殺せる

 子供の頃、どうして人を殺してはいけないのか、母親に尋ねたことがある。すると母は、「誰かを殺して良いということは、自分もその『殺される誰か』にされるかもしれないからよ」と答えた。そのとき私は、自分が殺されるのは嫌なので、他人を殺してはいけないのだと理解した。

 少し大きくなった頃、改めて人を殺してはいけない理由を考えた。私はそのとき、法律で罰せられるからだと考えた。受ける罰はきっと軽いものではない。きっとそれは、人を殺して得られる利益とは釣り合わないだろう。だから私は、罰を受けるのが嫌なので、他人を殺してはいけないのだと理解した。

「今、そいつ殺せるよ」

 私に囁く私の声は、そんなことお構いなしに「殺せる人間」を教えてくる。通行人も、家族も、同級生も、殺そうと思えば誰だって殺せる。だが殺せるだけだ。それは、許される行為ではない。

 でも──お前は違う。

 お前は、殺せる。


 辺り一面に響く笑い声が自分のものだと気づくまで、少し時間がかかった。

「はははははははっ! はははっ! あはははははは!」

 ドレイは想像していたよりも遥かに弱かった。私は金森の持っているナイフを奪い取ると、まず最初にドレイの右脚にナイフを突き立てた。私の脚に、痛みはなかった。

 脚を刺されると、ドレイは悲鳴を上げながら仰向けに倒れた。だから私はすかさずそいつの腹を刺して、そのまま抑えつけられるよう馬乗りになった。

「なぜ、なぜ、どうしようもないはず、お前たちは、どうしようもないはず」

 ドレイが困惑したように問いかける。私はそれを無視して、握ったナイフを何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も振り下ろした。ナイフが肉を刺し、抉る度、ドレイはジタバタと体を動かして逃げようとする。私はそいつの暴れる腕が邪魔なので、片腕ずつ抑えつけて、関節を切り裂いた。そうすると、腕はもう動かなくなった。

「ずっと、ずっと、我慢してたんだ。人は殺してみたいけど、人を殺すのはいけないことだから、ずっとあの声も聞こえないフリをしてきたんだ」

「なぜ、なぜ、どうして、お前、どうしようもない、もう、どうしようもない」

「そうだよ、私はどうしようもない人間だ。だから感謝してるよ。アンタは神様じゃない、殺して良い人だ。私はね、嬉しかったよ……殺しても許される人間! そんな奴が居たなんて! 夢にも! 思ってなかったからぁ!」

 ザクザクとナイフを突き立てると、次第にドレイは動きを鈍らせていった。だが、まだぼそぼそと「どうしようもない、どうしようもない」と繰り返している。まだ、生きている。まだ殺す余地がある。怒りなんてあるものか。これはきっとご褒美だ。今まで人を殺さずに我慢してきた私に与えられた許しなんだ。怒る必要なんてない。今あるべきなのは、感謝の念だけだ。

「ありがとう、私の夢を叶えてくれて」

 近くで見ると、ドレイがどんな顔をしているのかよく分かった。何百年も生きているようなしわくちゃの顔をした老人が、血を吐きながら私のことを睨みつけている。私はその目を見つめ返しながら、そいつの首にナイフを刺し、ぐっと力を入れて切り裂く。大きな血管を切ったからだろう、さっきまでとは比べ物にならない勢いで血が吹き出し、ドレイはそれっきり喋りも動きもしなくなった。

 気がつくと、私は最初に居た和室まで戻ってきており、いつの間にか暗闇は晴れ、窓からは日光が差し込んでいた。一瞬、さっきまでの出来事は全て夢だったのかとも思ったが、座り込む私の前には血を流して倒れているドレイの死体が残っている。手に握ったナイフは鮮血に濡れてぽたぽたと雫を落としており、そんな私の姿を、金森が怯えた目で見つめていた。

「こ、ころ、殺し……た……?」

「……どういうことか、改めて説明してもらおうか」

「ひっ……! ご、ごめんなさい、許しっ、許して! 殺さないで!」

「殺さないよ。私はね、犯罪者にはならないって決めてるの」

 それに──と言いかけて、私は続く言葉を飲み込んだ。

 ずっとやってみたかった人殺しというやつは、やり終えてみると案外、あっさりと終わって楽しいものではなかった。やはり、受けるべき罰と釣り合うようなものじゃない。熱が冷めていく実感を胸に、私は着替えの用意を金森にお願いするのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る