第4話:ないものねだりの愚か者

 病院の受付で面会手続きを済ませ、目的の病室へ向かう。開け放たれた扉を通って部屋の中に入ると、彼はベッドの上で半身を起こして本を読んでいるところだった。

「おや、いらっしゃい。まだ昼間だけど、また学校をサボったのかい、真理ちゃん」

「行きたくもないしね、あんなところ。でも、進級出来る程度には行ってるよ。それよりも、調子は大丈夫なの、和輝さん。先週来たときは、大変そうだったから声かけずに帰っちゃったけど」

「あー……そうだね、今は落ち着いてるよ。大丈夫か、と聞かれると、はっきり大丈夫とは言い難いけどね」

「……そう」

 本を持つ手はずっと震えている。肉なんてない、骨と皮だけの細すぎる腕。きっと、私が握れば一瞬で折れてしまう。入院着の下を見たことはないけど、きっと内臓が入っているかも怪しいほどに痩せこけていることだろう。その姿は痛々しくて、あまり直視出来なかった。

「学校はね、行った方が良いと思うよ。まあ、ほとんど行ったことのない僕が言うのもおかしな話だけどね。……うん、行けるものなら、行っておいた方が良いさ、きっと」

「そうだろうね、分かってはいるよ、頭では」

 彼と初めて出会ったのは、高校の職場体験授業で病院内保育所に来たときのことだった。

 進級の為に休むことが出来なかったので仕方なく参加しただけの私は、どうにか抜け出す方法はないかと考えながら、中庭ではしゃぎ回る比較的元気な子どもたちの監視を任されていた。監視といっても、トラブルが起きないかを見張っておく程度で、どちらかと言えば遊びに付き合うようせがまれてそれに応えるのがメインの仕事である。子ども嫌いの私にとっては苦行に等しい一日だったが、そんな中で、子どもたちに囲まれながら絵を描く彼に出会えたことは幸運だったと言っても良いだろう。

「すみません、邪魔なようならどかせます」

「いえ、構いませんよ。描いても見る人が居ないもので、見られながら描くなんて新鮮だ」

 当時から彼は健康体ではなかったが、今よりはいくらか活動的だった。自分の足で歩き、自分で筆を持って絵を描くことが出来た。ぐちゃぐちゃとうるさい子どもたちに囲まれながらも嫌な顔一つせず、むしろ微笑みを浮かべさえして絵を描いていた。お世辞にも上手とは言えなかったが、彼が心から楽しんで描いていることだけは私にも伝わってきた。

「そういえば、いつもの保育士さんではないですね」

「ええ、はい。職場体験で来ているので」

「ということは、高校生? そっか、今年もその時期か」

「今年も、ということは、去年も?」

「入退院を何度も繰り返しているんですよ。お陰で、学校なんてほとんど行った記憶がない」

 そう言って自嘲気味に笑う彼の顔は、妙に私の目に焼き付いた。この表情には覚えがある。私の母も、死に際に至るまでいつもこんな顔をしていた。優しくて、強くて、穏やかで、温かくて、それでいてこの上なく、寂しい笑顔だ。

「……やっぱり神サマなんて居ないじゃないか」

 敬虔な宗教家だった母が死んだとき、私は神を呪った。母がこれまでに積み上げた信仰も、父の必死な祈りも、神は母を救うに値しないと切り捨てたのだ。私は神を信じないし、たとえ実在したとしても、この世で最も傲慢な存在だと蔑むつもりでいた。

 私が不良と呼ばれる振る舞いをするようになったのは、母が死んでからのことだった。私は神の不在を、神の無能を、神の不全を証明したかったのだ。この世には悪人が大量に居る。善良な人間が不幸な死を遂げている間にも、悪意に満ちた人間が我が物顔で生きている。私は、自分自身の悪を肯定することで神とやらに背きたかった。私が私の欲望に従って生きること、それそのものが神の無能を証明する汚点になるように。

 母と同じ笑みを浮かべる彼を目の前にして、私は再び神を呪った。こんなに優しい笑顔を浮かべる人間が、こんなに寂しい笑顔を浮かべなくてはいけないのは何故だ。憎悪にも似た感情が腹の中で渦を巻き、同時に、私は彼の助けになりたいと思った。理由はよく分からない。母に似ていた、ただそれだけのことかもしれない。だが、私は私の欲望に従うと決めている。私がそうしたいと思ったのなら、私はそれに従うだけだった。

「……名前、なんて言うんですか」

「僕の名前? 僕の名前は信楽和輝。えっと……君は?」

「私は岸田真理。さっき、絵を描いても見る人が居ないって言ってましたよね。良かったら、私に見せてくれませんか。今までに描いた絵も、これから描く予定の絵も」

「……絵を? 良いけど、そんなに見たくなるようなものかな。そんな大層なものではないと思うけど」

 彼との交流が始まったのは、そんな会話がきっかけだった。それから一年以上、こうして交流は続いているが、和輝さんが絵を描かなくなってから、もう三ヶ月が経とうとしている。

「筋肉の病気だからさ、本を読むくらいならどうにか出来るけど、筆を持つのはもう、どうしようもなくてね。お陰で毎日退屈だよ、やれることが少ないから」

 ベッドの上で、彼はまたあの笑顔を浮かべる。それが一層痛ましくて、私はつい目線を逸らした。

 出来るものならば彼を救いたい。そう思う私は傲慢だろうか。ああ、傲慢なのだろう。身の程知らず、ないものねだりの愚か者。それでも、そう望むことを罪だと思ったことはない。

「ねえ、和輝さん。一つ、頼みたいことがあるんだけど」

「なにかな。僕に出来ることなら、喜んで頼まれるけど」

「最近手に入れたゲームがあるんだけど、セーブデータを作るときにランダムでステータスが変わるんだ。良ければ、和輝さんが作ったセーブデータでゲームを始めたいんだけど……」

 我ながら苦しい嘘。それでも彼は何も疑わずに引き受けてくれる。

 私はバッグからあのゲーム機を取り出し、和輝さんへ手渡した。

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