第3話 普通であることの幸福
平均的な人間は、自分が幸運であることに気が付かない。
両親がいる。もしくは片親でも、経済的に困窮しておらず、生活は安定している。
虐待を受けていない。放置されていない。会話がある。
自分のことだけに集中出来る。それを許す周囲の環境がある。
大介や悟であれば、ほんの少しはそれに共感が出来たかもしれない。
だが直史には全く想像が出来なかったろう。彼は親戚づきあいの中で生きてきて、良くも悪くも周囲が自然にフォローしてくれる立場であったからだ。
白富東の入学式から三日後、彼は練習に参加していた。
スポーツ推薦の試験内容の中で、おおよそはトップの成績をたたき出した優也であるが、一部の瞬発力系では、負けると思った相手がいた。
シニア出身の優也が、同じく他のシニアの人間として知っていた選手。
確か去年の夏には、東京だか神奈川だかの学校に、推薦が決まっていたはずだ。
だからこそ白富東の試験で姿を見たのを不思議に思ったし、ムキになって必死で対抗したというのもある。
鷺北シニアの児玉正志。
パワーは負けるな、と優也が普通に思った相手である。
絶好調であった優也からもヒットを打ち、チームを全国に導いた強打者。
強豪私立に行かずに地元に残ったというのは、何かの事情はあったのだろうと思う。
だが優也にとっては純粋に、援護をしてくれるバッターはありがたい。
通常授業が始まり、そして放課後となる。
「よっしゃ、今日も部活だ」
「放課後になると元気だね」
そう苦笑する潮であるが、優也の気持ちは分かるのだ。
白富東の野球部の内容は、それなりに先進的だと思っていた鷺北シニアの練習を、さらに最先端のものにしていた。
MLBの練習で取り入れているような内容に、さらにそれを上回る身体操作の知識。
上手くなっているという実感が、二人を笑顔にしている。
それに優也にとっては、今日はバッテリーコーチが来てくれる日だ。
ピッチングにおいて、自分でも壁を感じている優也は、誰かの分かりやすい助言を必要としていた。
教室を出た二人の前に、長身の少年が立つ。
同じ一年生でありながら、既に高さだけではなく、体の厚みも備わってきている。
恵体の彼こそが、シニアにて潮のチームメイトであった、児玉正志。
中学生ながら四番として、ホームランを放り込むパワーがある。
「正志、もういいの?」
「うん、大丈夫」
でかいな、と素直な感想を、優也は抱いていた。
一年でこの厚みなら、確かに強豪私立から誘いがあってもおかしくはない。
どういった理由があって辞退したのか、それとも他に理由があるのか。
訊いてみたい気持ちはあるが、聞こうとはしない優也である。
節度があるというわけではなく、本質的には興味のない出来事であるからだ。
「あ、こっち三橋シニアの山根君」
「憶えてる。三振食らったから」
「俺もヒット打たれてるけどな」
絶好調で春には勝てた優也であったが、その後は勝ち進めなかった。
日によってピッチングの出来が大きく違う。
だからこそ大きな大会では、途中で伏兵に負けることが多いのだ。
自然と二人が先に行き、優也は一歩離れて進む。
「でも良かったよ。今日新入生と上級生の紅白戦があるから、試合に出られるし」
「休んでた人間が出ていいのかな」
「サボってたわけじゃないんだし、問題ないよ。先生にも伝えたんでしょ?」
「まあ」
正志はどちらかというと、口数が少ないタイプらしい。
「うっしーの方はもう大丈夫なのか?」
「ああ、生まれ変わった気分だよ。国立監督ってすごいな」
生まれ変わったと、潮が言っている意味は優也にも分かる。
それほど多くはないが、フリーバッティングをさせてもらう機会があった。
全く打てないと事前に言っていた潮であったのだが。
白富東の伝統として、春の大会に一年生から、二人をベンチ入りさせるというものがある。
かつて強くも弱くもなかったころの白富東は、普通に新入生からベンチに入ることも多かった。
だが甲子園行きが決まって一気に強豪化してからは、18人は上級生で確定し、二人の枠を争うことになる。
これも出来れば一年生を入れて、早くからベンチの雰囲気に慣れさせるということはあるが、とても戦力にならないとなれば、上級生から二人が補充される。
