第一章 2話
「どういうことなの、ティアレイル? 月の軌道がずれているって……」
魔術研究所の制服を着た若い女性は、すみれ色の瞳を驚愕に染めて同僚である青年を見やった。
ティアレイルは僅かに呼吸をつくと、視線を天空に向けた。
その視線の先には、柔らかな光を灯す三つの月が優雅に地上を見おろしている。
常に中天に在り続ける『
それらを眺めながら、ティアレイルはゆっくりと口を開いた。
「三つの月のうち、緋月と蒼月が僅かにこの惑星に近付いた軌道を取っている。判らないか、セファレット?」
そう言われて、セファレットは精神を集中させる。
しかし彼女の遠視術では、僅かな月の軌道の変化を定かに見極めることは出来なかった。否、それが出来るティアレイルが普通ではないのである。
彼女とて優秀な魔導士である。しかし、ティアレイルは他の人間が何年もかけて研究し会得するものを、ほんの数日で理解し、自分なりに昇華させることのできる、言わば『超魔導士』だった。
セファレットは諦めたように息をつくと、軽く首を振ってティアレイルを見やった。
「……少し違和感は感じるけれど、私には見えないわ」
「セファレットが見極められないほど微々たる変化なら、気にすることはないだろうか」
ティアレイルは目の前にいる女性をよほど評価しているのか、そう呟く。自分を基準にする事の愚かしさを、ティアレイルは知っていた。
それでもなお、月軌道の変化を見過ごす気にはなれないでいる自分が、ティアレイルはもどかしかった。
なぜこんなにも月の軌道を気にしているのか。その理由が自分でわからないのだ。ただ漠然とした不安。こんなことは初めてだった。
ふと、セファレットは何かに気付いたように同僚の顔を覗き込んだ。
「もしかして、それが停電の原因!?」
静かに問うてくるその声に、ティアレイルは柔らかな微笑を浮かべた。
「おそらくね。月の位置関係が崩れたことで、三つの月がそれぞれ発する『ちから』が中和しなくなり、地上の機器に影響を及ぼしているのだろうな。そうでもなければ、科学派のコントロールタワーが乱れるはずはないさ」
その言葉に、セファレットは僅かに苦笑を浮かべた。
普段は否定し、また蔑視している『科学』に対し、ティアレイルは時々肯定的な言葉を口にする。そのことに、自分では気付いていないのだろう。そう思うとセファレットはおかしかった。
「直す方法はあるの、ティアレイル?」
興味深げにセファレットは青年を見やる。
ティアレイルは僅かな笑みを口許に刻むと、中心都市プランディールを挟んで海側に存在する科学技術研究所の明りに視線を移した。
「科学派がこの原因に気付けば、停電への対策だけならすぐに出来るだろうね。だが、もう一つ問題がある。そのことに彼らが気付かなければ、我々は‘明けない夜’を体験することになる」
いつもは温厚なティアレイルの表情が、僅かに意地悪なものに変化する。それに気付いたセファレットは、軽く溜息をついていた。
「相変わらず、科学派には意地悪なのね、ティアレイルは」
普段は優しく温厚なこの青年が、科学派絡みになると、とたんに意地悪くなるのがセファレットには不思議だった。
明けない夜。そんなことになれば、『夜』が『朝』になるのが当然だと思っている人々の間で、どれだけの不安と恐れが生まれることか……。
それが分からないティアレイルではない筈なのに、今の彼は、まるで関係ないというような表情をしているのである。
そんなセファレットの視線に気付いたのか、青年は僅かに瞳を細めた。
「私は、科学派の力が見たいのさ。セファレット・ヴィルトーア・ハシモト導士。彼等がどれだけのことが出来るのか、手を携えるだけの価値があるのか。それを見極めたい。アスカは、彼らと協力していくのが良いという。でも私には、そうは思えないから……」
そこまで言うと、ティアレイルは突然何かに気が付いたように目を見開き、そして天を仰ぎ見た。
今まで自分が気になって仕方なかった朧気な『不安』の正体。それが今、はっきりとわかっていた。
それは『予知』だった。あまりに恐ろしい光景が、彼の脳裏に鮮明な『映像』として送り込まれてくる。それはとても正気で見ていられるような『映像』ではない。
鮮やかに自分の意識に流れ込んでくるその映像。瞼を閉じても見えなくなるわけではなかったが、彼は瞳を閉じずにはいられなかった。
「そう、いうことか……」
ティアレイルは痛々しげに呟いた。ほんの僅かに、その瞼が震えている。
まるで何かを恐れるように、そして嫌悪するように瞳を閉じた同僚を、セファレットは驚いたように見つめた。
こんなにも苦しげなティアレイルを初めて見た。
「……何か予知でもした?」
不安げな表情で、セファレットは青年を見つめた。ティアレイルの絶大な魔力は、今までどれだけの災いを予知したか知れない。
そしてそれに応じた対策を行うことで、彼ら魔術派は勢力を高めてきたのである。
ほとんどの予知者が陥る矛盾。分かっているのに救うことが出来ないという葛藤は、今のところティアレイルには無縁なことだった。
それ程この若い大導士の魔力は、凄まじいものなのである。そのティアレイルが恐れる程の予知ならば、ただごとであるはずがなかった。
