[第2回]『飛べない鳥に勇気は要るか?』
剥製のマンショ un
船乗りの父は何よりも海が好きで、水が無ければ息もできない魚のように旅に出る。海風よりも自由で、秋の空よりも読めない人。それでも、父の周りは笑い声が絶えない。
母が死んだ時も、海に出ていた。明くる日にたまたま帰ってはきたが、母の体はすでに冷たい。泣き疲れて声も出ないイヴァンを前にしても逝ったのか、と小さく呟くだけだった。
イヴァンは鞄に入るだけの荷物を詰めさせられ、父に手を引かれて家を出た。
家の解約と埋葬を終えた足で船に乗り、父はからりとした笑顔でイヴァンが同乗する許可を取る。悲しみにくれる暇もなく父と子の旅が始まったのだが、奔放な父が子の世話を焼くことはなかった。どこまでも自由な父は出来合いの食事をイヴァンに用意するだけだ。船長とカードゲームに興じ、調理場で芋の皮を剥き、船首で鼻歌まじりに空を見上げる。太陽が沈まない内から、海では船員達と、港では初めて顔を合わす者達と飲み交わした。夜とも朝とも言えないような時間にベッドに潜り込むような日ばかりだ。イヴァンが酒くささに呆れた顔を見せれば、早く酒が飲めるようになればいいと笑った。
父は何処にいても、何処に行っても屈託のない人だ。言葉が通じないはずなのに、身振り手振りで伝え、生来の笑顔ですぐに肩を組む仲だ。どんな場所でも、
そんな父に引け目を感じていたイヴァンは働ける歳になって、船を降りる決意をした。話をしようにも、自分のことをできるようになった息子を放って飲み歩く男は捕まらない。自由な父を待つことは止めた。
陸に足を着けたイヴァンは条件のいい下宿に入ることができ、父とは違う生活を送り始める。
半年も過ぎればもう一生会うこともないだろうと思っていたのに、皮鞄を下げた父が現れた。神の目こぼしにも恵まれている男はイヴァンの部屋の隣を間借りして、そこを宝物部屋だと、胸を張る。
お宝一号だ、と豪語して、ごとりと置かれたものは黄ばんだ白と黒の置物だ。
「なんだよ、それ」
「お前、剥製を知らないのか?」
「……知ってるけど」
「知ってるなら聞かなくてもいいじゃぁないか」
「見たこともない動物だから聞いたんだよ」
これはな、と父が顎を上げた。そこまで言って思い直したのか、からりと笑う。
「教えないことにする。答えはお前が見つけろ」
父は人を試す癖があった。イヴァンにはこれが顕著だ。
一気に興味を失った息子は部屋から出ていこうとする。
「興味ないから教えなくていいよ」
「ヒントはなぁ……飛べない鳥、だなっ」
茶目っ気たっぷりの言葉を背中だけで聞いたイヴァンは手を翻し、扉を閉めた。
どんなことも堪えない父は三月分の家賃を先払いして海に戻る。一月で姿を見せることもあれば、家賃の支払いが切れる前日に現れ、平気な顔で手を振った。
対の手には必ず得体の知れないものを持っており、あの部屋に押し込められる。天井に及ぶ面や、怪しげな模様の書かれた本。宝石が散りばめられた硝子細工を見た時はさすがに問い詰めずにはいられなかった。
イヴァンがどんなに凄んでも、もらったと涼しい顔で返されるだけだ。盗られたと怒鳴り込んでくる者もいないので、放っておくことにした。
一人ではつまらないだろうに、父は不気味な石像に腰掛け酒をあおる。
扉の隙間から様子を伺っていたイヴァンはその視線の先には必ず白と黒の剥製がいることを知っていた。
飛ばないらしい鳥はいつも窓の傍らにいる。まるで空に焦がれるように外を見つめる姿が痛々しくて、劣化してはいけないと理由をつけて布を被せていた。
息子の思惑を暴くようにその布は父によって剥ぎ取られる。
調べても、下宿の者に訊ねてもわからない鳥を相手に父は寂しそうな横顔を見せた。
今なら教えてもらえるかもとイヴァンは扉を押し開ける。
「そんなにその鳥が好きなのか」
「母さんに似てるからな」
父はイヴァンの方を見もせずにとぼけた返事をした。信じられないものを見る目を向けられても、可笑しそうに笑う。
「つぶらな目をしてるだろう」
「最後も看取らなかった奴が何を言ってんだよ」
「死に目に立ち会えるっていうのは、大事なことなのか」
「好き勝手に生きてきたくせに、えらそうなこと言うなよ」
「じゃあ、てめぇの人生を他人に任せるのか?」
何かを求める瞳は海の境のように未知で溢れていた。
「飛べない鳥に勇気は要るか?」
苦笑した父が静かに問いかけた。鳥に向けられたはずの言葉がやけに響く。
「お前も飲むか?」
いつものようにかけられた言葉にイヴァンは思いっきり顔をしかめ、今までと同様にいらねぇよ、と背を向ける。その態度に空笑いが返されることも知っていても振り替えることはできなかった。
泥棒が入っても何を取られたか分からない部屋になるまで月日は変わらなかった。
白と黒の鳥はいつも窓の外を見つめている。
気付けば、ごった返した部屋の管理もイヴァンの仕事の一つになっていた。
═•⊰❉⊱•═
ミモザが咲き始めたその日、河は灰色だった。古びた桟橋がのびる船着き場は花とは縁遠い男達と荷物で溢れている。
夜が明けても、雲で埋まった空は薄暗い。
時に罵声が飛び交い、荷物が乱暴に投げられる。それを横目にイヴァンは仕事を進めていた。
黒い煙が細く立ち上る蒸気船は急げとばかりに音をかき鳴らし、ぎりぎりの所まで沈んだ。運ばれる荷物の残りは片手で数える程だ。
「イヴァン、大変よ!」
喧騒とボイラー音を押し退けて声は響いた。
イヴァンは曲げていた腰をのばし、名を呼ばれた方へ向く。
今朝、見送られたばかりの妻だ。着の身着のまま走ってきた様子で束ねた髪が乱れている。場所を移動しようとするイヴァンを無視して駆け寄ってきた。せっかちだが、ここまで無頓着な性格ではない。イヴァンがいぶかしく思うぐらいの慌てぶりだ。
眉をひそめたイヴァンは、彼女が何か握りしめていることに気が付いた。
夫の前に立った妻は胸の前で新聞を握りしめ、勢いのまま言う。
「お義父さんの船が沈没したらしいの! 船員の行方がわからないって」
仕事仲間が顔を上げ、心配そうに声をかけてくる。喧嘩っ早い人達ばかりだが、情が厚いのだ
それを向けられるのが自分であることにイヴァンの心は申し訳なく思うと同時に嫌気がさしていた。
空を仰げば、雲の隙間から空がのぞいている。からりとした青だ。
その色が奇しくも父の笑顔を思い起こさせる。イヴァンは、またかとため息を圧し殺した。
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