手箱のヴェリテ deux

 金木犀の香りが漂う茶会から、一度だけ招待をはさんで一月ほどたった昼下がり。クレーニュ通りに入った馬車はゆっくりと速度を落とした。

 国一番の銀行にのびる通りは綺麗に石畳が敷き詰められ、乗り心地も快適だ。銀行帰りに休憩できるカフェや堅実な貸付け屋が軒を並べ、近くの高級商店街パサージュに向かう人もまじり華やいでいる。

 カーテンの隙間からその様子を眺めていたフェリシエンヌの目に一羽の梟が飛び込んできた。ブロンズでできた、かなり年期の入った代物だ。

 その梟が降り立つ扉の前で、馬車は静かに止まった。

 フェリシエンヌが何を言わずとも、侍女が前に進み出て梟の扉を叩く。看板は見当たらない。扉が開かないので留守だろうかと近くの窓から中を盗み見た。

 レースカーテンの向こうで小さな体躯が通りすぎる。開けられた扉から、思ったよりも低い位置に笑顔が現れた。そこには、葡萄酒色ともとれる深い赤髪に黒い瞳を持つ子供が立っていた。十歳を過ぎたぐらいだろうか、少なくとも十五歳になるフェリシエンヌよりも年下だ。


「こんにちは、ご令嬢。お待たせして申し訳ございません」

「ごきげんよう。ちょっといいかしら」


 フェリシエンヌの挨拶に、もちろんと頷いた子供は店に招き入れた。


「申し訳ないのですが、使いに出しているのでお茶を準備する者がいないのです。もうしばらく待てば帰ってくるとは思います。十分なおもてなしがご用意できず、申し訳ございません」


 子供の言葉にフェリシエンヌは心の中だけで首を傾げた。さも従業員のような振る舞いをするが、目の前の子供の方が使いっぱしりに最適な気がする。自分の感覚がずれているのかと後ろの侍女に顔だけを向ければ、控えめな困惑顔が見てとれた。

 物腰やわらかな子供が二人を席に案内し、自身も席についた後に、胸に手を当てる。


「はじめまして。この骨董店シェ レ シュエットの店主、クリスと申します」


 ガラス張りのショーケースも壁を埋め尽くす程の威厳に満ちた絵画も霞んで見えるほどに、クリスの存在は花があった。馬鹿みたいな話をしたが、商売人の顔はしている。

 フェリシエンヌは蹴落とされないように胸を張って顎を引いた。店主か使いっぱしりかを見分けにきたわけではない。


「フェリ、と申します。壊れたものでも買い取ってくださると聞いたのだけれど、本当かしら」


 自分の名が知れては困る。一回限りの縁だと割りきり、よくある名前で通した。手放すことが目的なのだ。

 昼前にも口の固い贔屓ひいきに持ちかけたのは同じ内容だ。うちでは取り扱えない品だとここシェ レ シュエットを紹介された。紹介されたと言っても、流れてきた噂をそのまま伝え聞いただけだ。何でも買い取ってくれるという噂の骨董店は呪いの品で溢れている、借金のかたばかり並べている、国宝に至る物まで扱っている、など。いかがわしい老舗は、同業から『鳥籠キャージュ』と気味悪がられていた。迷いはしたが、名前も知られていないような奇異な店ならば、足がつきにくいだろう。昼食を食べる気にもならないので、贔屓の店の帰りにそのまま馬車を向かわせた。

 店主の表情も発音も立ち振舞いも申し分がない。子供、という点を抜きにして、けちをつけるとしたら底の見えない黒曜石の瞳ぐらいだ。相手に畏怖の念を抱かせるのは商売人にとって欠点と言ってもいい。

 フェリシエンヌのうろんな目にも、クリスは笑いかける。


「度合いにもよりますが、何でも・・・買い取らせていただいています。早速ですが拝見させてください」


 淀みない答えに、フェリシエンヌは眉間を寄せたのは一瞬のことだ。クリスには気取られないようにすばやく機微を隠し、侍女に目配せする。

 進み出た侍女は出されたトレイに包みから出した品を置いた。包みをたたみ後ろに下がる。

 商人を相手にすることも慣れているはずのに、フェリシエンヌは心細さを感じていた。底の見えない店主を前にして怯えが沸き起こっている。それでも、ここまできて逃げ帰るわけにもいかない。手袋をした店主が依頼品をトレイごと持ち上げ眺める様を息を潜めて見つめた。

 ほぅとクリスは物珍しそうに吐息をこぼす。


「東洋の手箱てばこですね」


 そうね、と固い返事には感心をしめさず、詫びを入れた店主は手箱を持ち上げた。幾度も見る位置を変え、言葉を紡ぎだす。


「黒漆に螺鈿細工の唐草と舞い踊る蝶がほどこされた繁栄と長寿を願う縁起物ですね。厚貝と薄貝の組み合わせが憎いぐらいに調和して、真珠貝の輝きも夜光貝の虹色も星が瞬くように美しい。清廉な夜に月の妖精が舞っているようです。壊れているのは……ああ、この傷ですか? 螺鈿についた傷ですね。漆や螺鈿を扱える職人は限られていますが、ご心配は無用ですよ」


