第4話 秋

 さて9月、新学期の秋となる。


 秋といえば紅葉、紅葉狩り。私はそう一番に思いつくが、秋といえば食欲の秋とかスポーツの秋とか読書の秋とか色々推進しているものはある。今でこそ春に移動した運動会から各地での奉納祭や文化部の一大行事の文化祭など、地域一色譚で駆り出される行事が連なっている。


 しかし、夏の暑さが長引いて全然涼しくならないなんてザラにある日々、暑さ寒さもお彼岸までなんて死語になりつつあるのかもしれない。お彼岸だけに。


 でも夏の暑さがまだ残って気温が下がりにくくなっていても、ヒガンバナが道端な田んぼのまわり、線路沿いに咲いているのを見ると秋なんだなと秋であることを再認識する。彼岸花は独特の形をしており、毒を持っていることで有名である。死や不吉を連想しやすい花だが、花言葉は至って情熱ともあり至って情熱的である。しかし、一途で転生ともあることや形が炎の燃える様に見えることが地獄や死後の世界に繋がるように咲いているように連想され広まっていった。


 死、それは誰にでも訪れるものだ。お墓参りに行くのは秋のお彼岸だと小学生の時に思っていたが、お彼岸は春にもあるし、夏にはお盆もある。なんならいつでもご先祖さまのお墓を訪ねることはできる。流石に夜中は入れないが、ご先祖さまが繋いできたから今の私がここにいるということを認識も考えて生きていかなければならない。けど、後の代に残すべきでない負の遺産と捉えられる場合もある。それは生まれ育った故郷を離れて管理する者がいない、故郷の家も住む気がない状態でお墓は忘れられていく。お墓を建てる時役所に届け出をするから誰の物なのか区分単位で所有者が決まっている。墓地問題は所有地を含め非常に厄介なのだ。だから個人所有の墓地より共同墓地の方が後腐れないのは確かである。


 ヒトであり生きとし生けるものはいずれ死を迎える。それをかなしむのか、よろこぶのかはその時の感情は人それぞれだが、感情を持って社会を作り上げてきた人間は何を最後に思うのか。その生き様に悔いがないようにしよう。


 地獄の沙汰も金次第、金があれば天国に行けるなんてそんな甘い話はない。ただ刑罰が軽くなるだけかもしれない。極楽浄土を望むのならそれ相応の人生を横臥するのだ。


 はい、本筋に戻してお月様のお話をしよう。中秋の名月のようなお月様の前にお月見団子とススキを供える行事がある。豊作を感謝し、来年も豊作であることを祈願するためお月様に見立てたお月見団子と稲の代わりとして魔除けのススキで飾り付けして、スズムシの声を聴きながら月見を楽しむ。余談だが、月でウサギが餅をついているというのは元は月うさぎ伝説からきているそうだが、桃太郎やカチカチ山、浦島太郎、さるかに合戦といった馴染み深い童話なら子供の頃に絵本として時代によって展開は異なる場合があっても筋書きは同じなのでなんとなく理解はあるが、月うさぎ伝説というの馴染みがない。しかも終わりがうさぎの自己犠牲であるから子供ウケはしない。ウケを狙っている話ではないが、月でウサギが餅をついていると教えられ、そればなぜだと思うよりは月の模様がそう見えたやウサギが可愛いことをしていると思うだけでなぜ?という本懐に辿り着かない。そこは余談を深く知りたい方向けなんだろうと思う。


 10月に入れば秋の大運動会も目前といったところだろうか。昔は10月10日が体育の日として固定祝日だったが、今は移動している。元々その日が記録上晴れの多い日として体育の日を背負っていたが、今は休みが増える手助け係として落ち着いている。まだまだアッチッチーな運動場で裸足の子もいたりしたが、クラス対抗リレーに玉入れ、借り物競走、騎馬戦にダンスや組体操。百足リレーや二人三脚なんかもあったし、お父さんの活躍イベントとして保護者リレーがある場合もあったので種目としては相当多い。朝は場所取りで早朝から来ている方もいるぐらい試合を見に来ているという気持ちであった。クラス対抗リレーは自主練をする子もいて足に自信のある速い子が一番を競い合うメインイベントだったかなと思う。組体操は事故が起きる可能性が一番高いのにしている場所もある。盛り上がりはあるが意地になっている面の方が大きい気はしている。その年の運動の成果を競う大会に見栄の意地を表すのは見苦しい気もする。


