完全にタッチアップには間に合わない。
ツーアウトながらランナー三塁。
しかしあと一つアウトを取れば、試合終了である。
ここから奇跡の逆転があるのか。
八番のキャッチャーは正捕手だが、ここにもまた菅原は代打を出してきた。
(右か)
そして国立も動く。
再び優也をマウンドに送り、耕作はここでベンチへ。
サードには守備固めの選手を入れて、ここで決めるという意思を見せる。
あのタッチアップはいらなかったな、と国立は考える。
元々一点は取られてもいいのだ。ならば少しでも守備側の判断が乱れるように、セカンドに残しておいた方が良かったかもしれない。
もっとも一点を取られるということが、ピッチャーや守備に与える影響はあるだろうが。
ツーアウト三塁で、あと一人で勝利。
ランナーは完全に無視していい。なんならホームスチールで一点を取られても、まだ二点差である。
相手は正捕手を引っ込めた。
ここで打てたとして、次の井野はどうするのか。
本来は打てる選手なだけに、さすがに代打はないだろう。
(((ここで決める)))
監督と、バッテリーの意識が同調した。
ストレートとスライダー、そしてまたストレートでファールを打たせカウントを稼ぐ。
あと一球。
ボール球をあと二つ投げられるこの状況で、勝負を急ぐ必要はない。
必要はないが、ここで決めにいった方がいい。
(今のストレートの残像が残っているうちに)
国立がキャッチャーなら、ここでチェンジアップか逃げていくスライダーだ。
見逃せばボールになるかもしれないと分かっていても、見逃すことが出来るだろうか。
(何を見せてくれる?)
ワクワクとしながら国立は、そのサインのやり取りを見守る。
最後の一球。
それは右打者の膝元に決まるスライダー。
打っていった打球は、代わったばかりのサードの正面へ。
それを捕って、そのまま一塁へ。
ヘッドスライディングをするが、それよりも早くボールがミットに収まった。
スリーアウト。ゲームセット。
白富東は準決勝への進出を決めた。
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