手箱のヴェリテ toris
馬車から降り立ったシュゼットは手伝ってくれた侍女に軽く礼を言い、
通されたシュゼットを出迎えたのは、店主のクリスだ。
「こんにちは、シュゼット嬢」
「こんにちは、久しぶりね」
「一月ぐらいなら、かわいいものだよ」
気にも止めていなかった様子のクリスは肩をすくめた。
灰髪の青年の案内されるままにソファに腰を落ち着かせたシュゼットは簡単に受け流す。
「そう?」
「一回来たきり、一生来ない方もいらっしゃるしね」
軽やかな口調でほの暗い言葉が紡がれた。
その言葉には反応は示さなかった。同調するには不気味で、否定するのは滑稽だ。
訪れるたびに違和感を覚えるが、理由はわからないままだ。遊びに来ているわけでもない。目を伏せ、見つけてしまわないように気を付ける。
初めに足を踏み込んだのはシュゼットだった。密やかに噂が流れる骨董店、シェ レ シュエットに並ぶものに興味を持ち、買取から売付、交渉を繰り返す。ごく最近にはなるが、何度か繰り返すうちに砕けた口調で話すようにもなった。
歳が近いせいかしら、とシュゼットがぼやくと侍女は顔のあらゆる所に皺を寄せた。彼女に言わせれば、ひどくませているお子様、だそうだ。
上手くは言えないが、子供が店主をしているからといって侮れない。下手に踏み込むものではないと適度な距離を取って商いをしている。
近況や世情の話はそこそこに、シュゼットは本題を切り出した。
「探し物をしているの」
「僕にできることなら何なりと」
茶目っけたっぷりに言ったクリスは子供そのものだ。そう再確認するのも可笑しくて、シュゼットは思わず笑ってしまった。心が軽いまま続ける。
「螺鈿細工の手箱、入っていないかしら? 気に入りをなくしてしまって、困ってるのよ。いいものを探しているのだけど、これと言ったものがなくって」
それを聞いたクリスは珍しく驚いた顔を見せた。大人顔負けの神妙な顔や無邪気な顔ばかり見てきたシュゼットもつられて驚いてしまう。
凡庸な少女が黒曜石の瞳に捕らわれている。そう錯覚させるほど、クリスは興味深そうに目を細めた。
「何も聞かないと約束してくれるなら、ないこともないよ」
「珍しく歯切れが悪いのね」
シュゼットの指摘も意にせず、踊るように立ち上がった店主は背中越しに振り替える。
「見るよね?」
もちろん、と答えるのに数瞬の間が空いた。
店主は奥に引っ込み、シュゼットはソファの背もたれに寄りかかった。背もたれごしには侍女が控えている。普段であれば部屋の隅にいる侍女もこの店にいる時は例外だ。大丈夫だとシュゼットが言い聞かせても聞く耳を持たない。
飲み物を飲んで落ち着きたいと思っていた矢先に机の上にティーカップが現れる。何もない場所から出てきたと錯覚するが、ソーサーを持つ手がきちんと存在していた。確認しなくとも、手の主は灰髪の青年だとわかる。存在感の無さすぎる青年がいきなり現れたと感じる経験が何度もあったからだ。
シュゼットの背に悪寒が走るが、その紅茶が今まで飲んだ中で一番だと知っている。姿勢を正し、平気なふりをして手を伸ばす。ひとくち、ふたくちと腹の中に紅茶を納めていると、部屋の奥の戸が開いた。
「お待たせしました」
部屋に戻ってきたクリスは見覚えのある箱をトレイにのせていた。
漆の上に綺麗に敷き詰められた螺鈿は川で拾った丸い石のように輝く。蝶や唐草に形取られていたピースは際どい所まで切り込まれている。自然界でゆっくりと育まれた模様は見る角度を変えれば表情を変え、色まで変わる。自分だけの模様を誇るように面妖な印象を見る者に与えた。
「ご所望のものは、こちらでしょうか?」
抑揚を控えた声だ。クリスにしては珍しく、商品の価値を饒舌に語らない。
シュゼットは口元を結び、目の奥に感情を押し留める。そうして、ゆっくりと店主の黒い瞳を見つめ返した。
一見、慈愛に満ちた天使のような顔の中心には、地獄の底を切り取ったような双眸がある。
