[第3回]『なぜ壊れ物の世界を抱くの?』
手箱のヴェリテ un
あたたかい日差しと清涼な風が
レースをたっぷりとあしらったドレスを嫌みなく着こなしたフェリシエンヌはティーカップを置いて、振り替える。
「すごく素敵な香りがするのだけど、何かしら」
「……ああ、金木犀です」
何処かぼんやりとしていたシュゼットは言葉の意味をかみ砕き、飲み込んで理解してからゆっくりと答えた。
常日頃なら、ねぇと応えを催促する所だが、香りに気をとられたフェリシエンヌは聞き慣れない言葉に瞬きする。
「きんもくせい?」
「ほら、あそこの、アプリコット色の花をつけた木ですわ」
シュゼットの指差す先を追いかける。
青々とした葉をつけた一本の木があった。大人には及ばないとはいえ、同年代の子よりの背のあるフェリシエンヌより頭二つ分の高さがある。高さの半分程の広がりを見せる枝や葉の下一面にアプリコット色の花びらが落ちていた。絨毯のようにも見える落花は色を落とし始めた芝生に映える。
「散り時でこれだけ素敵なのだから、盛りを見てみたかったわ」
フェリシエンヌの言葉にうーんとシュゼットは困った顔をする。
「数日前は、むせかえるほどに香りが強かったですよ」
控えめな言い方ではあるが、はっきりとした言葉だ。
フェリシエンヌは優雅に見える所作でティーカップを持ち上げ、向かいに座る少女へ目線を戻した。
栗色の髪にヘーゼルの瞳から平凡と見られがちなシュゼットは大人しい印象を与える。おっとりとした口調や平民の出であることも相まって小馬鹿にする令嬢もいるぐらいだ。
しかし、フェリシエンヌは知っている。見た目に反して、計算高いと。だからこそ、貴族の中で上位のフェリシエンヌにも物怖じせずに微笑む。
二人で微笑み合う中、三段プレートが陣取るテーブルに小皿が追加された。
蜂蜜のより薄い色の蜜にアプリコット色の花が浮いている。
フェリシエンヌが目だけで問えば、シュゼットは企んだ顔を垣間見せる。
「金木犀のコンフィチュールです。フェリが喜ぶかと思いまして」
何も考えてないようなぼんやりとした笑顔でこういうことをしてのける。退屈な日常に飽き飽きしていたフェリシエンヌは、食えないことをするシュゼットに気を許していた。
「準備のいいこと。紅茶に入れてみましょ」
わざと気取った言い方で牽制して紅茶に溶かす。くるくると回すごとに香りが広がり、熟しきった柑橘を思い起こさせる甘やかな香りを苦味の効いた香りが引き立てる。口に含み、鼻にぬけると胃の腑だけでなく、心も満たされていった。ゆるやかに残るそれが気分を落ち着かせる。
「これ、いいわね」
「気に入ってもらえてよかったです。試作品を作りすぎたので、お土産に致しますね」
シュゼットの穏やかな微笑みは答えがわかっていたようで、言葉は滞りなく紡がれた。
「商品にまでこぎ着けましたの」
「もう少し、という所でしょうか。父は自分の店に娘のお遊びが加わっても何も言いませんわ」
貴族があくせく働くなんてと顔をしかめられるような言葉がシュゼットからこぼれ落ちた。
フェリシエンヌは器用に片眉を上げ、軽く肩をすくめる。令嬢らしからぬ行動もシュゼットなら目をつむる。
「都一の商会は仕事が速いのね」
「時は金なりとはよく言ったものです」
フェリシエンヌのわざとらしい称賛もシュゼットには効きが悪い。貴族の小競り合いに慣れた令嬢はいつもこうやって無意識な返り討ちにあう。
うすら笑いがにじみ出たフェリシエンヌは誤魔化すように紅茶を口にした。
茶会を終えた二人は玄関で別れの談笑をしていた。そこへ一台の馬車が滑り込み、少し離れた場所で停車する。二人が注視する中、青年が降りてきた。
シュゼットが、アルが来る予定なんて会ったかしらと呟く。
歩いてくる青年をフェリシエンヌはよく知っていた。女が嫉妬しそうなほど艶やかな黒髪に深緑の双眸、鼻筋の通り均整のとれた顔は健康的に焼け、快活さを見せる。人目をさらう青年はフェリシエンヌの前まで来ると、恭しく礼を取る。
「フラゴナール嬢、ご機嫌麗しゅう」
「ごきげんよう、アラン様」
挨拶の延長で微笑みあって、アランは隣の幼馴染みに視線を移す。
「やぁ、
「照れくさいわね」
おっとりと微笑んでいた瞳から、人形のそれと同じように感情が欠如した。
反対に、アランはおどけるように肩をすくめる。
「仕様がないだろう、人前なんだし」
「名前で呼んでよ。なんなら、シュシュでもいいわ」
「やけに幼稚な呼び方をさせるな。からかってるんだろう」
フェリシエンヌを放って、ささやかな口喧嘩が始まった。それでも名前で呼び合うことに落ち着くのはすぐのことだ。
フェリシエンヌは二人が羨ましくて仕方がなかった。自分が結婚する時は、ほとんど初対面のまま何も知らない相手になるだろう。仮に彼と距離を縮め契りを結べたとしても、先祖や両親に、領民に見せる顔がなくなってしまう。貴族には貴族の役割と使命がある。貴族が平民を相手に色恋はしてはいけない。
そうだとわかっているつもりなのに、心は思い通りにならないのだ。自分という存在が何処にいるのか何のためにあるのか唐突に不安になる。我慢する必要があるのか、と
すぐそばで交わされる小さな会話もひどく遠いもののように思えた。それなのに、ずるがしこい耳は音を拾う。
「フェリシエンヌ様がいらっしゃるの。後にしてちょうだい」
「珍しいものが手に入ったから渡しに来ただけだって」
あのね、とわずかに声を荒げたシュゼットを止めたのはフェリシエンヌだ。
「私のことなら気になさらないで。もう帰るだけですもの……あら、何を持っていらっしゃるの?」
「つまらないものですよ」
「本当、謙遜がお上手ね。船を持ち、海をも商売の手段に使うお家がつまらないものを持ってくるとは思えないわ」
頭をふるアランを言いくるめるのもフェリシエンヌにはお手のものだった。下手なことを言っても、貴族という立場でいくらでも手玉にとれる。
アランは少しだけシュゼットを見て、商人特有の人好きの笑みを顔にのせた。
「はるか東、砂漠の向こうで手にいれた物です。海の宝とも呼ばれる貝をあしらった
「まぁ、揶揄もお上手なのね」
フェリシエンヌは物を言わせぬ笑みで言ってやった。
アランの瞳は少女を写しているのに、僅かに諦めの色がまじる。手にした包みの中は愛しい婚約者にあげる贈り物だろう。
それを
強欲な貴族を前にして、大商会の子息、子女は精巧な仮面をかぶっている。
金木犀の香りが鼻孔をくすぐった。
フェリシエンヌは開きかけた口から細く息を出し、吸い込んだ香りが黒い感情を押し流していく。
「今日はよしておくわ。シュゼットから素敵な贈り物をいただいたから満足しているもの」
フェリシエンヌは無理に友の顔をして、馬車に乗り込んだ。
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