第19話 知るな(4)

 土井勝はスーツでは隠し切れないでっぷりと肥えた腹の肉が緩んだのを感じた。

 (俺じゃなくてよかった)

 そして、誰に言い訳するでもなく心の中で呟いた。

 (別に俺だけじゃなくて、あっちの人もこっちの人も同じ表情をしている)


 (仕事のときと変わらないな)

 土井は束の間の安心に浸りながら考えた。

 (隠れていれば、他の誰かに割り振られる。黙っていれば、誰かが勝手にやる)


 (影山さんの言い訳、実務の所は知らないけれども、法的にはなれるが正解だったよな。前科は有罪判決が確定して初めてつく。罪を犯しても、そこまでいかなければ前科持ちにはならない)

 それをわざわざ言うこともない。濱崎が叩かれているのだから自分もそれとなくそちら側に偏っていればいいだけで、真偽も善悪も彼にとっては対岸の話であった。


 「はじめます」

 ニニィが宣言した。


 濱崎はケースの内側を激しく叩いて何かを叫んでいる。さながら罠にかかった害獣のようであり、その顔は怒りに満ちている。怒りの矛先が分からないままケースを叩いて、体勢を崩して、そこにある何かを睨んで、別の方向へよろめいて、今度はその方向を見て、顔に内出血が起こっていて、受け身も取れず、攻撃の間隔も増していき、何方向からも殴られて、失神しても殴られて、腕の骨が折れても、足の骨が折れても、何かが支えて何かが殴って、血飛沫がそれらを染めて、最後に顔面と後頭部を挟むようにして殴って、ぐしゃぐしゃになった濱崎が床にベトリと落ちた。


 「みんなも早く帰りましょう。また明日」

 ニニィの声が聞こえなくなるとモニターもケースも消えていた。参加者たちは体の自由を取り戻し、涙を流す者、嘔吐する者、自分の部屋に帰る者など、それぞれがバラバラに動き始めた。



 関口は死ななかったことで多幸感が一挙に押し寄せてきて、表情を緩めると、そこにへたり込んでしまった。そして、影山が差し出した手を取って立ち上がると勢いのまま抱き着いた。影山がしっかりと受け止めた。お互いの顔をどちらともなく見つめ合い、そして――口づけを交わし、2人はいつの間にか透明なケースの内側にいた。


 「始めまーす」

 ニニィの甘ったるい声のすぐ後に、ケースの内側が鮮紅色の液体やピンク色の柔らかい物で覆われて、その汚れを2つの体がぬったりと拭って倒れ込むと、その体は肩から上がなくなっていて、最後に2つが重なった。

 「殖えないでって言ったよね」

 その顔は、もともと表情はないし感情の記号も今はないが、体の動きからすると怒っているわけでも楽しんでいるわけでもないようである。


 参加者たちはほとんど唖然とするだけで、言葉を発することもできない。


 「え?」

 何とか何人かが動き始めたころ、事の対処に真っ先に当たったのは……。


 「これでも読みやがれってんですよ!」

 妹尾だった。顔を赤くして珍しく高い声を出した彼女は、いつの間にか「ににぉろふ」で取り出していたタブレットをモニター目掛けてブン投げた。タブレットはモニターを通り抜けて床に落ちた。そこに表示されていたのは――保健体育の教科書だ。


 ニニィは自分に物がぶつからずとも、妹尾の意図するところは分かったらしい。ニニィの横に出現したタブレットを手に取り、大きく数回スワイプした。それで内容の全てを理解したようだ。ロボットのような頭の、頬の部分に紅潮の印が現れてどんどん色味を増していった。

 「こ……こんなの、知らないよぅ。だって、殖えるときみんな最初にしていたじゃん……」

 ニニィは手のひらで顔を隠しながらも、指先からこちらを覗いているのは明らかである。


 「知らなかったですむかよ! おい!」

 「生き返らせろよ!」

 「もう終わりにしてよ! いいでしょ!」


 感情に任せる者たちは、ニニィのミスをここぞとばかりに責め立てる。溜まったフラストレーションのはけ口として、自分が正義の側に立っているとその権限もないのに錯覚して、喚く。自分の存在が明らかにならないように、誰かや誰かと一緒になったときだけ、攻撃する。


 その騒然とした空間の中で、ブチッという静かな音が何人かの耳に入った。

 「ああもう! 知らなかったんだから! ちょっと間違えただけでしょ! そんなに言わなくてもいいじゃん! もうやだ!」


 参加者たちにはニニィが額の横に怒りマークを浮かべてそう言ったのが見えて、彼らの視界が不意に歪むと、次に目に入ったのは見慣れた場所――自分の部屋であった。



**



 Tips_d10


 ニニィもうやだ! 毎日毎日片道1時間かけて通っているのに、ニニィばっかり! 部長はニニィのときだけいっぱい怒るし、後輩たちは何度言っても覚えないし! それもニニィのせいにされるし! お家に帰ってもお母さんボケボケだし! 1時間かけて帰っているのに! それなのにみんなも! ちょっと間違えただけじゃん! みんなの方がやっているのに! ニニィがすると! いっつも! もうやだ! 日本酒飲む! 飲んでやる!! 寝てやる!!!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る