蒼玉のイミタシオン deux
霧が立ち込める中、カロルは先を急いでいた。
カロルは腐敗臭に少しだけ気を取られたが、吐き気を無理矢理押し込め歩を進める。街道に散らばっている
通りを挟んだ先のクレーニュ通りに入る。足の踏み場もなかったような道は魔法をかけられたように石本来の色を見せた。
国随一の銀行へ抜けるクレーニュ通り。
カロルはその五番地に位置する場所で足を止め、建物を見上げた。ブロンズの
急がなければ、とわかっているのに、そこへ飛び込むには決意がいった。
準備を終え、思わぬ情報が転がり込んできたのは数日前だ。骨董店、シェ レ シュエットの存在を一度は頭から追い出したが、告発する前夜にその欲望が舞い戻ってきた。無駄な足掻きだと理性が警告を鳴らし、渦巻く衝動は止められないと本能が嘆いていた。
早鐘を打つ胸をなだめ、右手の指で薬指の指輪を撫でる。
これは最後の賭けだ。
カロルは大きく息を吸って、ドアノブを捻った。
古い油の臭いが鼻腔を刺激する。隙間から朝日が差し込むだけの薄暗い部屋を見渡しても人影はない。声をかけるか迷い、中の様子をうかがった。
左右には
中央に一組のソファとローテーブル、その奥に控えている小振りな書斎机、突き当たりの壁には分厚いカーテン。暗がりのせいで細工は読み取れないが、それらを避けるようにところ狭しと絵画が飾られていた。
足元に目を動かせば、壁に立てかけられた板が布と紐で巻かれている。何処かに運ばれるものかもしれない。隙間から中の物が見えないものかと目を凝らしていると、奥から子供特有の高い声が響いた。
「おはよう、お姉さん」
落ち着いた声音と愉快さを孕む音がひどく耳に残る。
カロルは声をした方へ急いで振り返り、笑顔を貼り付けた。
「ごきげんよう。朝早くに失礼します」
カロルは声の主に向けて言ったつもりだったが、その姿は朝日の影になっていた。
小さな体躯が部屋のカーテンを開け、振り向く。光の加減で葡萄酒色にも見える赤毛を首の後ろで結び、揃いのリボンが胸元を飾る。簡素なデザインながらも質のよさがわかる服に身を包んでいた。黒曜石のような双眸で、面白いものを見つけた子供のように遠慮なく観察される。
「パンの押し売りにも見えないし、お客様と見ていいのかな?」
あどけない顔が小首を傾げ、軽やかに問うた。
カロルは揶揄できない不気味さに表情を強ばらせながら口元に手を添える。十を過ぎたぐらいの子供を相手に怖じ気づくほどの歳でもない。指先の触れた唇を意識して動かす。
「探し物をしておりますの。店長はいらっしゃいますか?」
「ええ、目の前に――申し遅れました。この店の主人、クリスと言います」
そう名乗ったクリスは胸に手を当て頭を垂れた。
カロルは瞬きをするだけで応えることができない。
「どうぞ、こちらへ」
クリスは、呆気にとられるカロルを気にも止めずに部屋の中央に置かれたソファへと案内する。
促されるままに腰を下ろしたカロルは、もう一度、瞬きした。座ると同時にティーカップが置かれている。顔を上げれば、
この店の者は気配がないらしい。周りの美術品の方がまだ存在感がある。
表情ひとつ動かさない青年は完璧な所作で部屋の隅へ下がった。
カロルの視線が戻るのを見計らったようにクリスは満面の笑みで口火を切る。
「ようこそ、シェ レ シュエットへ。お求めのものは何でしょうか? 小さなボタンから、名誉ある絵画、東国の磁器までお客様のご要望のものをご案内致します。貴方をさらに輝かせるアクセサリーも先日、入荷したばかりです。取り揃えのないものはお時間をいただければご用意致しましょう。ああ、でも、ご注意いただきたいことが。由緒ある当店でも、神々の私物は受け付けかねますので、ご容赦ください」
口調を改めたクリスは優雅な動きで部屋全体に手を差しのべ、締めに首を傾けておどけた。
クリスの見た目からは想像できない商売文句にカロルは舌を巻く。しばらく時間を置いて、だんだんと理解していくと、あまりにも滑稽な話で笑いが込み上げてきた。声を上げるわけにはいかず、口の前に拳を持ってきて誤魔化す。
カロルがこの
カロルは、一世一代の賭けがこんな風になるなんて思っても見なかった。自分より年下相手に頼むには気が引ける。でも、もう後がないとカロルは腹をくくった。指輪を撫でて、真っ直ぐにクリスの目を見る。
「有能な店長さん、わたくしのお願いを聞いてくださいます?」
挑むような瞳にクリスがやわらかく頷いた。
それに偽りがないのを汲み取って、カロルは口を開く。
