第17話 誤魔化すな(3)

 「んああああああぁ!」

 昼食を終えて、歯を磨き、一段落したところで仁木が叫んだ。ゲージの解放ではないし、彼が1人であったことは幸運以外の何物でもない。広間でこれをしたら、死ぬ。


 「いや、え? 忘れてる? 1週間で? ド忘れ?」

 彼が謎の声を出したのは、今まで毎日打ち込んでいたプログラム言語の、初歩の部分を数秒間、全く思い出せなかったからだった。

 (あり得ないだろ。えー……)

 仁木は愕然として、とにかく落ち着こうと冷蔵庫からペットボトルを取り出し、水をごくりと飲んだ。


 (1週間でこれなら、このゲームが終わるころには……)

 彼はリビングに向かい、ひじ掛け付きの大きな椅子に腰かけた。手が嫌に汗ばんでいく。仁木はシャツの腹のところで手を拭った。十分な栄養と睡眠のおかげでようやく人並みの体型になっていた。


 彼は指を組むと、このゲームに参加する前に作成していたPCゲームの一部分を頭の中で再生して、そのコードを必死になって思い出そうとした。

 (ギリギリ……大丈夫……多分。見たら思い出すから、うん)


 (だいたい、橋田先輩の書いたのがカオスすぎるから……。コメントもないし、それで人に丸投げされても……)

 仁木は会社の先輩に心の中で文句を垂れた。そう言う自分もハイになっているときは同じようなものを作っているのだが、それでも橋田のものに比べたらましであると彼は思っている。


 仁木は会社や生活の愚痴をこぼしていく。年金、税金、サビ残、二徹、薄給……。そうやって元の生活のことを考えているうちはこのゲームのことを考えずに済む。敵意を向けているうちは気を大きく保つことができる。ただ、早々にネタは尽きる。すでに何度か、恐怖に耐えきれなくなったときに同じことしているからである。

 (何で生きているんだろ、俺)


 (母ちゃん……)

 そして、次に仁木が考えるのは母親の事であった。


 (母ちゃんが喜ぶから、俺、生きているんだ)

 彼は胸にこみ上げてくるものを感じて、自分らしくないと思った。仁木の精神はそれほどまでに不安定になっている。彼はパチパチと瞬きを数回繰り返し、スマホを手に取って、落胆した。


 (写真は基本、出せないんだった)

 母親の写真が掲載されているような出版物はないかと仁木は頭を巡らせるが、あるわけがないとすぐに諦めた。メディアに出るような有名人ではないし、何かで表彰されるほどのものもない。


 (女手一つでこんな不出来な俺を育ててくれた、母ちゃん……)

 仁木は優しい母との思い出を懐かしさとともに辿っていく。保育園の頃のおぼろげな記憶から始まり、今に至るまでのことを浮かぶがままに再生し、最近の姿が浮かんだところで胸に重いものを感じた。


 (あんなに小さくなって、食も細くなって……)

 彼は去年、久しぶりに母と外食に行ったときの事を思い出した。定食屋のありふれたメニューの中から仁木は生姜焼き定食、母親はハンバーグ定食を選んだ。そして、品が届いて一番に母親がハンバーグを切り分け、「食べなさい」と笑って彼に差し出したのであった。


 (……)

 自分に気遣って言ったものと思った仁木は断った。母親に美味しいものをたくさん食べてもらいたかった。

 (食べきれなかったんだ)

 しばらくして、彼の母は寂しそうに笑うとご飯を半分、ハンバーグも一切れ残して「ごちそうさまでした」と小さく言った。彼女が食べ物を粗末にしたことを恥じているのが仁木には分かった。幼い頃、自分が食べきれなかった分を「もったいないからね」と食べてくれた若い母親の姿が見えた。


 (俺はどうしたら良かったんだ……)

母親の残りを食べることは彼にはできなかった。汚いと思ったからではない。それをしたら母が余計に小さくなってしまうと思ったからであった。


 仁木は目頭が熱くなり、ぶわりと涙が溢れてくるのを止められなかった。


 「母ちゃん死んだらワイも死ぬンゴ」

 仁木は自嘲気味に笑った。


 ただ、仁木は母親が末期の際に「佑ちゃんに生きてほしい」と言うだろうと予想がついている。その後どうするのか、彼はその答えを先送りしていた。このゲームを生き残ることが先決であるが。

 つまり彼がこのゲームで生き残ろうとする理由はただ母親のためだけである。

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