どこまでわかっているか読めない瞳にいただくわとシュゼットは答えた。箱に詰めようとする青年にはこのまま持って帰ると告げる。
客の前にトレイを移した青年は寸分の狂いもなく礼をとった。
蓋を開け、軽く検分したシュゼットは侍女に目配せをする。
侍女から財布を受け取り、青年は店の奥に位置する書斎机で勘定を済ませた。
値段を訊かないのはいつものことだ。双方とも金には困っていない、かつ折り合いのつく金額がわかる。
紅茶を口にしたクリスは視界の定まらない瞳でわずかばかりに背高のあるシュゼットを見上げた。
「なぜ壊れ物の世界を抱くの?」
ぽつりとこぼれた問いは壊れ物のガラスのように透明だ。
息を飲んだシュゼットは握りしめていた手をゆるめた。迷うふりを装って、どう受け流そうか考える。
「お金では買えないものがあるから、かしら。答えになってる?」
「なるほど」
そう答えてはくれたが、黒い瞳は納得していない様子だ。
気の抜けるような穏やか笑みをたたえシュゼットはにぶい刃を切り返す。
「何も訊かないって約束じゃなかったかしら?」
「僕が訊かないとは一言も言ってないよ」
紅茶を飲んだら、減らず口が戻ってきたようだ。
シュゼットも残りの紅茶で喉をうるおす。腹の探り合いでなければ、余計な波風は立てない。それから、余計な口出しをしない。それが父から聞きかじった商売の心得だ。
クリスには全く当てはまらないことだけど。客には何も訊くなと注文をつけて、自分は平然と訊いてくるような横暴が許されるのは、ここぐらいなものだろう。
ため息を腹の中に隠したシュゼットは飲み終えたカップを皿に戻した。侍女が財布を受け取り、その機会を逃さずに立ち上がる。
「新大陸の呪物や、希少な剥製が入荷したけど、見ていく?」
店主の軽やかな誘い文句にシュゼットは困ったように手を方に当てた。
「これから大事な予定があるの。ごめんなさいね、
「予定があることはいいことだよ。いつも暇をしている僕達にも分けてほしいぐらい」
「謙遜が下手ね」
笑みを含んだシュゼットの言葉に、そう?と同じだけの熱を乗せた言葉が返された。
手箱を抱きしめるように持ったシュゼットが踵を返せば、礼儀を忘れない店主は扉近くまで見送る。
「よい一日を」
「ええ、貴方にも」
綺麗な笑顔に返したシュゼットは青年が開ける扉を抜けた。通りの喧騒がやけに眩しく感じる。肩の力を抜いて、待たせていた馬車に乗り込んだ。
走り出して早々に侍女に持たせていたブローチをもらい、裏返した手箱に狙いを定めた。底にまで及んだ装飾には一つだけ小さな穴が紛れている。ブローチのピンをそこに差し込めば、手箱に感覚が伝わった。正面に戻した手箱の蓋を開ける。底板の影から二つの封筒を見つけたシュゼットは知らず知らずの内に溜めていた息を吐き出した。
「よかったですね、見られなくて」
侍女の安堵した声にシュゼットは情けなく笑った。
「わからないわよ。だって、あの店主だもの」
投げやりな言葉であっても、安堵の色が濃い。
念のため封筒の中身まで目を通したシュゼットは封筒を元にあった場所に置いた。挟まないような最新の注意を払いながら底板を戻す。贈り物をした婚約者も知らない仕掛けだ。
厚い底板を引いているだけと勘違いさせるぐらいの隙間を見つけたのは、寝る前に手箱を眺めている時だった。異国の工芸品はいくつも見てきたけれど、今、手の内にある手箱はそのどれよりも輝いて見える。その理由に頬が熱くなるのを自然に冷ましていると、ランプの光に反射する妙な穴を見つけた。瞬きすれば、勘違いかと思えるような装飾に紛れた穴だ。ブローチの針の先で突けば、二重底の
「読まれていたら、生き恥ね」
そう呟いたシュゼットは指の腹で手箱を撫でた。
「読まれたら、よかったのに」
馬車が大きく揺れた音と声が重なる。
侍女は表情で問うたが、返されたのは冬晴れに似た穏やかだがひやりとする笑顔だった。
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