第15話 欺くな(3)
広間のざわめきは妙に不自然である。何しろ、誰かと話していると他の何人もの視線が無遠慮に集まってくるのである。これまでは一部の人が気取られないように誰かを観察しているくらいであったが、今日は違う。多少なりとも積極的に動く性格であれば、盗み見るのに慣れていない参加者でも、視線を向ける。その結果、ざわめきがどこかで局所的に生じては消えるというのが繰り返されていた。
「あいつロリコンよ! 今あの子の胸揉んでたわ!」
突然甲高い声が広間に響いた。参加者の視線が自然と向いたその方向には、何かを睨み付けながら口をヒクつかせ、それでも勝ち誇った表情を隠しきれない太った中年女性、河本の姿があった。そして、その指を指す方向には、驚きを隠せない表情のジャケット姿の男性と怯えた顔をしたワンピース姿の少女――柘植と瑞葉の姿があった。
「ほら、あいつよ! あの男!」
途端に静かになった広間に河本の声がギャンギャンと聞こえる。参加者たちの注目は渦中の人物、河本、柘植、瑞葉に三分されている。ある者は早くも今日を生き延びたと安堵し、ある者は柘植に怒りの眼差しを向け、ある者は様子を見て、ある者は裏に何があるのか冷静に探る中で、柘植が信じられないと言わんばかりにゆっくりと立ち上がった。
「ええと、やっていませんがね」
柘植はじっと河本を目にしながら、冷静な口ぶりで丁寧に答えた。その顔には困惑が未だ残っているが、ここで折れたら死ぬのだから無理にでも落ち着かなければならない。
「嘘よ! ワタシ、ちゃんと見てたのよ!」
河本は目を見開き、犬歯を剥き出しにした。どんなに礼儀正しい応対であっても、自分の見たもの、意見が否定されたことがトサカに来たようだ。次の台詞に備えて大きく息を吸い込み、言葉を出そうとしたまさにそのとき、柘植が「それからですね」と静かに口にした。不意を突かれた河本は一層大きく鼻の穴を広げるも、次の文句のタイミングを逸した。
「私も彼女も名前がありますから」
彼女も、のところで柘植が瑞葉をちらりと見ると、その彼女はオドオドとしながら立ち上がり、柘植の後ろに半分隠れた。
「今、お前の名前なんて関係ないでしょ!」
河本が青筋を立てて喚いた。自分が正しいはずなのに、礼儀作法を非難された。それも、彼女からしたら犯罪者から。河本には理解ができなかった。正しいはずの自分が間違っていると否定されている。物事を1か0かでしか考えられない河本は、柘植の反抗を極めて卑怯なものと捉えた。
それでも、河本は柘植に対して手を出すどころか近づきさえもしない。暴力を伴わないのは社会人として当然であるが、彼女の場合そうではなく、単に自分の得意な間合いを保っているだけに過ぎない。すでに言葉が暴力的である。凡そ理性的とは言えない。
柘植は返事をせず、ただ河本をじっと見ている。河本は猪のように息を荒くして、柘植を睨んでいる。瑞葉が怖がって柘植のジャケットをギュッと掴むと、彼はその頭を何度か撫でて落ち着かせる。
「だから、お前、ロリコンでしょ!」
「はーい今日も、ってもう話し合っているんだね」
広間の明るさが落ちるとともにモニターが現れた。ニニィが興味深そうに覗き込んでいる。
「それじゃ、今日も全員参加で『透明な殺人鬼ゲーム』、8日目の始まりでーす。投票は10分後でーす。始めっ」
モニターが消えた。話し合いのテーマはもう決まっている。
「あいつ、犯罪者よ! 今日はみんなであいつに投票しましょうよ!」
口角泡を飛ばしながら河本が先制した。
(どうなる……?)
