第16話 欺け(4)

 佐藤はリビングにある1人用のソファに腰かけて、通学カバンをじっと見ていた。それは彼が普段使っていた物であり、知らないうちにできていた傷や撚れは、改めてまじまじと見るとこんなものだったのかと佐藤に思わせるものであった。


 (やっぱりそうだったんだ)

 佐藤はカバンをソファの脇に置くと、ごく自然に立ち上がった。それは学生服姿も相まって、登校前の一光景のようであった。

 (どうして僕は何もしなかったんだ?)


 佐藤はうつむきながら小刻みに歩き始めた。フローリングはよく磨かれているが、流石に彼の顔までは映らない。

 (誰も助けてくれないんだ。自分がそう思って、自分でするしかないんだ)

 佐藤は今日の話し合いが終わった辺りから、氷漬けにされていた何かが融けて露わになる様に、学校での一連の出来事がだんだんくっきりと見えるように感じていた。


 (どうして僕は、首に真綿がかかっていても、それがじわじわと絞めていても、何もしなかったんだろう?)

 彼は体を半ば自動的に動かしてキッチンへ進み、考え続けた。ジグソーパズルのピースが1つはまると他も次々にはめられるに、見えてくる。気のせいかもしれないと自分を誤魔化していただけだった。


 (どうして、自分が崖際に立っていることを薄々自覚していたのに、誰かが助けてくれると思っていたんだ?)

 佐藤は突き当りの壁に寄りかかり、後頭部をコンとぶつけると、視線を横に動かした。悪いことなら、誰かが止めてくれる。止めてくれなかったということは、悪いことではない。自分の考えすぎだと勝手に信じていただけだった。


 「周りが何もしなかったのは、他人事だからだ」

 佐藤は視線の先にあるテーブルの角に向かって言った。

 「矛先が自分に向かないように、気のせいだと思うことにしていたんだ。細かい、大袈裟、お前がおかしい……」

 背中で反動をつけて、体を起こした。

 「自分も呑まれていた」


 佐藤は再び歩き始めた。今度は来た道を引き返して、リビングへ戻っていく。

 (それに、どうして、あいつらに善悪の判断を任せたんだ?)

 ふらふらと歩いて行く先に何かあるわけではないが、そこに向かって語る。

 「何が遊びだ。善意だ」


 (どうしてあいつらがいつか善人になると思っていた? どうして待たなきゃいけない? なるかも分からないのに)

 佐藤は眉根を寄せて目を閉じた。結局自分は体のよいおもちゃだった。本人たちにしか分からないように、ただただ間接的に、集団で、もやのかかった攻撃をする。

 (それで僕が屋上から飛び降りれば、最後に攻撃した1人が罰ゲーム、くらいの感覚なんだ。何の罪悪感も持たないで、そのまま大人になって、結婚して子供ができて、本当に何とも思わずに生きていくんだ)


 彼はその場に座り込んだ。床は冷たくなかった。むしろ、尻の着いた場所から暖まっているように佐藤には思えた。彼は顔を手で拭い、ゆっくりと目を開けた。

 「逃げよう。逃げなきゃ。取り返しがつかなくなってからじゃ遅い」

 彼のパズルが完成した。通学カバンはすでになくなっていた。


 「ここを生きて出る。そして、逃げる。次に誰が狙われるか、そんなの知らない」

 佐藤は寝室に向かい、ベッドに潜り込んだ。この逃亡計画を立てているうちは余計なことを考えずに済むのだから、一石二鳥である。


 (まず、一応親に言ってみよう。多分、根性が足りないとか言われそう。それでも、まぐれで転校できるかもしれない。それが一番いいよね。だめだったら、おばさんのところは引きこもりの従姉がいて無理で、じいちゃんは今、老人ホーム)

 (家出しよう。銀行にある分を全部下ろして、日本にいたら、警察に見つかったら、連れ戻される。中学生の言うことを信じてくれるはずがない。そうしたらおしまいだ。国外に行く。偽造パスポートはどこにあるんだろう? いくらくらいだろう? 英語? それとも台湾語? どこか郊外で肉体労働を探そう。明日から、生き残るために、勉強しよう)

 佐藤の脳裏に計画がスラスラと浮かんでいく。彼はとっくに無意識下で考えていたのである。ただ、表にするまでは気づかなかったことがあった。

 (どうして僕が全てを捨てて苦しまないといけないんだ?)

 その理由はいくらでもあった。目を付けられないようにできなかったから、強い味方がいなかったから、戦うことができなかったから、運が悪かったから……。しかし彼はそれを考えても今更どうしようもないと知っていた。

 「……でも、死ぬよりましかな?」

 死ぬと考えた途端にこれまでの犠牲者の末路が目に浮かんでしまった。佐藤は慌てて頭を振ると、逃亡計画に集中して、そのうち夢を見始めた。





 仲良し。あの場ではそれしか書かれなかった思いが、別のノートに発散されていく。暗い寝室の中、デスクライトの下にはいくつもの文章が読みやすい文字で記されていた。


 『つげさん――――――――』

 『――――つげさん――――』

 『――つげさん――――――』

 『――――――つげさん――』



**



 僻地



 僻地に行くとごく当然のように方言タメ口で話しかけられる。何が怖いかって、現地の人の思考が「見た目同じで日本語話す日本に住む奴や! ちゅーことはワイらと価値観が全て同じに決まっている! え、少し違う? なら異常者や! 異常者や!!! 村八分!!!」なところ。その上、こちらが(譲歩して)善意を見せると「あ? ヨソもん? 何やならカースト底辺からやな。ちな有料で強制加入や。昇格はないやで。どぶさらい! 土着ダンス! どんどこ団!」な、メジャーな宗教も真っ青なところ。そうして都会と今までの人生を否定し敵とし、集団監視し、自分たちがいないと基本的欲求を叶えられないようにして、仲間内だけの言葉を使うように……。あれ?

 ※勿論、本当にごく一部の話を大袈裟にしているだけです。ちゃんとしたりっぱなところばかりです。まいにち、ゆぱれでぐまにができます。ゆぱ! ゆぱ!

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