上級生チームと、下級生チームとの紅白戦。
以前はエース以外はおおよそスタメンをメンバーとしていたのだが、現在ではベンチ入りメンバーの中のスタメン以外と、新入生のメンバーで組んだチームとの対戦となっている。
センバツに出場していたころは、監督も部長も甲子園に行っていたため、春休みの練習参加というものがなかった。
だがセンバツに出場出来なかった去年は、一年生からチームに慣れさせて、春の大会で一気に勝ち進んだ。
夏に再び甲子園に出られたのも、その勢いがあったからだと言える。
上級生チームを率いるのは、本日やってきたバッテリーコーチ。
当然ながらチームの選手の力量を把握しているのは、上級生組となる。
それに対して新入生チームを、国立が指揮する。
春休み中の練習を見ていて、どの選手をどう使えばいいのかは、既に分かっている。
バッテリーも含めて、全てスタメンは決まっている。
秋には関東大会に出場したチーム相手とはいえ、スタメンはいない。
だがそれでもチーム力全体は、冬の間に上げてある。
「それじゃあまずスタメンだけど、一番ピッチャー山根君」
「え」
先発を任されるのは、充分に予想していた。
だが一番バッターというのが以外すぎる。
四番は正志に取られたとしても、三番か五番あたりに入れられると思っていたのだ。
もしくは投手専念のために、九番か。
「不服かな?」
「いえ、でも一番なんて打ったことがないんで」
「打率が高くて長打も打てて俊足。一番でおかしいかな?」
「いえ。ありがとうございます」
ピッチャーで一番というのは、かなり珍しい存在だろう。
だが優也は身体能力的には、ピッチャーをやらない時は一番を打ってもおかしくないのだ。
白富東は三番最強論を持っているとともに、一番打者も過去にはプロに行っている。
実のところはあまりチームバッティングはしないが、確実に好打者である優也を活かしたいので、一番を任せたのだが。
四番に入ったのは正志である。
これは別に不思議ではないが、三番最強論の白富東には珍しいのかもしれない。
そして五番は潮である。
普通科から入学したキャッチャーが五番。
ただ不服そうな顔をする者はいない。
「あくまで現時点での能力を見るだけだから、確認出来たら交代していくよ」
穏やかな国立の物言いは、あまり野球指導者には見られないものだ。
指導環境や技術は日々進歩していると言っても、指導者の気質というのは受け継がれていくものだ。
野球指導者の経験など全くなかったセイバーや、海外の指導環境を知っていた秦野が例外なのである。
そして国立も、例外なことは例外だ。
先攻は一年生チーム。
三番手ピッチャーである永田が、上級生チームの先発だ。
現在の白富東は、絶対的なエースというものがいない。
なので永田の実力も、耕作や二番手とそうそう大きな差はない。
「球速はMAXで140km弱、ストレートとカーブの緩急差で勝負してきて、時々スライダーとチェンジアップを投げてくるけど、割合は多くない」
国立から情報が開示されるが、ストレートが140km近く出るというだけで、高校生になったばかりの選手たちには、充分すぎる脅威である。
スライダーとチェンジアップは、精度が低い。
なのでストレートとカーブを狙われているときに、使うしかないという。
それらの情報をもらって、優也は打席に立った。
先頭打者の優也には、国立から特に指示が出ている。
おそらく一年生相手に、あまり緻密な作戦の野球はしてこない。
ストレートで押してくるだろうし、一年生にも通用しないストレートでは、夏を戦うには頼りない。
それを狙う。
初球攻撃だ。
打席に入った優也に対して、永田はマウンドの上から見下ろす。
一年生のくせに、生意気そうな顔をしている。
スポ薦で入ったようなピッチャーらしいが、同時に一番まで任されるとは。
国立の考えはある程度分かっている。
こちらの球種はもちろん全て知っているし、性格なども把握されている。
それでもまず初球は、ストライクゾーンにストレートだ。
低めに入ったいいストレートを、優也はそのまま打ち返した。
芯を食った当たりは、ピッチャーの頭上を越えて、センターの深いところ、ネットに当たって落ちてくる。
初球先頭打者ホームランである。
