剥製のマンショ trois
中身のない墓石は他と同様に何を申すでもなく、静かに鎮座していた。
それに酒をかけたイヴァンは、残りを自分の臓腑に流し込む。やけに鞄の重みが増したような気がして、投げ出すように地面の上に腰を下ろした。
曇天の下、墓石の色が余計に暗く見える。
うろんげな瞳が石に刻まれた文字に向けられた。自分と同じ姓を持つ名前だ。
「どこに行ったんだろうな」
いつものように唐突に消えた父は、いつものように帰ってこない。
今までも、船が沈んだという話は何度かあった。父の墓に苦心しながら帰ると、海の藻屑となったはずの張本人が酒を片手に座っている。怒鳴るイヴァンを可笑しそうに眺めて、おかえりと言うものだから、余計な疲れを感じたものだ。
息子の元に訃報が来ても、父は前払いした家賃三ヶ月分を踏み倒すことはない。心配するのも馬鹿らしく、期限内に舞い戻った父を摘まみ出すことが挨拶代わりになった。おまけに訳のわからないものが自称宝物部屋に放り込まれ、ため息をつくまでが恒例の作業だ。
しかし、今回ばかりはそうはいかなかった。とうに家賃の期限は切れ、三回分を支払ったのはイヴァンだ。子供が生まれる前に型をつけなくてはと思ったのが一週間ほど前。みるみる大きくなる妻の腹にせっつかれて、やっと腰を上げた。
そこまできても、イヴァンは父が亡くなったという実感が湧かない。心のどこかに風が吹き抜け、穴の存在を示す。
酒を入れていた携行缶を墓に投げつける。甲高い音は墓地に吸い込まれていった。
子供が店主をするような変な店を訪ねてから、なぜか父のことを色濃く思い出す。博物館までは確かに見切りをつけようと思っていた。そのはずなのに、滅茶苦茶なはずの言葉を通じることに安堵して、余計なことまで言ってしまった。
「飛べない鳥って何だよ」
帰り道で父が好きだった酒が目に入り、気付けば墓まで足を伸ばしていた。決して答えることのないものを相手に話しかけている。かつての父の姿と酷似しているが、認めたくなかった。寂しいという簡単な言葉では表せない。海の底のように暗く冷たく、曇り空のように重苦しい。
よかったじゃないか、買い手が見つかって。奇怪で不気味でガラクタにしか見えない不要品の世話を焼かなくてもいい。持ち主がいないのであれば、管理人がどうしたっていいだろう。吹き払うように言い聞かせても何かが淀んでいる。
「帰ってこないのが悪いんだからな」
ぼやき声に拍子抜けするあの笑顔は返ってこない。
海賊が出る海には行くなと何度言っても、父はその海を渡っていった。海賊と一緒に酒を飲むのも乙だぞと言った日にはのぼせたものだ。
立ち上がったイヴァンは携行缶を拾い、石に振り返る。
あんなに苛ついていたのに、あの顔が見れないのが虚しいとは大概だ。
風のようにぶつかっても止まらない人だった。それならばと方向を変えて我が物顔ですり抜けていく。
「何様だよ」
吐き捨てられた言葉は忍び寄る夕闇に溶け消えた。
「それ、鳥だったの」
イヴァンが骨董店でのいきさつを話していると、妻は目を丸くしてそう言った。
イヴァンが何だと思っていたんだと問えば、悪魔と返され脱力する。
疲れきったイヴァンの背中を叩き、出迎えてくれる妻はざっくばらんとした性格だ。気遣いはできるが、細かいことに捕らわれない。
「悪魔の剥製があるわけないだろう」
イヴァンが目をすがめて低い声で言っても、けらけらと笑える肝っ玉の持ち主は父にも気に入られていた。
意外と人を誉めない父が、いい女をもらえてよかったな、と言ったぐらいだ。
「ほとんど真っ黒だからそういうものかと思って。よくよく見れば、目元があなたに似てるわ」
そう言った妻の視線の先には、白と黒の剥製がいた。
鞄の中でもよかったのだが、息もしてない相手に息苦しいかと思ってしまい、窓の近くの棚に置いている。
自分は悪魔ではないと無言で抗議する夫に妻は手を振って笑う。
「違う違う。ほら、あの眼がそっくりじゃない。つぶらで可愛い」
イヴァンは顔をしかめた。可愛いと言われたことが気に食わないのではない。何かが引っ掛かる。
固まるイヴァンを見かねた妻は困ったお父さんね、と膨らんだ腹に話しかけた。
イヴァンはつぶらと表された目を瞬く。父はこの剥製を誰と似ていると言っていたか。幼い頃、自分はよく誰に似ていると言われていたか。
ずっと悩んできたのに、呆気なく転がりこんできたものは鳥の名前でさえない。完璧な答えでもない。答え合わせができるわけでもない。
それでも、間違ってはいないと直感が訴える。
父はなぜ寂しそうに見てたのか。
彼が、自分が抱いていた感情は何だったのか。
飛べない鳥は誰を指すのか。
「俺かよ」
くぐもった声が笑い声になる。妻が訝しむのも放って、イヴァンは沸き上がる衝動を吐き出し続けた。
═•⊰❉⊱•═
