第6話 終

 はい、春夏秋冬と四季を巡って語っていったが、これでお終い。


 雪が溶けはじめて、梅の花が咲けば春の訪れ、あたたかな春の陽気に花が次々に蕾をつけて虫は飛び立ち、鳥が飛ぶ。長い食物連鎖の階段が四季と共に巡っていく。


 春が過ぎれば焼けるような夏がやってくる。今だからこそ灼熱の大地を歩く羽目になっているが、命を焼かれようとも夏が楽園であることに変わりはない。感性の一番鋭い幼少期にどのように触れたかが大人としての磁気となるだろう。素晴らしい時間を夏と共に。


 夏が過ぎ、ゆっくりと冬の準備が本格化して忘れた頃に訪れるような短い秋。なくなったように存在の薄さは観賞用の季節を迎えれば数日の季節のように意見を変える。葉も実も人だけのためではないが、生きるだけの価値に余裕を持ったからこそ、秋が美しく思えるのだろう。


 秋が過ぎて冬はやってくる。暖冬だったり極寒だったりするが、富士山に見える雪を年中見ているからこそ、雪を見ている。冬眠してじっと待つのが生き方か、休眠の合間に生きる命がないこともないこの世の中で、絵のような鮮やかな赤を見つけることはできる。




 さてまとめの四季を書き終え、あなたの思っていた景色と違う景色が見れたら嬉しい。しかしこれはやっぱり私の思う四季の流れの印象を書き記したものであり、人それぞれ思うところは当然違っていい。私は人よりは自然に重きを置いている。勿論それは人工の自然も含め、自然がすぐ隣になんの気兼ねなしにあり、季節を感じて四季が四季としてある日常生活の当たり前の在り方だ。人の中にある自然と自然の中にある自然と自然そのものでは形が全く違う。管理されているものは我々が美しいと評価するように作られ、原風景と名高い棚田はそこに住み、今もお米を作っている人々がいるからこそ成り立っている。もしも人が去り、誰も管理しなくなれば耕作放棄地として草は伸び、木は生え荒れ果て、そこに過去あったことを残しつつ自然に還っていく。山道も誰かの手がなければ道がなくなる。娯楽のために管理された美しさを自然と呼ぶかは、自然に意味を持たせすぎな気はある。


 けれど人間のために繁栄する植物を利として活用し、生きていくのも食べるだけに生きるよりは心のある私たちにとって必要な生き方なのでしょう。


 豊かを知ったらそれなしにはもう生きていけないのだから。

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四季 吉枡ニンジン @nisigaki257

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