ピッチャーとしての登録であるが、バッターとしても非凡。
強烈な印象を与える試合の開始であった。これで一枠は埋まったか、とも思われる。
いきなり一年坊に打たれたものの、それで全てが終わるはずもない。
続く二番三番と、しっかりと抑えていく。
内野フライに三振と、完全に球威で上回っている内容だ。
しかしそのあと、打席に入ってきた四番。
「お願いします」
むしろ丁寧に帽子を取って頭を下げたが、次の瞬間にははっきりと分かる雰囲気を発している。
これは殺気だ。
甲子園に出るようなチームと対戦して、強打者と言われる選手とも、多く対戦してきた。
だがこの一年生の発するものは、はっきりと死を感じさせる。
(なんなんだ、こいつ……)
冷汗が浮かび上がる。四月とはいえ、まだそれほど暖かくもないのに。
バッターとしては、優れた選手なのかもしれない。
全日本に出るようなシニアの四番打者だったとは、既に聞いている。
この数日は何か用があったのか、練習には来ていなかったが。
それでも国立が四番に置いたのは、このプレッシャーを持っているためか。
カーブから入って、低めに外れる。
そしてスライダーを投げたが、ゾーンから外れていく球にはぴくりともしない。
インハイを強気で攻めようというリードに従って投げるとバットが一閃された。
ライナー性の打球は、ドライブ回転してレフトフェンス直撃。
ある意味さっきのホームランよりも恐ろしい、鋭い打球であった。
セカンドまで到達しながらも、その顔に笑みなども浮かぶことはない。
むしろ納得していないのか、首を振っている。
(どんだけ目標が高いんだ)
点は取れていないものの、印象度はホームランよりも高かったかもしれない。
先制点を取られた一回の裏、上級生チームの攻撃。
マウンドに立つ優也は、キャッチャーの潮のミットへ、投球練習を開始する。
優也の持ち球は、永田と似ている。
スライダーとスプリット、そしてカーブである。
ただカーブはタイミングを外すために投げるだけであり、出来るだけストレートとスライダーで押す。
スプリットは落差があまりないため、ゴロも打たせたくない時には使いにくい。
逆を言えばゴロを打たせるためならば、使える球種である。
今日はなかなか調子がいい。
それに潮は、優也の得意な球種を知ったうえで、リードをしてくれている。
(スライダーを外していくのか)
ストレートを高めに外したり、ボールになるスライダーを振らせたり。
それでいて真ん中に集まったストレートでも、ストライクが取れる。
こいつはいいキャッチャーだな、と優也は思った。
それに一回の表、アウトにはなったがあの打球は、ちょっとずれていれば左中間を破るようなものであった。
キャッチャーとしても優也のボールが外に大きく外れても、ちゃんとどうにか捕ってくれる。
生まれ変わった、と自分でも言っていた通りだ。
国立が気づいた、潮を急激に上手くした理由。
それは単純に、生まれつきの特徴に気が付いていなかった、ということである。
潮は生まれつき、一種の乱視であったのだ。
人間は二つの目を使って、物との距離感を脳内に結ぶことが出来る。
潮は生まれつき、この機能にずれがあった。
狙ったところに投げるボールはストライクになるのに、飛んできたボールをキャッチすることも、ミートすることも難しい。
誰かが気づけば、それだけで一気に野球が上手くなったと勘違いするぐらいに。
コンタクトレンズによる、視力の矯正。
それだけでここまで、野球に対する能力が改善するとは。
キャッチングやバッティングの時、片方の目をすがめていた、潮に気づいた国立が、眼科医への受診を話したのだ。
矯正と、それに慣れるのに数日。
今までよりもはっきりと、世界は像を結んでいる。
こんなにも美しい世界で、潮は野球が出来るのだ。
(正志も本当は……)
もっと楽に、野球を楽しめたらいいのに。
もちろん今は、そんなことが不可能だとは分かっている。
今年の夏までなら、おそらく間に合う。
正志には甲子園にいく理由があるし、自分もそれを望んでいる。
夏は何度も巡ってくる。
だがどの夏も、一度きりしかない夏なのだ。
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