2そこ、バッといて!

 パリッとしたスーツ姿の若い男性が、杏が腰掛けたベンチの隣を指差していた。

 杏は黙って頷いた。

「じゃあ、そこバッといて(取っておいて)くれる?」

「いいですけど」

 答えて、杏は自分の水筒を空いているそちらに置いた。

 男の人は大通りを曲がって行った。

 変な人。ベンチなら少し離れた所も空いてるのに。ここは人通りが多いわけでもない。駿府祭りでもない限り、ベンチが埋まることなんてない。なんだろう?お昼の定位置にしてるのかな。そこからの景色が好きとか?よく顔は見なかったけど、ちょっとだけカッコ良かった気もする。でも、いかにも出来る男って感じが杏には馴染めない。戻って来る前に、とっとと退散しちゃおうか?でもパッとくって約束しちゃったしなぁ。悩みながら、とにかく急いでおむすびを平らげようと頑張る。

 それにしてもこの時間のベンチはどこも日向。ジリジリと照りつける太陽のせいで、じっとしてても暑い。ベンチ前のお堀からたまに流れてくる風に少し救われる程度。杏はお堀に影を落とすお城の石垣をぼんやりと眺めた。杏が小さな頃にはあの上の櫓は無かった。家康公の駿府城を再興しようと少し前に造り上げたものだ。

 観光客を呼ぶ為だろうか。それはいいけど、もっと調査費を出して欲しい。そんな事を考えながらおむすびをやっと食べ終え、水筒の中のお茶をゴクゴクと飲む。長い髪の毛をくるくると巻き上げてポニーテールにしたら汗ばんだうなじをそよ風がくぐり抜けていって少し心地が良くなる。それにしても男性はまだ戻ってこない。でも席が埋まる事はないだろう。よし、今の内に退散しちゃおう。

 空になったお弁当箱をリュックにしまって立ち上がろうとした途端、

「あ、バッといて、って言ったじゃん」

 咎めるような声にビクッとして顔を上げる。さっきのスーツの人が紙皿を手に立っていた。

「ち、ちゃんとバッといたでしょ。私はもう行くので、どちらでもどうぞ」

 杏は席をバッといた水筒を手に取ると、さっさとトンズラしようとした。

が、男はそれを阻むように前に立ち、杏の水筒を指差す。

「望月杏、だろ?」

 言われて失敗に気付く。新しい水筒を買うのが惜しくて、中学の時に使っていた名前シールを貼ったままの水筒を持って来ていた。

 でも、それにしても勝手に人の名を呼び捨てにしないで欲しい。杏は男を睨みつけた。

「だったら何さ?」

 だが男はそれには答えず、杏の隣にどっかりと腰を下ろし、手にしていた紙皿に軽く頭を下げ。紙皿の中の、串に刺された黒はんぺんをハムハムと食べ始めた。そうしながら杏の方をじっと見据えてくる。

「覚えてない?俺、海野真吾って言うんだけど」

 食べながらのモゴモゴ声にお行儀悪いなぁと思いながら、言われた言葉を頭の中で繰り返す。

ウンノシンゴ?

「え、ウンノシンゴって、あのウン!」

 ゴクンと唾を飲み込んで何とかそこで言葉を止める。


 悪ガキ達の大将、杏の初恋の相手、海野君だった。男子連中は喧嘩ばっかしてて、そんな時には、ウン◯シッ◯って呼ばれて男子小学生らしい下ネタに呆れたものだった。でも。

 杏の反応に。男は嬉しそうに笑った。

「お、覚えててくれた?中学まで一緒だっけな」

 海野君は茶色によく染みた大根の串をペロリと食べきり、崩れかけた茶色の煮卵も上手に串で突っつきながら残さず食べると、黒い汁を一口啜って杏の前に顔を出した。

「あー、美味かった!やっぱハンペンは黒に限るよな。なぁ、聞いてくれよ。ヒドいんだぜ?関東には白いプヨプヨしたハンペンしかねぇんだ。出し粉もねぇしさぁ、あれはおでんじゃねぇよ。な、そう思うだろ?」

 同意を求めてくるけど、関東のおでんを知らないから答えようがない。

「海野君、関東にいたの?今日は里帰り?」

 辛うじてそれだけ言う。

「まぁな」

 首を曖昧に頷かせた海野君がまじまじと杏を見て言った。

「お前、相変わらずぶしょったいなぁ」


 ムカムカッ。


 漫画だったら杏の頭に怒りマークが出てることだろう。ぶしょったいは、みっともない格好をしている時に使われる静岡の方言だ。

「これは作業服なの!ほら、見てみてこ」

 言って、杏は胸を突き出した。水色の長袖上衣の胸元につけた身分証を見せつけてやると、海野君が少し怯んだ。

 あ、しまった。杏は慌てて胸を隠した。

 本ばかり読んで猫背のせいか、胸だけ妙に発育してしまって、それが杏には却って負い目だった。男の視線を感じるのが嫌だった。

 だから杏は常に仏頂面をして身体のラインを隠す服しか着なくなった。口調もつっけんどんになった。可愛くねー、そう言われるとホッとした。いいんだ。男なんてどうせ胸にしか興味ないんだから。

