ツツジの花陰で黒ハンペンを君に

山の川さと子

1 あんころ餅


「おい、あんころ餅。ツツジって毒あるんだぞ。お前、死にたいのか?」


 春になり、ツツジが咲き出すと思い出す。駿府城の石垣とお浅間さんへ向かう細い路地。

 小学生の遠足コースで何度も歩いた。お浅間さんの周りは浅いドブ(側溝)になっていて、綺麗な水がサラサラと流れていた。緑の藻の陰にオタマジャクシやザリガニがいないか覗き見ながらゾロゾロ歩く。

「みんな、よそ見しないのよ。落ちたら危ないからね」

 担任の先生が後ろから声をかけるのを聞きながら、側溝の脇の細い石道を並んで歩いていく。

 側溝の上には所々に軽く木の板が蓋のように一応被せてあったけれど、オタマジャクシやザリガニは、大抵そういう蓋の下に隠れているから、皆は歩きながら先生の目を盗んで板を持ち上げたり下ろしたりして歩いて行く。

 お浅間さんに着いてお参りし、その向こうの臨済寺を目指す。臨済寺は徳川家康が竹千代と呼ばれていた頃に人質として暮らしていた寺だ。この寺で竹千代はたくさん勉強したから偉くなったのだと、そういう話をする為に毎年初めての遠足の行き先は大抵ここだった。

 帰り道、行きと同じ道を戻る。でも学校に着かないと給食はないし、疲れてお腹が空いていた。ふと目に留まるピンクの花影。お浅間さんの周りを廻らせてある柵から明るい緑の葉に守られるようにして可愛いピンクのツツジがたくさん顔を覗かせていた。杏はツツジの花の蜜を吸うのが大好きだった。子ども達の行列からそっと横へとはみ出して手を伸ばす。うちっちの庭のツツジより大きくて甘そう。

 そっと腕を伸ばし、手をパーに大きく広げて一番大きな花の首元へ指を伸ばす。落としちゃいけないのは斑点のついた上の花びら。ここに蜜がいっぱい溜まってるのだ。真ん中のめしべには用がない。


 杏は懸命に手を伸ばしてプチンと花びらをガクから外し、めしべを残して周りの花びらだけを抜き取った。綺麗なピンク色のラッパ型のツツジの花びら。

「あ、いーけないんだ、いけないんだ!」

 男子の声に驚いた杏は足を踏み外してドブに落ちてしまった。


バシャン!


 音と同時に靴の中に水が入ってくる。慌てた杏は足を滑らせて尻餅までついてしまった。

「落ーちた、落ちた。あんころ餅、落ちた。ドブにドブスが落ーちた」

 男子が囃し立てる。


 杏の名前は望月杏。チビで丸顔の杏は、男子にあんころ餅とあだ名されていた。先生が駆け付けて側溝から引き上げてくれたけれど、男子の囃しは収まらない。杏は恥ずかしさと、お尻、いやその中の下着まで濡れてしまったショックとで涙が零れそうになった。でもここで泣いたらもっと囃されるだけ。必死で堪える。靴を脱いで、入り込んだ水を捨て、ついた水を少しでも払おうとつま先の方を持って振る。おろしたての新品だったのに。お母さんに何て言おう?

