逃げる

 半ば予想していたが、和室の外はまともな屋敷の形をしていなかった。なにもない廊下だったはずの場所が襖に阻まれ、襖を開ければ別の部屋が現れ、別の襖を開ければ今度は長すぎて先の見えない廊下が現れる。まともに走って出口に辿り着けるとは思えず、むしろ出口があると信じることすら馬鹿馬鹿しい。このままでは二度と外に出ることは叶わないだろう。他人事のように、そんな考えが頭に浮かぶ。

「なんなんだ一体……金森は、こうなることを分かってて私を呼んだのか?」

 さっきの金森は、口振りからしてこうなることが分かっていた様子だった。だが、さっきまでの金森にこんなことを企んでいるような素振りはあっただろうか。

 そして、あの背が高い人影。あれは一体なんだ。あれが金森の言う怪異というものなのか。考えても答えが出るわけではなかったが、この状況だ、無駄と分かっていても考えることしか出来ない。

「どうする、逃げ続けるか? 逃げてどうにか出来るのか、これは。そうでなければなんだ……倒す? アレを倒せば解決するのか、この事態は?」

 だが、あのとき聞こえた声は言っていた。。今までにはなかったパターンだ。あの声はいつも、私が誰かを殺せる状況を知らせていた。今回はその真逆だ。警告ともとれるその言葉が、私の中でずっと引っかかっていた。

「どうしようもない」

 声。私は驚きのあまり思わず足を滑らせ、その場で床に転倒した。居る、さっき見た「何か」が、同じ部屋に。

「どうしようもない、お前も、どうしようもない。金に釣られた馬鹿な女、現実を受け入れない愚図、金森の人間は嘘しか言わない、どうしようもない、騙されて死ぬ、どうしようもない、もうお前はどうしようもない」

 部屋の隅、箪笥と壁に挟まれた隙間に立つ、背の高い人影。金森の姿は見当たらない。人影はずっと「お前はどうしようもない」という内容の言葉を繰り返しており、この逃げる場もない窮地において、私の中で憤りが恐怖の感情を上回った。

「いい加減にしろ……っ! 金森の家の事情なんて知ったことか!」

 私を巻き込むな。すぐ近くにあった戸棚を開き、中にあった重く硬い何か──恐らく茶道用の茶碗だろう──を鷲掴みにすると、私は怒りに任せてそれを人影に向かって投げつけた。茶碗らしきそれは真っ直ぐと人影にめがけて飛んでいき、そして、人影のお腹ぐらいの場所へと直撃する。

「ぐっ……ぅ!?」

 瞬間、私の腹部に走る、鈍い痛み。力いっぱい殴られたような、というより、重いものを投げつけられたような、息の出来ない瞬間的な圧迫感。

「どうしようもない、やはりお前もどうしようもない、金森の人間と同じ、礼儀知らずで立場を弁えない、どうしようもない、何も出来ないくせに何か出来ると思い込む身の程知らず、救い難い愚か者、どうしようもない」

 思わず腹を抑えてうずくまる。人影はゆっくりとこちらへ近づいてくるが、攻撃を加えてくるような気配はない。じゃあ、さっきのは一体なんだ? まるで、私がしたことをそのまま返されたような、あの痛みは。

 とにかく、向こうから近づいてくるということは、近づかれたらまずいということだ。私は無理やり息を整えると、人影に背を向けて再び走り出した。何か、打開策を見つけないと、遅かれ早かれ私はあいつの餌食になる。

 廊下、襖、部屋、襖、部屋、襖、廊下、襖。空間が歪んでいるとしか思えない意味不明な構造の屋敷を駆け抜ける。気が狂いそうだ。これが悪い夢で、何かの拍子に目が覚めてくれたらどれだけ幸せだろう。しかし、腹部に残る痛みは現実だ。何か、なんでも良い、この状況を変える何かを見つけないと……。

「……扉?」

 無我夢中で走り続けていた私は、視界に飛び込んだ「違和感」を見過ごせず、足を止めた。扉だ。ここまで襖ばかりだった和室の壁に、場違いな雰囲気の扉がある。屋敷の出入口は磨りガラスのはめ込まれた引戸だったから、これも恐らく、外に通じる扉ではないだろう。しかし、ここに来て現れた未知の存在。一縷の望みをかけるには十分だった。

「ここは、書斎?」

 扉を開けるとそこにあったのは、大量の本棚と1台の机が押し込まれた、狭苦しい書斎だった。相変わらず光源はなく、それでいて部屋の様子は何故か分かる、という奇妙な状況だ。出入り口は私がいま開けた扉だけで、この部屋から別の場所へ繋がっているという感じではない。行き止まりだ。

 ひとまず扉を閉め、私は書斎の中へ入った。本当に、本棚と机だけで埋め尽くされた部屋だ。扉の開閉範囲とその脇くらいしか歩ける場所はない。しかし、気になる物がないわけではなかった。扉の真正面に置かれた、机の上。そこには一冊の日記帳が放り出すように開かれていた。

金森かなもり寿一としかず……金森のお父さん?」

 手に取って表紙を見ると、金森寿一という名前が書かれているのが分かる。こんな書斎を使う人物ということは、家の主、金森の父親と考えるのが妥当だろう。もしくは、金森の祖父か。

 もしかすると、この日記に何か書かれているかもしれない。私はそう考え、日記帳の本文へと目を通した。

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