第15話 欺くな(4)

 柘植は正常な人間がするように呼吸を激しくしながら、張りついている瑞葉もまた同じように息を荒くしていることを振動で感じ取った。


 ケースの中の河本は何か大声で叫びながら透明な壁を叩いている。柘植と目が合った。あらん限りの憎悪が込められた表情を柘植に向ける。網膜、脳髄にまで焼き付けて、生きている限り思い出して苦しめと――。


 (それがどうした?)

 柘植は歯牙にもかけない。彼は知っている。そもそもこの世は生存競争である。人は、自分の利、生命のために、ときに道理を外れて誰かを犠牲にすることがある。そのときに、された側もまた同じ場所から返す。いじめの相談を聞き流した担任は、生徒に通勤車ごと爆殺されても文句は言えない。集合住宅で日夜騒ぎ続ける一家は、作り置きの料理に毒を盛られても文句は言えない。先に道理を外れた者共には容赦をする筋合いはない。


 「始めますっ」


 河本は柘植たちに向かって引き続き無意味な呪いを放っていたが、突然、顔をしかめて右手を庇い、覗き込んで、また顔をしかめて、左手を庇おうとして、ドスンと座り込み、両手の指が妙に長く伸びていて、そこに繋がる手首が伸びて、だらんと外れて、何度も首を反らせて痛みに叫ぶも聞こえず、足首、肘、膝、肩、股関節が伸ばされて、外れて、それから、ゆっくりと、ゆっくりと、胴体が伸びて、河本の体が痙攣して、外れて、外れて、それでも首の長さは変わらないまま、陸に上がった魚のように跳ねて、跳ねて、最後に大きく跳ねて、身長の伸びきった体が止まった。


 「みんなが集合時間の前に話し合いを始めていたから、ニニィ、普通に話しちゃった。あ、でも、自由自由。何をしてもオッケーだよ。それじゃ、またね」

 ニニィが姿を消すと、透明なケースが床に沈んでいき、何人かが3日ぶりに吐き始めた。その臭いに追われるように参加者たちは広間から姿を消していき、柘植と瑞葉も「カードキー」を使ってそれぞれの部屋へ帰っていった。



**



今日の犠牲者 河本美香

一番大事な人 娘


 ニニィにアブられる前は夕飯のメニューを決めている最中だった。思い込みが激しく、例えそれが間違いであったとしても、気づいても、曲げず、自分が正しいことにするため世界の方をあらゆる手段で捻じ曲げるタイプ。この類は自分がそこで過ごす間だけでもその錯誤を正しいものとして、そこで生じる歪みや不条理を誰かや後代に負わせて素知らぬ顔をする。冤罪や隠蔽はその典型的な例だろう。正義を司るべき立場の人間でさえもそうしている。

 Galileoさんが地動説を唱えたときにお偉方や世間が何をしたのかはよく知られている話だが、これは昔話ではなく、今でも当然のように起こっていることである。そんなGalileoさんもKeplerさんの正しい学説を否定していたが、それで世間と一緒にリンチにしようとしたわけではないから、それとこれとは別だとニニィは思うよ。

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