 続いて休みなしに秋祭りとしよう。稲が黄金色に輝き、今年も色々あったが漸く今年のお米が収穫できるということを神様に感謝するお祭り。お米だけでなく山の幸全般にいえる農作物は農家の方の苦労があってできているが、豊かな自然がなければそれすらできない。そうやって人間と自然が共にあることに当たり前であることを感謝しなければならない。秋祭りには神輿を引いて地域内を歩いだり、青年団が神輿を担いで境内を回ったりする。この神輿、過疎化が進む地域だと担ぎ手がいないから別の地区から人を雇ったり、出稼ぎに来ている外国人労働者に酒などの名目上で手伝ってもらったりして伝統を守ろうとする地域もある。神輿の大きさや飾りの派手、神輿に乗って太鼓を叩く子供などは地域によって様々だが、派手であれば派手であるほど神様は喜ぶ、大きければ大きいほど力も必要である分強さが見せつけれると、非日常となるハレの日のためにお金を使うのは造形の複雑さや大きさに重きを置くのはわかりやすくある。私の地元は昔ほどもう田んぼも畑もない。だけど毎年秋にお祭りを開催する。神社も由緒あるという有名な神社ではないが、ずっと神輿をお祭りを守ってきた。神社自体がもう辞めようという話も出たこともある。でも義理人情で続いている。今年もやろうと言うその人たちは非日常を楽しみたい、酒を呑んで馬鹿騒ぎしたい名目はある。けど、次世代も減って屋台も減って活気も年々落ちてきている地域だが、なあなあでやり続けている現状、いつかは終止符を打たなければならない日が来るのかもしれない。


 これは夏祭りの話だが、私の地元の獅子舞は夏祭りの時にあるから秋祭りにする所も含めての話だ。私の地元の獅子舞は本当に凄い。私にはこの獅子舞の凄さは本当は分からなかった。でも本当にそれが良いと思うなら残そうと動くべきなんだろうとは思う。


 お祭りと神社と地域の在り方は複雑である。口頭伝承で続いてきたものは存在があやふやだからかえるのも簡単だ。無理矢理続けるのがいいも限らない地域のお祭りは今、どう向き合うべきなのだろう。


 はい、続いて文化祭の話である。学生の、主に文化部主体の祭典。吹奏楽部や演劇部、合唱部、軽音部などは体育館などのステージで公演と人を集めて盛り上がることができる。写真部や科学部、茶道部、同好会などは展示を主に研究発表や体験を行う。運動部や帰宅部はクラスごとに何かしたり裏方に徹したりするが、ドラマや漫画などの華やかなイメージが強い。事実は小説より奇なりというようにまとめられたお伽話の中より現実はゴタゴタしているだろうけれど外部から人を招き入れることもできる唯一の行事としては学校の良さを知ってもらわなければならないとという真面目な考えはなく、羽目外しではしゃいでいる方が多く思う。


 さて、10月満月を眺め、ハロウィンを形上して、紅葉の時期を迎える。光合成を終えて散る落葉樹が増えていく頃、青かった葉は茶色く萎むように小さく丸まる前に赤色や黄色に変わっていく広葉樹。一般的にモミジやイチョウの葉を指して山々の鮮やかさを楽しむ行事である。山一面が真っ赤に染まる光景は青一色の夏が終わり冬も間近だと実感できる。街路樹として存在する場合も多い広葉樹、同じ通りに植えていたとしても日光の当たり具合や土壌の具合によって葉の色付き加減や葉の落ちる時期は違う。葉が落ちて、木枯らしが吹けば葉が踊る。掃いても掃いても終わらない掃除にうんざりするなんてことあったりなかったりする。こんなに掃除が大変なのに落葉樹を植えてまで季節の移ろいを楽しむ、上を見上げて鮮やかな色付きの葉とくすんで落ちた葉。どこをどう見て楽しむのはその人次第。一面の葉は人のためにはない。樹のためにある葉を自分たちのためにあるように楽しみ秋を終える。


 空が曇りがちになり、晴れも珍しくなる暮れ。木枯らしが北風に変わり、冬将軍を呼んでいるように鳴いている。寒さと雪のたたかう冬は目前である。



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