 そう、杏はいわゆる男嫌いだった。


「そっちこそ」

 言い返してやろうとして開いた杏の口が止まる。

 キッチリした細身の紺スーツに臙脂色メインで斜めに辛子色が交じるアクセントのきいたネクタイ。悔しいが決まってる。

 何より昔から変わらない意志の強そうな太い眉と明るい薄茶の涼やかな目。ベリーショートのツンツン髪が、いかにもデキる男という感じ。

「何さ、そっちはリクルートスーツかね。あ、あんた、実は就職にあぶれたんでしょ?」

 自分のことは棚に上げて負けじと言ってやったら、海野君はおでんの紙皿と串を目の前に掲げて

「いただきました」

 そう挨拶した。

 それからまた杏の前に顔を出す。

「なぁ、食べ終わってごちそう様って偉そうじゃね?俺がいただきましたって言ったら東京じゃ皆笑うんだぜ。いただきますって言って食い始めるんだから、食い終わりはいただきましたでいいじゃんか。なぁ?」

 杏は何となく分かった気がした。

「海野君、東京の人に方言を馬鹿にされて戻ってきたんでしょ?」

 海野君はフンと顔を背けた。

「ちげーよ。Uターン就職。親が帰って来いって煩いからさー。試しに試験受けたら受かったんだ。ま、こっち残ってるヤツもそこそこいるし、それもいいかなって」

「あ、そ。そりゃ良かったね」

 試しに試験受けて受かるなんて運のいいヤツ。そう言えば中学の時もそうだった。勉強してないと言いながら、テストの度にヤマカンが当たった〜と喜んでたっけ。


 と、スマホの時計を見て杏は慌てる。

「あたし行かなきゃ!じゃ、またね」

 ま、もう会うことはないだろうけど。

 カッコよくなっていた初恋の相手に、ほんのちょっぴりだけ後ろ髪を引かれつつ、杏は駿府公園の中の事務所という名の、実態はプレハブの作業準備小屋へと飛び込んだ。

「ごめんなさい。遅れました!」

 リュックを控え室に放り込んで現場に戻ろうとする。

 が、何故か海野君が付いて来ていた。

「ここ関係者以外立ち入り禁止なんですけど」

 そう声をかけたら、向こうで休憩してた現場の先輩が立ち上がってこちらに歩いてきた。

「お疲れ様です。では、午後も宜しくお願いします」

 そう言って、海野君に頭を下げる。海野君は頭を下げ返した後、杏に向かって、さっきまで食べていた紙皿を出した。

「ゴメン。悪いけどこれ、うっちゃっといてくれる?」

 はぁ?自分で食べた分くらい自分で棄てなさいよ!

 そう言いたかったけれど、先輩の手前、言えずに渋々紙皿を受け取ると控え室のゴミ箱に放り込む。

現場に戻って先輩にこっそり聞く。

「あの人誰ですか?」

 海野君は作業監督の説明を受けていた。

「市だか県だかの人。視察かな。午前中もいたじゃん。見てなかった?」

 杏は首を横に振る。

「とりあえず何か聞かれても黙って笑顔で頷いておいて」

「はぁ」

 杏は返事をして、また作業に戻った。

 発掘は地道な作業だ。そしてひどく神経を使う。でもやっている内に没頭してくる。この地で昔に生きて動いていた人たちの息遣いが聴こえてくるような気がするのだ。埋められてしまった石や器達が、ここだよー。早く見つけてー。と呼ぶ、声なき声。待っててね。今、見つけてあげるよ。そう返事をしながら丁寧に土を掬っていく。


 そこへ無遠慮に近付いてくる足音。杏は目を上げた。掘り進む内に溜まる泥水を溜めて置いたそこに迫る黒い革靴。

「あ、そこ、みるい(柔らかい)から踏まないで!」

 叫ぶも黒靴は見事そこに足をかけ、ズルッと滑った。


ズダダン!


落ちてくる紺スーツの男、いや海野君。

「いって〜」

 杏の目の前で尻餅をついた海野君は立ち上がり、

「みるいって久々に聞いたな」と笑って杏を見下ろした。

「つーか、もっと前に言えよ。うわっ、ひでえ。もっとおぞい靴履いてくりゃ良かった」

 そう言って、靴の泥を気にする海野君。

「靴の前にスーツの心配したら?」

冷静に返したら、海野君はチラと杏を見て

「でも、お前もドブにハマった時、濡れた尻より靴の心配してたじゃん」

そう言いやがった。

「あれ、知り合いだったの?」

先輩に聞かれ、杏は小さく、小中の時の同級生です、と答えた。


何で現場にスーツで来るかなぁ」


着替えにと男性用作業服を渡しながら杏は嫌味を言ってやる。

「あーあ。あと少しでお宝を見つけてあげられそうだったのに」

「今日は役所に挨拶行ってから現場に入ったからだよ。あんな足下が悪いと思わねぇもん」

 愚痴る海野君に、はいと杏は手を出した。首を傾げる海野君の手の中のスーツをひったくる。

「何すんだよ?」

「すぐクリーニングに出さないとスーツが駄目になっちゃうでしょ」

海野君は、あ、そうかと言った後に

「お前、餡のない空っぽアンパンマンだったくせに随分しっかりしたな」

昔から変わらない大きな声で言う。

その後、職場での杏のあだ名がアンパンマンになったのは言うまでもない。


仕事終わり、何故か海野君が追っかけてくる。

「おい、あんころ餅。わさびソフトクリームってまだ売ってんの?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る