第16話 欺け(1)
柘植は自分の部屋に戻ると、そのまま床にフラフラと座り込んだ。そのまま2、3分、じっと壁を見つめながらゆっくりと呼吸をして、立ち上がると洗面所へ向かった。
(何とか上手くいった)
今日の話し合いはほとんど全て、柘植の想定していた通りであった。柘植は衣類を全て脱衣籠に入れて、盗聴器、盗撮カメラが自分に仕掛けられていないのか確認する準備をすると、その流れで浴室へ入った。
湯船に浸かって初めて柘植は心から安堵をした。失敗すれば死んでいたのであるから、当たり前だ。
言わずもがな、柘植は瑞葉の胸を揉んでも触ってもいない。河本の座っている場所からはいかにもそう見える動きをして、柘植が下衆の面を、瑞葉が怯えた顔を見せただけである。河本の座る場所から見えやすい場所にいて、河本以外の視界から柘植たちが外れたその一瞬だけ、そうしただけである。
柘植が入浴を終えて脱衣籠に何も残っていないこと、つまり何も仕掛けられていないことを確認してから、リビングで今日のことを振り返っていると――何せ致命的なミスがあったら明日以降死にかねない――、瑞葉から「入室申請」が届いた。柘植が応じると、同じく風呂上がりの瑞葉が目を輝かせながら現れて、何か曖昧にはにかみながら柘植に近寄った。
「ありがとう。上手くいった。さすが、瑞葉」
柘植がそう伝えながら頭を撫でると、瑞葉はこぼれそうなほどの笑みを浮かべながらぐりぐりと頭を動かした。
「怖くなかった? 大丈夫?」
柘植が心配すると瑞葉は目を合わせて、ハーモニカをやや小さく「ピー」と吹いた。
「よかった。何かあったら言ってくれ」
瑞葉がこくこくと頷くのを見ながら、柘植は彼女を観察する。
(何ともないわけがないか……。年の割に、というか下手な大人と比べてもしっかりしていても……)
瑞葉の小さな肩がほんの少し上がって、薄い眉がほんの少し下がっている。指先に力がしっかりと入っていない。
「私も、困ったときは瑞葉に相談するから」
柘植が瑞葉の発言を先読みすると、瑞葉はまた頷いて返事をした。
「今日の夕食はサンドウィッチにしようか。覚えているうちに振り返っておきたい。瑞葉、戸棚から水を持ってきてくれる?」
その後ろ姿を見ながら、柘植は瑞葉の内心を読み取ろうとする。
(本人の自覚がなくても、怖気づくことがあった。演技をして緊張したこと、全員の注目を浴びたこと、投票されて死ぬかもしれなかったこと、河本の死にざまを見たこと……、どれも少しずつ理由になるが、最も強かったのは最後2つのことだろう)
柘植は瑞葉と寝室の前で合流すると、そうは言っても高々十数歩の距離であるが、
扉の鍵を開けた。
(逆に、河本を騙したことや河本に悪意を向けられたことについては、大して気にしていないようだ。彼女は世界の残酷さを分かっている。私と同じだ)
サンドウィッチは柘植の想像していた通りのよくある三角形のもので、玉子、ハム、ツナ、BLT、チキンカツと具材の種類が豊富な分小振りであった。柘植はそこに野菜スープを加えると、瑞葉と向かい合って食べ始めた。
「今日の話し合いを振り返ろう」
柘植が河本の写真にバツ印をつけた。
「出だしは問題なかったと思う。身に覚えのない疑いをかけられた男性らしく、それでも袋叩きにならない程度に牽制はできていた」
瑞葉は次に自分の意見を尋ねられると分かっていた。すぐさまメモ帳に書いていく。
『影島さん、君島さんは探っていて、松葉さんと吉野さんは疑っていて、他の人は驚いたり、安心したり、半信半疑でした』
瑞葉は柘植が河本の相手をしている間、その陰から他の参加者たちを観察していた。発言力のある人物を中心に、誰にも気取られないように。怯えながら周囲をチラチラと見るのはごく自然だ。
「それから、同じグループのメンバーは庇わなかった。やはり河本にはそこまでの求心力がなかったらしい。……能力も、か。有能なら吉野が介入していたはずだ」
「吉野のところの人数はこの通りだろうだから――」
柘植はホワイトボードを指差した。
「数を減らすには早い。伏兵がいるのかもしれない」
柘植がわずかに間を空けると、その意図を察した瑞葉はすぐにメモ帳に自分の意見を書いた。
『諦めたのかもしれないです』
「そうだな。思っていた通り河本は役に立たなかったようだ」
柘植は野菜スープを飲むと、またホワイトボードの方に向き直った。
「それで、煽ったら案の定河本は我を忘れた」
『上手でした』
瑞葉はにっこりと微笑んでいる。それがお世辞ではないと柘植には分かった。
「ありがとう。瑞葉が誰か……住本にメモを渡したのも自然だったし、いい人選だった」
柘植が褒めると、瑞葉はふわふわと浮いているかのような心地よさそうな表情を取った。瑞葉の普段よりもオーバーなリアクションは今日の話し合いで相当に神経を遣った反動だろうと、柘植は思った。
柘植がサンドウィッチに手を伸ばすと、瑞葉も同じ具材のものに手を付ける。水を飲むと、同じことをする。
「美味しい?」
瑞葉は嬉しそうに頷いた。
「うん、よかった。私もそう思う」
柘植がそう言うと、瑞葉は先ほどよりも深く頷いた。
「あとは、水鳥がフォローに入ったのも違和感はなかった。取り巻きが感情的になっていたからああするのが妥当だ。私が彼に直接尋ねたら不審だっただろう」
柘植は、水鳥が高橋や100人目の件で、優しい自分のイメージを維持するのが難しくなっていると推測していた。そこを遠回しに突いた。
「笠原にアプローチせずに済んだのは助かった。変に協力関係にあると思われると面倒だ」
柘植は水を飲んでから、最後のサンドウィッチを食べる。それからもう一度水を飲み、一息つくと、話に戻った。
「瑞葉が話せないことも、私たちが一緒にいることも、当たり前であると伝えることができた。あとになってわざわざ文句を言ってくることもないだろう。それから、私たちを狙えば次は自分が理不尽に狙われる、私たちを狙っても反撃される、とイメージを送ることもできた」
柘植は韜晦して、自分たちがその他大勢の同類であるとその他大勢から思われるようにしながら、賢い人物にだけはその牙と爪が鋭く研がれていることを見せようとしていた。
夕食を終えた瑞葉が、いつの間にかペットボトル以外のものが片付いているテーブルの上でペンを走らせた。
『でも、どのグループにもいないって知られてしまいました』
「そうだね。だからもう、どこかのグループと対立はできない。好んで狙われないように、特に松葉には気を付けよう。吉野のところとも穏便にしておきたい。何もしなければ先に騒がれるだけだったとは言え、あのグループと接点ができたのは厄介だ」
『時々見られていました』
「そうだね」
柘植たちは自分たちを忌み嫌う河本の視線に気づいていた。だから――。
『それで、たくさん調べました』
「ああ。使わずに済んだのは何よりだったが、保険はいくらあっても悪いことはない」
柘植が視線を向けた先には、段ボールに詰められた新聞や雑誌の束があった。ある日の新聞の1ページが表にされていた。河本と顔つきの似た男性の顔写真があった。
『――W県警は、児童買春・児童ポルノ禁止法違反などの疑いで河本雅昭容疑者(27)を逮捕し――』
(自分の出身を広間で話すなど、自分から弱点を明かすようなものだ)
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