約束通りやってきた御者と一緒になって詰め込んだ荷物は荷台が軋む程の重さになった。
飛べない鳥が入った鞄は、誤って落ちないように席の間に置いた。妻に見送られ、引っ越しのような荷物と共に
「こんにちは、ジロドー様。お待ちしておりました」
出迎えてくれたクリスにイヴァンも挨拶を返す。
御者と灰髪の青年が全ての荷物を運び込むのに時間がかかったが、その都度、鑑定を行うので時間をもて余すことはなかった。
魔神の盾、錬金術師の覚書、空挺の石碑などと一見したクリスが簡単に見立てていく。
無駄のない動きにイヴァンは閉口した。いくら可笑しげな単語が出てきたとはいえ、邪魔するのは気が引けるほどの集中力だ。剥製を見る際になると異様な高揚が見てとれたが、ついでに黙っておいた。前と同じように言葉と情熱の渦に巻き込まれるのは御免だ。
最後を締めくくるのはイヴァンの横に控える鞄の中身だった。ごとりと白と黒の剥製を机に取り出す。
向かいに座ったクリスは素晴らしい品々ですね、と一言置いて冷えきった紅茶を口にした。
イヴァンのものはとうの昔に空だ。いくら手早い鑑定とはいえ、茶を飲む時間では収まらなかった。
疲労を微塵も見せない洗練された笑顔で店主は口火を切る。
「飛べない鳥、でしたよね。彼の名前がわかるまで僕なりに考えました。あの謎かけは、お父様のことだったのではないか、と」
「親父?」
クリスの言葉がイヴァンの意表を突く。
「渡り鳥のように海を渡っていた人が自分は飛べない鳥だと言っても可笑しくありません。こちらの残された鳥もお父様の想いが隠されているように思います」
この鳥も飛べない鳥、ですけどね、とクリスは笑みを深める。黒い瞳の奥で例えがたい何かが姿を垣間見せた。
イヴァンは飛べない鳥を自分だと思い、クリスは父だと言う。鳥を思い出の姿に重ねてみた。空を見つめる鳥と寂しそうな横顔。
懐かしさがこみ上げ、無彩色の剥製が熱を持った気がする。ただ、いくら後悔しても答えはわからないのだ。
一つだけ残る事実は鳥の正体だ。
クリスはその答えを手にしている。
肌で感じ取ったイヴァンは生唾を飲み込み、店主を注視する。
「飛べない鳥に勇気は要るか?――の答えは見つかりましたか?」
イヴァンの期待とは裏腹にクリスは問いかけてきた。口に弧を描いた天使とも悪魔とも取れる顔でイヴァンを見上げる。
イヴァンは目を伏せ、想いを馳せた。父にもう一度同じことを聞かれたら、こう答えるだろう。
「勇気が要っても要らなくても、なかったとしても、変わらなかったんじゃないか。誰が止めても、できないと言っても飛んでいっただろうから」
飛ぶのも飛ばないのも、泳ぐのも泳がないのも、走るのも走らないも、自由だ。父は何にもしばられなかった。
海から離れるのも、イヴァンが決めたことだ。飛べなくても、飛びたいという衝動にかられても、勇気を持つほどではなかった。
親子でどうしようもない頑固者なのだ。
イヴァンは窓に目を向けた。奇しくもからりと晴れた空は父の笑顔を思い起こさせる。
「自分を曲げる勇気なんて必要ないだろう」
そう言った心は軽かった。
もしかしたら、飛べない鳥に囚われていたのは父かもしれない。イヴァン自身かもしれない。
「その鳥の名前を知りたいですか」
通告のように確認されたイヴァンが首を縦に振るのは一瞬にも満たなかった。
笑みで応えたクリスは抑揚を控えた声で語る。
「
イヴァンは海を飛ぶ鳥を想像してみた。どうしても池を泳ぐ鴨が出てきて、全く想像がつかない。
「今も最南の海で飛ぶように泳いでいるそうですよ」
その言葉に、胸を鷲掴みにされた。
子供の前でみっともなく泣きたくなる。イヴァンは、投げ出しそうな心を意地で締め上げる。
しかし、遠い海に思いを馳せるのは誰にも止められなかった。消えた父でも不可能だ。
「このような貴重で、想いの詰まった品を買い取ることはお父様にも忍びないです。ご遠慮いただけますでしょうか」
目の前の凄んだ顔にも臆しないクリスは完璧な笑顔で断りを入れる。
それに異を唱える者はおらず、灰髪の青年が剥製に手をつけた。布を巻き付けるために持ち上げようとして固まる。
「君ならいける重さだよ」
主人に静かに命ぜられた青年は表情を変えずに仕事をこなし、瞬く間に
その様子を見ていたイヴァンは心の中で首をひねる。自分ではそうと感じていなかったが、子供や細身の青年からしたら十二分に重い代物かもしれない。
「よい一日を」
驚く程の買取金を受け取ったイヴァンは、店主と青年に見送られ
イヴァンは父を見限ろうとずっと足掻いていた。切り捨て楽になりたいと。今なら、無駄に意地を張っていた心を許せそうだ。
その心の上にある空は笑うようにからりと晴れていた。
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