『古木の記憶』(魔術研の過去話)

 この木が花をつけると思い出す。

 まるで天から降りそそぐように咲き乱れる美しい薄紅の花弁は、大切な思い出を心の内にあざやかに甦らせてくる。

 どんなに月日が流れても、毎年この花が咲く頃に ―― 。



「ティア、出掛けよう。良いもの見せてやるよ」

 窓の外を眺めていた幼なじみが突然振り返ってそう言ったので、ティアレイルは目をまるくした。

 つい先程、ティアレイルは魔術研究所の入所式を終えたばかりだった。

 新しく入所した導士たちそれぞれに個人の研究室が振り当てられ、ようやくティアレイルはこの部屋に落ち着いたのだ。

 いつまた魔術研の幹部たちに呼び出されるか知れないし、それにまだ慣れない部屋を自分の使いやすいように、いろいろと模様がえなどもしたい。

 ティアレイルは軽く蒼銀の髪を揺らすように頭を傾けた。

「まだ、勝手に動き回るわけにはいかないよ」

「大丈夫だって。入所式が終わったから、今日はもう何もない。俺が入所した時もそうだったからな」

 生真面目な二歳年下の幼なじみに、アスカはにやりと笑った。

 この魔術研究所というのは、世間で思われているよりも意外にアバウトな組織なのだとアスカは思う。

 確かに魔術研はレミュールとそこに住む人々に対して、やらなければいけないことも多く在る。なにせ、世界を動かす二大組織のうちの一つなのだ。

 けれども、そんな任務や責務を担うのはアカデミーの上層部と、総帥からその都度任命を受ける一部の導士だけであったし、何も任務についていない時などは月一回の定例研究会議にさえ出席すれば、あとは自由に好きな研究をしていれば良い。

 たまにレポートや提案書などを出しておけば、上出来というところだ。

 さすがに総帥は所員すべての状況や能力をしっかりと把握しているらしく、それぞれに見合った役割を与えてくるので、むやみにサボることはできなかったけれど、アスカはつい先日任務が終わったばかりなので、しばらくは自由なはずだった。