 手箱に向けられていた視線がフェリシエンヌに向けられた。

 深淵を望めない瞳を隠すことなく、存分に活かした店主は問いかける。


「直すだけでも構いませんが、どうされますか?」


 何もかも見透かされているような心地だ。フェリシエンヌは手の甲を撫で、焦る自分をなだめた。相手は何も知らないはずだと言い聞かせ、すました顔を作る。


「壊れているし、いらなくなったから売りに来たのよ」

「……なかなか見ることのできない代物です。後悔は、しませんね?」


 子供とは思えない気迫は決意をにぶらせる力を持つ。

 指の先が白くなる程に揃えた手を握りしめていたフェリシエンヌはゆっくりと瞬きをした。瞼の裏に映る友の姿を無視をする。店主の言葉の裏に何かが隠されている気もしたが、もう引き返せない。

 先日、シュゼットの家に再び招待され盗みを働いたのは、他でもないフェリシエンヌだ。友人の部屋で馬車を待つ間に、一時だけ一人になった。たまたま目についた手箱から目が離せない。羨望と劣等が手箱を望み、手土産を包んでいた布に隠して持ち出した。家に帰りついて、暗い優越感に満たされたのもまた事実。自分の浅ましさを神が裁いたのだろう。ただ置き換えようとした際に傷をつけてしまった。本当にちょっと当てただけ。盗ったその日の晩のことだ。情けなくて、悲しくて、隠そうと思った。家にあっては何かの拍子に見つかるかもしれない。砕こうとも、燃やそうとも思ったが、彼が向けていたはにかむ笑顔が躊躇わせた。せめて、目の前から消そうと売りに出たのが今日だ。

 愚かなフェリシエンヌは、売られたことだけが知れて二人の仲が割ければいいとも考えている。そんな夢みたいなことが起こるわけがないとも理解していて、友をあざむく自分も、男の不幸を願う自分も認めたくなかった。できるのであれば、その心も売り払いたい。

 漆と同じ底の見えない瞳に見つめられ、フェリシエンヌは手箱に囚われている自分に気付いた。

 きっと、この螺鈿細工の手箱のせいだ。これが目に映るから、睦まじい二人をどうしても思い出してしまう。

 知らず知らずの内に身構えていた姿勢を正した。令嬢は慎重に息を吸い、声が震えないように努める。


「構わないわ。買い取ってくださる?」


 フェリシエンヌの強い意思に店主は頭をたれた。子供がするには不似合いな、上位の貴族だけが見せるような完璧な笑顔だ。

 その笑顔を遮るように影ができる。


「遅くなり、申し訳ございません」


 石像よりも硬質で無機質な声と共にティーカップが差し出された。急に現れた存在にフェリシエンヌは悲鳴を上げそうになる。


「ご苦労様」


 クリスの労いに灰髪アッシュブロンドの青年は頷く。黒の上下のスーツを身にまとう姿は近寄りづらさを助長した。

 客には聞こえないような小言で指示を出した店主は茶を進めた後、自身も優雅に口にする。

 フェリシエンヌは飲む気にならず、ショーケースを眺めた。宝石、貴金属が半分を占め、残りは懐中時計や白磁の瓶、きらびやかな手刀と雑多な内容ではあるが整然と並べられている。噂通り、何でもありそうだ。どれが盗品か国宝級なのかはわからないが、気を紛らわすにはちょうどいい。壁一面を多い尽くすような絵画に移り、目のいいフェリシエンヌは一番の高い位置にある絵を見つけた。

 古びた絵には赤髪の子供二人が描かれている。店主かとも思ったが瞳が菫色だ。年格好から、兄妹と思われたが双子かと思うほどにひどく似ている。一人は無邪気に笑った顔、一人はどこか悲しげに笑った顔。相反する笑顔に胸が締め付けられる。

 短くとも長い時間が過ぎた。

 一心に眺めていたフェリシエンヌは扉の動きに気付かない。


「フェリ様。こちらでよろしいでしょうか」


 その言葉で我を取り戻したフェリシエンヌは意識してゆっくりと視線を戻した。

 手箱ののったトレイの横に、もう一つ同じものが並べられている。

 壊れているとはいえ、螺鈿細工の手箱に相応しい金額だ。

 フェリシエンヌは鷹揚に頷いて、侍女に金を仕舞わせた。


「よい一日を」

「ええ、よい一日を」


 一日の大半は過ぎてなお、二人で礼儀をさらい、フェリシエンヌは店を後にした。

 踵を返そうとしたクリスは引かれるように動きを止め、灰髪の青年は片付けを始める。

 食器が当たる音も響かず、静けさに音がついてしまいそうだ。

 黒曜石の瞳は面白そうに細められ、静かに問いかける。


「壊した世界に何が残るのだろうね」


 その言葉は扉の外に出たフェリシエンヌには届かなかった。

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