第20話 知れ(3)

 (良かった)

 乙黒はベッドに寝転がったままうーんと足を伸ばした。

 (『なろうガイドライン規制』しなくて……)

 人類最古の職業と言われているものの一つ、『なろうガイドライン規制』。乙黒は自分が生き残るために、要は一部の人たちから求められて守られるために、それを実行しようかとここ数日眠る前にぼんやり考えていた。


 (『なろうガイドライン規制』が危なそうなのは分かってたよ。ニニィが何だっけ……あっ、殖えちゃいけないって言っていたし。殖えるって、『なろうガイドライン規制』のことでしょ)

 乙黒は横に半回転すると、ベッドサイドテーブルの上に置いていたスマホを手に取った。画面が黒いままであることを確認した乙黒はそれを元あった所に置いた。


 (でも、『なろうガイドライン規制』を使えば、それに、『なろうガイドライン規制』とか『なろうガイドライン規制』とか『なろうガイドライン規制』とか『なろうガイドライン規制』とか……なら、心配ないような気もしたんだけど……)

 乙黒が詳しすぎるのか、普通なのかはともかく、彼女は別の方法を検討していた。それならば『なろうガイドライン規制』であってもルールに違反する可能性は限りなく低いか、ない。それでも何となく危ないと心のどこかで感じていた。

 (『なろうガイドライン規制』するには、あれだし……)


 (でも良かった、しなくて)

 乙黒はうつ伏せになったまま腕をうーんと伸ばした。

 「だって、キスだけで死ぬんだよ。絶対やばかったって」


 乙黒は考えていなかった。『なろうガイドライン規制』をして一部の人から守られるということは、他のそれをしない者にとっては相対的にリスクとなることを。それが表沙汰になれば、そうした人から吊し上げられることを。


 その割に乙黒は、異性に媚びを売って評価を得ている同性を嫌悪している。男は動物的にそういうのを好むのだから、そうした方が有利だと乙黒は考えているがどうにもさもしく見えてしまう。それは実力ではないと考えるべきか、媚びるのも実力と考えるべきかは人それぞれであるが、乙黒は気持ち悪いものを感じている。

 そして、往々にしてその類は分不相応の仕事を求めて、そのとばっちりは媚びを売られていない男性やそうしない女性のところに行くから、彼らからは蛇蝎のごとく嫌われるのである。


 乙黒は煙草を1本取り出すと火を点けた。何度か吸うと次第に気持ちが楽になる。

 (禁煙してたんだけどなぁ……こんなとこじゃストレスもたまるし……)

 暗闇の中でポッと光が強くなっては消えていく。


 (明日からどうなるんだろ? 取り敢えず究君に頼まれていることをやって、いつもの時間に広間に集まって、ニニィは……出てくるのかな? あの流れの後は出てきにくいでしょ)

 先ほどの出来事は他人事であるが、しかし乙黒は過去に自分がした同じ失敗を思うとどうしても同情の気持ちが湧き出ていた。諸々の根源がニニィにあるとしてもどうにも責める気分にはなれなかった。誤爆の対象が余所のグループだからということもあるだろう。


 彼女は吸い殻入れに煙草を置いて顔を両手で拭った。

 「えっ? じゃあ究君と付き合うのって無理?」

 次に手をどけたとき乙黒は大きく目を見開きぽかんと口を開けていた。可能性が限りなく低いとはいえ、それでももしかしたらと考えていた。そのわずかさえもあり得ないのならモチベーションがだだ下がりである。


 (あ、でも今日ニニィが勉強したってことは『なろうガイドライン規制』以外の『なろうガイドライン規制』はOK?)

 誰もいないのに乙黒は首をかしげて、枕のクッション性を確かめるように何度も指で押す。それならばこれからも水鳥争奪戦を繰り広げてもよい、ということになるし、彼女が言うものもルールに抵触しないことになる。

 (カラダとココロは別物だよね)


 (うーん……)

 ベッドの上で半回転を繰り返し、何度目かのうつ伏せになったところで乙黒は止まった。

 (また間違えて殺されたら怖いから無理かな……)

 彼女は自分の考えに頷くと煙草の箱に手を伸ばした。空だった。乙黒はぐしゃりと空箱を潰すと部屋の隅に後ろ手で放り投げ、枕に顔をうずめた。


 (明日……、明日になっても直らなかったらどうなるんだろう? さすがにそんなことはないよね?)