「今日入ったばかりの新入所員に、何か任務を与えてくることなんかないだろうしな。安心して出かけようぜ」

 とても心地好さそうな、雲ひとつない晴れた青空を指し示しながら、アスカはもう一度ティアレイルを誘う。

「やっぱり、あっちゃんって不良所員だよね。このあいだ総帥が言ってたよ。アスカ導士は能力はあるのに他の所員よりも今ひとつやる気が少ないのが惜しいって」

 くすりとティアレイルは笑った。

「まったく、あの人もいらんことをティアに言うよなあ」

 アスカはちぇっと溜息をついた。

 一年ほど前から総帥が、ティアレイルに魔術研究所に入るようにと勧めていたのは知っていた。

 その熱望ともいえる強い勧めを受けて、ティアレイルは十七歳という若さでこの魔術研に入所することになったのだ。知らないわけがない。

 けれども、そんなに親しく話をしていたとは意外だった。

「まあいいや。じゃあ、俺は出掛けるけど、ティアは行かないんだな?」

 少しからかうような笑みを浮かべて、アスカはティアレイルを見た。そうして、ゆっくりとドアの方へと歩いていく。

「総帥が手ずから植樹した花木があるんだけどな。そっか、ティアは見たくないんだなぁ」

「 ―― !?」

 ティアレイルが総帥に心酔していると知っての言葉だ。アスカもなかなか意地がわるい。案の定、翡翠のような緑色の瞳が慌てたように揺らめいた。

「……総帥の花なら、見たい!」

 そう言うのが分かっていたのだろう。部屋から出ようとしていたアスカは楽しげに笑って振り返り、早く来いと手招きをする。

 ティアレイルは一瞬迷ったように視線をさまよわせると、先ほど支給されたばかりの真新しい魔術研の白い制服の上着を手早く着込んでからアスカの後を追った。

「やっぱ、おまえって可愛いねえ」

 尊敬する総帥の花を見に行くのに少しでも正装しようと思ったのだろうか。そんなティアレイルの行動が可笑しくて、アスカは肩を揺すって笑った。



 魔術研究所の敷地内をずっと奥に進んでいくと、中央聖塔の最上階に設えられた総帥室とは別に、総帥個人が私的に所有している研究室がある。

 総帥以外はほとんど人の通らないような静かなその場所に、目的の樹木はあった。

 たくさんあるわけではない。ただそこに一本だけ。その木は佇んでいた。

 けれども、その一本の幹から緩やかな曲線を描くように広範囲に伸ばされた柔らかな枝に、慎ましやかな風情で、しかしとてもあでやかに花をひらかせている。

 この木だよと、アスカが教えてくれる前から、ティアレイルはその樹木をつつむ花の美しさに見とれていた。

 近づくにつれてほんのりと香る優しい匂いと、空から大地に降りそそぐ滝のように咲き誇る薄紅の花びらが、ティアレイルの心を捉えて離さなかった。

「なかなか壮観だろ。さっきティアの研究室からちょっとだけ、このてっぺんが見えてさ、この木がここにあることを思い出したんだ」

 アスカは楽しそうに笑った。

「これ、なんていう花なんだろう?」

 幹まわりが十メートルはあろうかという太い根元にたどり着くと、ティアレイルは降りそそぐように舞う花弁を手のひらにすくいながら、アスカの顔を見上げて訊いた。

 今までに、見たことのない花だった。

「名前は俺も知らないよ。このあいだ偶然この花木を見つけただけだからな」

 ぺろりと、アスカは舌を出した。

「え? じゃあ、総帥が植樹した木だって言ってたのはあっちゃんの嘘?」

「いや。嘘っていうか、勘かな。この花の名前とか種類をいろいろ調べてみたんだけどさ、似たようなのはあってもこれと同じ植物はなかったんだ。だから総帥のオリジナルなんじゃないかと思っただけさ」

 悪びれもせずにそう言うアスカに、ティアレイルは呆れたように溜息をついた。

「でもこの花、たしかに総帥と同じ気配がするから、案外あっちゃんの言うことが正しいのかもね」

 にこりと翡翠の瞳に笑みを浮かべて、ティアレイルはあたりを見わたした。

 そこに総帥の研究室があるからなのか、それともこの花木が在るからなのか。この周囲には、総帥の魔力が満ちているような気がする。

「オリジナルではないよ」

 ふと、背後で柔らかな声がした。

 二人が驚いてうしろを振り向くと、理知的に閃く黒い瞳と同色の長い髪が印象的な、和やかな青年が立っていた。その背の真ん中あたりでゆるく結ばれた漆黒の髪が、ふうわりと風に遊ばれている。

「シホウ総帥!?」

 名を呼ばれて、青年はにこやかに笑った。

「これはね、タキザクラとかシダレザクラとか、そんな名前だったかな。本当はあまりここの気候には合わないんだけれどね、少し改良して移植したんだよ」

 青年は軽く花を見上げると、やんわりとその黒い瞳を細め、そしてティアレイルたちに視線を戻す。

「樹齢千年以上経つ、私の一番好きな花だ」

 そう言う口許に、どこか寂しげな微笑が浮かんでいた。

 けれどもすぐに和やかな眼差しを取り戻し、総帥はいたずらっぽく笑った。

「ティアレイル導士は、この花を見に来たのかな? まだ、新入所員には自由行動を許可してないんだけどな」

「あっ! すみません!!」

 慌ててティアレイルは頭を下げた。総帥の顔を見れば怒っていないことは明らかだったけれど、やっぱりまだ部屋から出てはいけなかったのかもしれない。そう思うと気が重くなった。

「すいません総帥。俺が無理に連れてきたんですよ」

 アスカは幼なじみの肩に軽く手を置くと、ぺこりと総帥に頭を下げた。

 自分のときは入所式のほかには何もなかったけれど、もしかしたら今年は特別に何か他にも行事があったのかもしれない。

 まじめに恐縮してしまった二人の導士に、青年は破顔した。

「ごめんごめん。冗談だよ。入所式は終わったんだから、行動するのにいちいち私の許可など要らないさ」

 くすくすと笑いながら、総帥は近くにあったベンチに腰掛けた。そうして、ほっとしたように笑顔を見せる若い導士たちに、こっちにおいでと隣の席を指し示す。

 ティアレイルは嬉しそうな表情を隠そうともせず総帥の隣に座り、アスカは可笑しそうにその横に腰掛けた。

 総帥はくすりともう一度笑うと、目を細めるように薄紅の花を眺め、そうして隣に座す少年に視線を落す。

「君たちは、千年という歳月を想像できるかな?」

 その黒い瞳に不思議な眼光を宿し、彼は二人の導士をゆっくりと見やった。

「千年か……。このレミュールに人が住み始めるよりずっと昔ってことですよね」

 アスカは軽く天を仰ぎ、ややして小さな溜息をつく。その膨大な年月の流れを想像してみると、途方もなく自分が小さな存在に思えた。

「そっか。じゃあ総帥の……タキザクラでしたよね。これは、僕たち人間がレミュールに住みつくよりも前から、この地のどこかで咲いていたんですね」

 ティアレイルは翡翠のような瞳を驚きの色に染め、大きな息をひとつ吐き出した。

「あまりに流れていく歳月が大きすぎて、千年ってうまく想像できません」

 敬愛する総帥の問いかけに応えられない自分がもどかしいというように、ティアレイルは蒼銀の髪を軽く揺らした。

「私にも、千年なんて想像がつかないさ。でもね、この古い木がその生命の内に刻み込んでいる記憶をほんの少しだけなら、感じることができるよ」

 穏やかな微笑を浮かべてそう言うと、青年はゆるやかに立ち上がり、古木の声を聴くように瞳を閉じる。

「いろいろとね、自然はその流れゆく歳月を記憶しているものなんだよ」

 やんわりとまぶたを開き、魔術研究所の総帥である青年はティアレイルを、そしてアスカを見た。その黒い瞳には、どこか痛々しいような哀しいような、ほんのわずかな陰りが燻っているような気がした。