「杏ちゃん、大丈夫?」

 駆け寄ってくれる望月忍ちゃん。同じ苗字だけど親戚じゃない。望月という名は1クラスに一人くらいいるのだ。忍ちゃんは杏の濡れたリュックと水筒を持ってくれた。

「ぎゃー、ぶしょってー。泥だらけのあんころ餅、しんころ餅、こっち寄んな。あっち行け!逃げろー!」

 そんな男子に向かって、忍ちゃんは杏の水筒の紐を掴んでブンブンと振り回すと男子を威嚇する。

「あんたら、杏をいじめたら、このあたしが承知しないよ!」

「こらー!そこ喧嘩しない!」

 先生が叫んだ時、バシャン!と派手な水音が立った。

「お、スゲー!みんな見ろよ!バカでっかいザリガニ発見したぞ!」

 一人の男子がドブに飛び降りて、その手にザリガニを掲げ上げていた。

「こら!海野君たら、わざと落ちたわね。早くザリガニを捨てて上ってらっしゃい!」

 先生が叱るけれど、海野君はザリガニを放さない。

「ほら、スゲーだろ?」

 得意げにニカッと笑う。

 確かに真っ赤で大きなハサミのザリガニだった。近所の田んぼでは滅多に見られない立派なその体格。一気に海野君はヒーローになった。

 杏は濡れたお尻が目立たないようにリュックを微妙に下げて背負い、もじもじしながら学校まで戻った。急いで体操服に着替える。

お尻はまだ冷たいけど替えの下着はない。我慢する。

「このザリガニ、クラスで飼おうぜ」

 海野君が言って、後ろの棚に置いてあった小さな水槽に入れた。

「生き物係が給食のご飯粒を毎日やるんだぞ。分かったな?あんころ餅」

杏は仕方なく頷いた。飼育小屋のウサギの餌やりがしたくて生き物係になったのに、何でザリガニの世話までやんなきゃなんないのさ。そう言ってやりたいけど、海野君にそんなことを言う勇気はない。海野君は活発で口が立ち、手も足も早くてすぐ喧嘩を始める元気な子。杏が文句でも言おうものなら、きっともっと変なあだ名をつけてひどくいじめられる。


「ところでさぁ、もじもじあんころ餅。お前、ツツジの蜜を吸おうとしてたのかぁ?」

 ほら、もじもじが追加された。

 海野君に問われ、おどおどと頷く。

 すると海野君はニヤッと意地悪そうに目を細めて言った。

「ツツジの蜜って毒あるんだぞ。死にたいのか?」

 え?

「大きくて綺麗なツツジには毒があるって聞いたぜぇ。手足が痺れて息が苦しくなってバタンと倒れるってさ」

 杏は思わず口を押さえてトイレへと飛び込んだ。

 途端、響き渡る海野君の笑い声。

「バーカ!だまされてやんの。バッカじゃん!あんころ餅の頭の中は餅じゃなくて空っぽかよ。お前のあだ名は今日から中身を食われちまったアンパンマンだ。分かったな?」


 杏は泣いた。泣きながらズルズルと水筒を引きずって下校する。水筒の底はボロボロにおぞく(古く、汚く)なり、お母さんには叱られるしお尻は気色悪いし、お父さんにはお漏らししたのかと笑い飛ばされるし、サイテーな一日。何より海野君に笑われたことが、いっとうショックだった。だって杏は海野君のことが気になっていたから。


 海野君のお家は、広いお庭のある大きな家。そこの角っこの大きなツツジが一等甘いと近所の子たちの間では評判で、杏は一日に一個だけ、こっそりと貰いに行っていた。

 でもそれから杏はどこのツツジの蜜も吸わなくなった。忍ちゃんもお母さんもこの辺のツツジは皆吸ってるし大丈夫と言ってくれたけど手が伸ばせなくなった。


 やがて杏は高校を卒業して大学生になる。

 杏は地元の大学に進んだ。初恋の海野君はどこか遠くの大学に行ったらしい。悪戯ばかりしてたけど頭が良かったから、いい大学に行って、そのままそっちで勤めて地元には帰って来ないのだろう。

 杏は小さな頃から好きだった歴史の勉強を続けていた。周りの友達は短大や専門学校に進んで次々と就職していったけど、杏は親に頼み込んで修士に進ませて貰った。

 だが二年後に就職難に遭う。専門が専門だけに働き口がない。何とか面接は受けても採用されない。大学にも残れずにドン詰まる。


 でも捨てる神あれば拾う神あり。

 駿府城再興の為の調査の臨時雇用に採用されたのだ。一週間程働いた後のお昼休憩の時間、杏はお浅間さんにお礼参りに出かけた。

 側溝はもう蓋がされて暗渠になっていた。ザリガニはきっともういない。でもお浅間さんの周りにはツツジの花が顔を覗かせていた。それを横目で見ながら通り過ぎる。大きな鳥居をくぐり、堀とその向こうの城の石垣を左に見ながら途中のベンチに腰を下ろす。

 朝に握ってきたマグロの角煮おむすびをリュックから取り出して一口かじる。

 午後はまた作業だ。楽しいけれど、窮屈な姿勢で陽に当たりっぱなしだからバテる。明日はもっと大きな水筒にしようかな。

 と、声をかけられた。

「そこ、空いてます?」

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