ここに来てようやく、ティアレイルが気にしているものが停電などではなく、月軌道の変化そのものなのだということにセファレットは気が付いた。
ティアレイルが気にしているそれに比べれば、停電など取るに足りない出来事であるように思えてくる。
だから……もうすぐ彼の口から伝えられるであろう恐ろしい予知に、セファレットは覚悟を決めるように身構えた。
「何も予知などしてないさ」
しかしティアレイルはそんなセファレットの思いとは反対に、穏やかに微笑んだだけだった。
先程まで浮かんでいた苦しげな表情は、既にどこにも見あたらない。この表情の切り替えの素早さは、さすがだった。
「さて、彼等のお手並み拝見といこうか」
もうすべてを忘れたというように柔らかな笑顔を浮かべ、青年は水をたたえた硝子の器に繊細な指を浸す。
それによって生まれる柔らかな水振動に、何かの『光景』が揺らめいた。その揺らめきがおさまった時、その光景は確かな物となり、水面に現れる。
複数の人間で同じ光景を見たい時に使う、『水』を媒体にした遠視術だった。
その光景を見つめたまま、もう何も言おうとはしないティアレイルに、セファレットは溜息をついた。
一度彼が何かを決めてしてしまえば、心境に余程の変化がない限り、絶対にその意志を変えることはない。先程のティアレイルの言動に関してのこたえを、今ここで得ることは出来ないと悟り、セファレットは肩をすくめた。
無理やりにでも聞き出したいという衝動を抑え、同僚の心境が変化するのを待つように、ゆっくりと隣に腰を下ろし、水面を覗きこむ。
「アスカが手伝っているのか。それなら、もうすぐ気付くだろうな。理論バカの科学派にも」
水面に映る科学派の様子を眺めながら、ティアレイルは溜息混じりにそう呟く。
科学派の手伝いをしていることを非難するわけでもなく、不良所員の実力を評価するような言葉を吐く青年を、セファレットは楽しげに見やった。
この天才的な大導士がアスカを高く評価しているのだということが、セファレットにはおかしかった。
幼馴染みだとはいうが、二歳年上であるアスカの方が、兄的な立場なのかもしれない。二人の関係を見るたびに、セファレットはいつも思っていた。
この、皆に畏敬されている大導士に、頭が上がらない存在がいるというのはどこか微笑ましいと思うのだ。
ふと、水面に映るアスカの視線がティアレイルやセファレットのそれとぴたりと重なった。
遠視されている事に気が付いたのか、アスカの表情は自分のしていることは棚に上げて、悪戯を見つけた教師のように見える。
しかし、その瞳だけはしっかりと笑みを宿していた。自分を遠視しているのがティアレイルであることに気が付いているのだろう。
「気付かれるとは思わなかったな」
自分の気配を感じ取られることに、ティアレイルは慣れてはいなかった。だが気配を感じ取ったのがアスカであれば、仕方がないという気さえする。
彼はもう一度その『光景』を見つめ、そして深い呼吸をついた。
停電対策を練る科学派に興味がなくなったのか、それともアスカに遠慮したのであろうか、ティアレイルは水からその指を引き上げた。
大導士の魔力から解放された『水』は静かに静かに波紋をおさめ、穏やかに、本来在るべき姿に戻っていく。
「……やはり科学技術研究所は、独自では何も出来ないようだ。何故アスカがあんなやつらにこだわるのか、不思議だな」
完全にただの水に戻ったそれを湛える硝子の器を軽く指ではじき、ティアレイルは苦笑した。
人々の生活を支える二つの勢力『科学派』と『魔術派』。
その中で、その功績が日常一般的な物であるという理由だけで人々に高い支持を得ている科学派のその無能ぶりは、魔術派の象徴と言われるティアレイルには許せるものではなかった。
「空気や水……自然を汚染させ、破壊してきただけの者たちが……」
科学派に対する嫌悪感を思い出したのか、ティアレイルは静かに吐き捨てる。穏やかな人柄と知られるティアレイルの唯一の欠点は『異常なまでの科学嫌い』だった。
しかし、その嫌悪が形となって表面に現れるより前に、彼は軽く呼吸をつき、その表情に柔らかな笑みを取り戻す。
「私はもう帰る。……まだ研究所に残っているのなら、他の研究員に月の軌道のことを伝えておいてくれ。明日のミーティングで意見を聞くから」
それだけ言うと、ティアレイルは返事も待たずにさっさと部屋から姿を消してしまう。
月光に似た蒼銀の髪が風のように宙に溶け込んでいく。それは、あざやかな消失だった。
言いたいことだけ言って帰ってしまった自分勝手な同僚に、セファレットは別段怒りを覚えた様子はなく、椅子から立ち上がった。
「また忙しくなりそうだわ。有給休暇は当分おあずけかなあ……」
僅かに疲労を覚えたように、深い溜息を吐きだして、窓際にその身を寄せる。
「月、か……」
そう呟いて、彼女は瞳を夜空へ向けた。
そこには普段と変わりない鮮やかな月たちが、柔らかな光をたたえて地上を見下ろしていた ―― 。
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