「僕にも、聴こえるようになるでしょうか?」

 ティアレイルはあでやかに咲き誇る古木を眺めるように、翡翠の瞳をゆるやかに細めた。今はまだ、風のざわめきしか聞こえない。

「君たちなら、聴こえるようになる。きっとね」

 総帥は、にこりと笑った。

「ティアレイル導士。焦らずにゆっくりと。魔力ちからを開花させていきなさい。君はおそらく誰よりも優れた術者になることができる。私などを遥かに超えた……ね。ここ何十年も存在していない大導士称号さえも手にすることができるかもしれない」

 青年はほんの少しだけ、苦しげに眉根を寄せた。

「でもね、このアカデミーすべてが真実だと思わないことだ。視野を広く持って、自分の考えをしっかりと持ちなさい。アカデミーというしがらみに囚われずにね。その上で己の魔力を開花させていくことが、きっと君たちのためになるはずだ」

「……はい」

 ティアレイルは神妙に頷いた。あまりに総帥の表情が真剣で、それ以外に返事のしようがなかった。もっと気の利いたことが言えれば良かったとも思うけれど、それにはまだティアレイルは十七歳のほんの少年でしかなかった。

「俺も一事に凝り固まった人間にはなりたくないですし、やっぱ視野は広く持たないといけませんよね」

 アスカはうんうんと納得したように頷くと、にやりと笑ってみせる。

 そんな二人の異なる反応が可笑しかったのか、思いつめたような眼光が穏やかさを取り戻し、総帥は楽しげに目を細めた。

「以上が魔術研究所総帥である私から君たちに贈る、人生における教訓かなっ」

 茶化すように青年は大きく伸びをして、和やかな笑みを目許ににじませる。その言い方がなんだか可笑しくて、ティアレイルもアスカも声をあげて笑った。


 ふと、降りそそぐように咲き誇る花の向こうから人の呼ぶ声がして、三人の視線がそちらに向けられる。

 ティアレイルたちがいるのと反対側の花かげに、金糸の髪の男が苦笑を浮かべて立っていた。

「会議をサボって花を見に来たのが、ロナにばれたな」

 自分を迎えに来たらしい友人に、総帥は悪戯を見付かった子供のようにぺろりと舌を出して、肩をすくめて見せる。

「ゆっくりお茶でも飲もうと思ったんだけどね。そんな時間はないらしい」

 おどけたように軽く片目を閉じると、二人に冷たいグリーンティーの入ったボトルをぽんっと手渡した。

「じゃあ、私はもう行くが、君たちはゆっくりしていきなさい」

 にこやかに言うと、総帥は流れるような漆黒の髪を風に遊ばせながら、ロナのほうへと歩いていった。

「シホウ総帥、ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げて、ティアレイルは尊敬する総帥を見送った。

「なあ、ティア。おまえシホウ総帥に随分と期待されてるんだな」

 アスカはくすくすと笑って言った。

 この幼なじみが大導士称号を得て人々の上に立つ姿というのはどうにも想像できなかったけれど、あの総帥が言うのだから、そうなのかもしれない。

 なにせ彼は大導士に最も近い魔力を持つ者として、准大導士の称号を得た総帥であり、現在最も強力な魔術者なのだから。

「うーん。大導士称号とかそんなのはどうでもいいけど、シホウ総帥みたいに、このタキザクラの古木や自然たちの声が聴こえるようになったら良いなと思うよ」

「大丈夫さ。総帥のお墨付きだからな」

 軽く親指を立てて、アスカは可笑しそうに笑った。

 ティアレイルは少しはにかむように、ゆるやかに風になびく薄紅の花を静かに仰ぐ。

 千年もの歳月を生きているというこの美しい古木の、さらさらと流れるような旋律だけが、風の中に聴こえていた ―― 。



 ある日とつぜん精神こころを壊し、狂気の底へと身を堕としたシホウが総帥職を辞してこの世から消え去ったのは、それからたった半年後のことだった。

 そして今も、彼の遺した樹齢千年にも及ぶ大きな古木だけが、魔術研の奥ふかく、そのあでやかな花弁を春空の下に広げている ―― 。


----『古木の記憶』 おわり



***

本編にも何度かちらちらとその存在だけが出てきていた、ロナの前に総帥だった人物と、ティア少年(笑)&アスカの思い出話でした。

いつか、シホウ前総帥の話も公開できたらいいなと思っています。

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