『穏やかなる願い』(本編前アルファーダ)

 灼けつくような太陽が、じりじりと渇いた大地を照らしていた。そこに泉が在ったのだろうと思われる大きく窪んだ跡が見える。

 しかし一滴の水もそこには流れていなかった。

「……おいで。戻っておいで」

 青年が祈るように呟くと、ふわりと風が流れるように淡い輝きが泉を包む。穏やかな。どこまでも優しい光だった。

「大丈夫。もう、"あれ"の力をここには届かせない」

 再び青年の声が響く。その声に力を得たように、枯れ果ててひび割れた泉の中央から僅かな水が染み出してきた。

 その水が淡い輝きにつつまれた風にふれて、さらなる水を呼ぶ。しばらくすると、枯れていた泉にゆるゆると。澄んだ水が溢れるように湧き出していた。

「…………」

 その様子をほっとした様子で眺めながら、けれどもどこか辛そうにイディアは翡翠の瞳を細めた。町はずれとはいえ、自分がつくった町の中で異変が起こる事など今までにはないことだった。

「この泉が枯れるとは。あの男の……塔の力が強まっているのか?」

 そう呟いた青年の額環サークレットに填められた翡翠石が鈍い輝きを宿す。その輝きに和すように、頭の奥で熱く凝った憎悪の声がまるで苛むように心の内で響いた。

「大丈夫だよ……風伯」

 わきおこる憎悪の念を鎮めるように深くゆっくりと息を吐きだして、青年は己の肩にとまる純白の鳥の優雅な羽毛を優しく撫でた。

「イディアさまーっ!」

 不意につきぬけるように明るく元気な声が聞こえ、祈るように泉を見つめていた青年はゆっくりと立ち上がって声の方を見やる。

 いかにも一生懸命という様子でこちらに駆けて来る少年の姿を認め、イディアの瞳に笑みがこぼれた。

「そんなに急いで、何かあったのか、リュー?」

「はいっ!」

 元気よく返事をしてから、リューヤはその応えがどこか見当はずれだったような気がして、ぺろりと舌を出す。

「あっ。いえ。何かあったってわけじゃなくて、えっとー」

 何を話していいのか迷ったように、少年はぽりぽりと頭のうしろを掻いた。特に何かがあったというわけではなく、ただ単にイディアに会いに来ただけなのだ。

「左京が、ここの泉が枯れたって言っていたから……」

 トリイの町に湧き出る泉のひとつが枯れてしまったのだと、左京は言っていた。周囲を海に囲まれたこの町では泉は大事な飲み水の供給源でもある。

 だからこそ、イディア様は絶対にそこにいるだろうと考え、リューヤは走ってきたのだ。

「おまえも泉のことが心配だったのか? 大丈夫。もう、水は戻って来ているよ」

「よかったあ。イディア様が戻してくださったんですね! あ……でも、おれ実は泉が心配っていうよりも……イディア様がいらっしゃるかなって思ってきたんです」

 えへへと照れたように笑いながら、リューヤは正直に言う。

 イディアはくすりと笑った。翡翠のようなふたつの瞳にゆるりと優しい笑みを広げ、くしゃくしゃと少年の頭を撫でる。

 この子供の率直さが、イディアは好きだった。

「そうか。では、一緒に戻ろうか。小夜や左京も待っているだろうからね」

「はいっ」

 泉が枯れたのは自分のせいだと気に病んでいた小夜を安心させるためにも、早く戻ってあげたい。薄い藤色のローブを風になびかせるように、イディアはリューヤの背をぽんっと軽く押して歩き出した。



「イディア様……本当にありがとうございました。泉の水を枯らせてしまって……なんとお詫びすればいいか」

 切なそうに黒い瞳を潤ませて、小夜はうつむいた。白い小袖に緋袴といういでたちの少女は、この神の島といわれる『トリイの町』の巫女だった。

 自分がしっかりとしていれば、流月の塔の影響など受けるはずがないのだと小夜は己のふがいなさが申し訳なく思う。

「おまえのせいではないよ」

 イディアはふわりと笑みを浮かべた。

 泉の水が枯れたのは、これまで以上に流月の塔の力が強まったからだ。そして"その力"を抑えるべきは彼女ではなく、自分の役目だった。

「町は強力な結界になる。だが、それ故に"彼"は多くの生命力を得る為に吸収する力を強めたのだろう……」

 ふと翡翠の瞳を細め、イディアは輝く太陽に目を向ける。その太陽の下に佇んでいるはずの白く輝く"月"の存在を思い浮かべ、軽く唇を噛んだ。

「イディア様……」

「大丈夫。私は町を造り続けよう。町が増えれば、その分結界の力も強まる。そうすれば塔の力も、いつか追いつかなくなる」

 悲しげに自分を見つめていた小夜の髪を軽く撫でて、イディアは再び笑った。

「はい……私にも……些少ながらそのお手伝いをさせてください」

 イディアの優しい笑みに安堵したように、沈んでいた小夜の桜色の唇がほのかな笑みを浮かべる。

 敬愛するイディアの役に立つことが、彼女にとっての願いだった。

「小夜さーん。イディアさまー! 何してるんですか? 早くこっちでお茶にしましょうよー」

 ふと、朱塗りの回廊の向こうでリューヤの元気な声がした。

 そういえば、泉から帰ってきたあとリューヤは喉が渇いたといい、それなら高舞台の前で海を見ながらお茶にしようと左京が話していたことを思い出す。

 おねだりをするような、待ちくたびれたようなその声音があまりに可笑しくて、イディアも小夜もくすくすと笑った。

 急いで回廊を抜けて高舞台に向かうと、リューヤと左京が既に四人分の飲み物を用意して待っていた。

「……ここでゆっくりするのも久しぶりだな」

 高舞台の欄干に寄り掛かるように海を眺めながら、イディアはやんわりと目を細める。いつ見ても海の中に佇む朱塗りの鳥居は美しいと思う。

 ましてや海に浮ぶかのように建てられたこの社殿は更に美しい。

「いつでもいらしてください。俺も小夜も……皆も喜びます」

 精悍な頬にあざやかな笑みを浮かべて、左京はイディアを見やった。アルファーダを守り育んでくれるこの神の御子を、町の人間が歓迎しないわけがない。

「そうだな。……ありがとう」

「俺もパルラも、イディア様が一緒だと嬉しいですよっ」

 負けじとリューヤは元気よく叫ぶ。イディア様が好きな事に関しては誰にも負けないぞと言いたげなその表情に、みな、声をそろえて笑い声を上げた。

「そうだ。左京、笛を聴かせてくれないか?」

 ふと、イディアは斜め前に座す青年に声をかける。その精悍そうな顔に似合わず、左京が笛の名手だということを思い出したようだった。

「よろこんで」

 にこりと笑んで、左京は飲んでいたお茶の椀を下に置いた。懐から美しい拵えの龍笛を取りだして、そっと口許にあてる。

 深く澄んだ音色が生み出され、やわらかに吹く潮風にのってゆうるりと辺りをつつみこんでいく。

 それがなんという曲なのかイディアは知らない。けれども、とても優しい音色だと思った。

「…………」

 このまま穏やかな時が続けばいい。

 このアルファーダがいつまでも優しい時を過ごせるように。

 アルファーダの生命が、安らかな眠りを得られるように ―― 。


 イディアは笛の音色に身をまかせるように瞳を閉じ、そう願う。

 そのイディアの祈りを天に届けるかのように。澄んだ音色はゆるゆると風にのり、蒼く広がる空の中へと溶けていった。 


---『穏やかなる願い』 おわり

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