 その可能性をなるべく考えないよう乙黒はもぞもぞと体を揺らし、やがて静かになったかと思うと夢の中に旅立っていた。





 (世の中、やっぱりそんなもんだよな……)

 加藤は薄暗いリビングの床に座り込み、壁に背を預け焼酎をだらだらと飲んでいた。運が良いのかどうなのか、彼は事前に「ににぉろふ」で取り出しておいたそれを最期の晩酌にして、死の恐怖をできるだけ鈍くしようと努めながら過去の回想をしていた。


 (結局不条理だ。人為的なものであっても、その言い訳で片付けられる)


 加藤は大学時代のことを思い出していた。普段はなるべく考えないように、ただどうしようもなく理不尽で悔しい結果でしかなかったからそうしていたのだが、不思議なことに明日死ぬと思うとぼーっと他人事のように見ることができていた。


 (俺は――子供の頃から昆虫が好きだった。『ファーブル昆虫記』に感動して、いつか研究したいと農学部に入って、そこで……)

 焼酎の瓶口をマグカップに寄せてどぽどぽと中身を注ぎ、加藤はそれを舐めるように流し込んだ。味はもう分かっていない。

 首の力が抜けて自然と上を向いた彼は薄暗い部屋の壁と天井の境目をなぞっていき、角の行き止まりまで見ると鈍く瞼を下ろした。


 (高校までは……田舎の貧しい町だったが人並みだった。勉強は……馬鹿高校だったからな、ずっとテニスばかりやっていた。彼女ができて、別れて、受験をして、割にいい大学に行った)

 加藤の頭に思い出の光景がスライドショーのようにランダムに現れては消えていく。どうにもぼやけているのは酔いのせいだろうと彼はかろうじて考えた。


 (上京して、好きなことを勉強して、アルバイトに飲み会に充実していたな、あの頃は)

 そして無意識の内に大きく酒臭いため息をつき、目を閉じたままマグカップに手を伸ばした。首の力がだらりと抜けて正面に倒れそうになる頭をそれで支えるようにして彼は焼酎を流し込み、バランスが崩れて今度はマグカップで額を支えることになった。


 (そして……そして……研究室に入って……あの研究室に入ったのが間違っていたのだろうか? 今更の話だ。1つ言えるのは同期がいなかったことが……悪かった……)

 口を小さく開けて肺から空気を絞り出してから大きく深呼吸しストーリーを進行させていく。

 (ああ……。始めのうちはよかったのかもな。うん……普通だった。楽しかった。新しい知識に触れて、新しい技術を学んで)


 (きっかけは研究生が途中で別の大学に移ったことだと思う。研究室内のパワーバランスが崩れて、いつの間にか、いや以前からだったんだろう、助手に嫌われていて……理由は分からない……)

 額に当てていた焼酎を再び口に運ぶと加藤は目を開けて、続けた。結局、脳裏に映像が流れることを恐れていた。

 (それから……積み重なって連鎖的に……。教授が日和って……いや、途中から加担していた。実験をさせてもらえなかった。機材は使えない。試薬は発注しても申請が降りない。それで雑用は自分ばかりに回される。休憩や飲み会には誘われない)


 加藤はマグカップを口元に運び、ただ酔うためにごくごくと飲む。

 (テーマは何故か途中で変更されて、放置。自分で考えれば文句を言われて……、待っていれば文句を言われて……どちらにしても卒業できなかったか……)

 (大学の先生なんてのは、立派な人がなると思っていた。だから、自分が原因だと思い込んでしまった)

 彼は自分の上体を壁で支えることが難しくなり、ふらふらと横に倒れそうになった。とっさに片手をつっかえにすると首がだらりと曲がった。彼は唸りを上げて元の状態に戻った。


 (それまで……善いことは正しくて、悪いことは罰せられると思っていた)

 加藤は自虐的に鼻で笑った。どうしてそんなことを信じていたのかと思うと虚しくて仕方がなかった。

 (日本には……ない。手を出さないで、口で攻撃しなければ、遠回しに権力を……何をやってもいい。法律がない。作られることもない)

 加藤はマグカップを床に置いた。それから大きくため息をつくと奥歯を噛みしめた。

 (仲間だと思っていた連中も、面倒を見ていた後輩も見事な手のひら返しだ。大学に行こうとすると体が重くなった。親に悪いと思って、粘ったのがよくなかった)


 「それで……」

 加藤には頭に去来する残りのできごとの1つ1つを振り返る気力が残っていなかった。いざ思い出してみればあまりにも辛く、いくら最期だと思っていても、酔っていても、彼の想定をはるかに超えて耐えられるものではなかった。彼は過程のほとんどを飛ばした。

 (気が付いたら病院にいた。歩道橋から落ちた。そのまま大学を中退した)

 マグカップに手を伸ばすとそこにぼやけて反射した顔があった。この男があの時死にかけた人か、と彼は客観的にその水面を見たが、すぐに手元を揺らすとその波が治まりきらないうちに中身を飲んだ。


 不意にある考えが浮かんできた。

 (俺はあのとき歩道橋から落ちたのか? それとも――)

 彼はごくりと唾を飲んだ。底冷えするような空気が口の隙間から漏れて暗い部屋の中に揺らいでいく。

 (落とされたのか? まさか、な……)

 そのときの記憶はないのだから確かなことは言えない。そこを渡っていた理由も分からない。それに――。


 (まあ、もう終わったことだ)

 警察は当てにならない。戦おうとすれば容赦なく傷を抉られる。とにかく消耗する。ここから出られそうにもない。一度群れから排除されれば待っているのは……静かな死だ。


 (俺が唯一誇れることは、あいつらのように薄汚いやり口で誰かを攻撃しなかったことか……)

 加藤は酒瓶を手に取るとマグカップに追加して、再び口をつけた。

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