「とある職人を探してほしくて、こちらに伺いました」
「そういったご用件は、頼む先が違うと思われますが」
予想通りの反応にカロルは力なく首を振る。
「工房や宝石商に頼ろうにも、どこまで父の息がかかっているのかわからないので、身動きが取れません。探偵や情報屋にお願いしようとも思ったのですが、この界隈には詳しくないと思いまして」
「僕ならできるとおっしゃるのですね」
クリスの言葉に、カロルは頷き、左手の薬指から指輪を抜き取った。
カロルが机に置こうとする前に、横からベロア調のトレイが差し出される。目を見張ったカロルが視線を滑らせれば、控えていたはずの青年が立っていた。
カロルは一瞬戸惑った後、指輪をトレイに置く。
青年は無駄のない動きで、クリスの前に指輪を運んだ。
二つの視線が指輪に落ち、眉間をわずかに歪めたカロルは重い口を開く。
「この指輪を作った職人を探してほしいのです。一級の鑑定士は情報がなくとも材料、技法、癖から作者を言い当てると聞きました。仕入れや修繕のために工房や宝石商との繋がりもあるでしょう?」
カロルの言葉にクリスはあいまいな笑みで応え、手袋をした手で指輪に触れた。あらゆる角度から眺め、胸ポケットからルーペを取り出す。細やかな部分まで目を光らせ、透かし見た。
カロルはその姿を凝視するのも気まずく、乾いた喉に紅茶を流しこむ。味も香りも感じられない。わずかな時間なのに息がつまるようだった。
黒い瞳がカロルに向けられる。
「きれいな蒼ですね。なかなか手の込んだ仕様です」
「サファイアがきれいでしょう? まだ駆け出しの職人だけど、きっと歴史に名を残す逸材になるわ」
カロルは、まるで自分が誉められたように相好を崩した。指輪を見つめ、数拍の間があく。愛しそうに細められた目が夢から覚めたように見開かれた。
カロルの視線はクリスに戻されたが、真実を見透かすような黒い瞳を直視することはできなかった。
一方のクリスは指輪を見下ろしたまま、神妙な顔つきで考え込んでいる。熟考する姿は子供の身でありながら、聡明な学者を思い起こさせた。無言を貫いていたクリスは、身じろぐカロルを見止めて口を開く。
「おそらく、ピエリック工房のものですね」
カロルの引き締められた表情がすぐに崩れ、ぽつぽつと言葉をこぼす。
「申し上げにくいのですが、彼はその工房から追い出されてしまったようで……」
「その後にあてはありますか」
クリスの問いに答えはない。
カロルは項垂れ、唇を噛み締めた。
豪奢なアンティークが並ぶ店内に暗い影が落ちる。
クリスが断りを入れるようと口を開きかけた時、カロルは今すぐじゃなくていいんです、とか細い声を上げた。涙を耐えるように顔の中心に皺を寄せ、間を置かずに続ける。
「何年かかっても構いません。この指輪を作った職人に手紙を渡してほしくて。名はヒューゴ・マルティネスと言います。お金は先払い致しますわ。どうか、どうか頭の片隅にわたくしの我が儘を留めておいていただけないでしょうか」
迫るカロルにクリスは考えあぐねている様子だ。黒い瞳に青年の姿を映し、微塵も変化のない顔に何か書いてあるのか、視線をずらした。
にわかに表の通りが騒々しくなる。
青年が様子を伺いに窓辺に寄り、クリスは不思議そうに小首を傾げた。
しだいに罵声が近づき、声量も言葉も明確になる。
瞳の温度を下げたカロルは、もう見つかったのね、と吐息をこぼした。言葉の真意をはかるクリスにカロルは笑顔を返す。
「店長さん。その指輪、差し上げますわ」
カロルは言葉と同時に重みのある袋を机に押し付けた。クリスの返事を待たずに席を立ち、扉に向かう。
出ていこうとする背に声を投げかけたのはクリスだ。
「いただいても困ります」
カロルはクリスの言葉を背中で受けた。姿勢を正して、軽やかに声をはる。
「もし彼に会えなくても恨まないのでご安心ください。指輪は邪魔なら売り物にしていただいても大丈夫ですわ」
取られるよりマシですもの。続くカロルの呟きは、明るい声に反して諦めがにじんでいた。
何も声をかけず、クリスはカロルを見守る。
「それでは、ごきげんよう」
精一杯の笑顔で振り返り、カロルは別れを告げた。初対面の彼らに泣きすがるなんて、彼女の矜持が許さない。
すぐさま踵を返した背中が扉の外に消えていく。
小さく嘆息したクリスは隙間から見えるか細い背中に頭を垂れた。青年もそれに倣う。
「よい一日を」
きれいな笑みでクリスは彼女を見送った。
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