(助かった……)
誰もが予想していた話し合いの内容と異なる。すぐに口出しする者はいない。
それをいいことに河本は横を向くと、他の参加者に同意を求めた。
「ねえ、見たでしょ? ね? だって、あんなにはっきりしてたでしょ?」
近くの同年代、同じグループのメンバーには明らかなアイコンタクトを送っている。部外者だと思っていた自分たちが突然舞台に上げられたことに、彼女たちは怖気づいた。
「見た?」
「私からはちょっと……」
そして、隣同士でひそひそと会話を始めた。例え味方であっても、嘘をついてまでして共に戦おうとはしない。仮に河本の言っていることが嘘で、それが明るみになったら、自分も巻き込まれて死ぬ。そこまでのリスクを背負うほどの間柄ではない。つまり、誰も見ていない。
「でも、あの人さ……」
おまけに、柘植の方をちらりと向けば、どこにでもいそうな困っている男性に見えるのに、彼の黒目だけは自分のことを容赦なく、見透かすように凝視しているように感じてしまう。
(化けて出られでもしたら……)
老婆にそう思わせるほど、冷たい目である。
「吉野さんは見ました? どうですか?」
河本は口角を下げながら頼みの綱に声をかけた。
「アタシ? アタシは……」
吉野が前かがみになるも、座り直しただけだった。
「悪いけど見ていなかったね」
河本の目論見は外れた。誰も表立って助けてくれない。
「それでも、ワタシは見たのよ!」
自分が正義の側にいるという自信が彼女を動かす。
「それに、あいつ、この間もあの子に付きまとっていたじゃない! 犯罪者よ! 他の子やワタシたちが襲われる前に! 何とかしないと!」
柘植が静かに息を吸った。そして一瞬、この世で最も穢らわしいものを見るときのはっきりとした侮蔑を顔に浮かべた。しかし、次の瞬間には元の、精一杯落ち着こうとしている姿に戻った。
「あの、用事があるのでしたら、名前で呼ぶことは難しいですか?」
柔らかい口調であっても、一歩も引き下がっていない。河本の怒りのボルテージが上がって行き、両手が震えだしているのを見た室賀がぼそり、と小声で「柘植廉と、女の子の方は西堀瑞葉よ」教えた。
「柘植! お前――」
「さん、は?」
柘植が割り込んだ。今まで穏やかに見える対応をしていたのに、上からものを言った。
「……ハァ?」
柘植のダメ出しに河本は大きく眉を持ち上げて胸を張ると、全く的外れで滑稽だと言わんばかりに笑いを貼り付けながら大げさに両手を広げ、他の参加者たちに視線を飛ばしていった。
「私は、ロリコンではありませんし、瑞葉の嫌がることをしていませんから」
「それに、瑞葉?」
柘植が優しくその名を呼ぶと、瑞葉はようやく柘植の陰から出て、隣に並んだ。
「瑞葉とはお互いここで最初に出会った者同士で、ただ、助け合っているだけですから」
「ね? 瑞葉?」
コクコクと瑞葉は頷くとメモ帳とボールペンを取り出す。
「彼女は話すことができません、お気付きの方はいると思いますが」
柘植が話している間に瑞葉は何かを書くと、隣にいた住本にそれを手渡した。
「えっと、『つげさんとは仲良しです』、ですって」
住本が読み上げると、瑞葉はニコニコと笑いかけ、戻ってきたメモ帳の上にペンを走らせた。
『ありがとうございます』
「脅したんでしょ! だって、見たのよ!」
河本には分からない。自分には確かに柘植が瑞葉の胸を揉んでいるのが見えたのに、加害者はともかく被害者までが否定する。脈がどんどん速くなり、視界が狭まっていく。
「ええとですね、もし仮に、河本さんの言うことが正しかったのだとしたら、どうして真っ先に瑞葉を助けなかったのか、ちょっと不思議ですね」
柘植の言葉は、河本に向けられているようで、完全に違う方向を見ている。河本の言葉にまともに反応していない。
「思わず言ったあとに、自分でも間違えたと気づいたから動けなかった、そう思いませんか?」
他の参加者にただ説明しているだけである。何となく会話が成立しているような雰囲気だけは出している。
ただ、当事者には露骨に無視をされていると分かるものだ。河本の肌はまだらに赤くなっており、余計に醜さを増している。
「うるさい! 黙れ! 柘植! みんな、ねえ! おかしいでしょ!」
「あの、みなさんが親切に話を聞いてくださったおかげで、私は変なことをしていないと分かってもらえたのですが――」
柘植はもはや河本を明後日に置いている。
「もし、その……また河本さんが思い込みで誰かを責めたとき、あまり話すのが得意でない人だったら、とても怖いですよね。河本さんの気分次第で無差別に……ですから」
今までのやりとりは、ある種の人たち、人前に立つのが苦手、人と違う何かがある、あるいはそう思われやすい人たちにとっては脅威でしかなかった。不安を感じる。柘植の声が自分の方を向いている気がする。
「あいつを! あいつを殺さないとみんな危険よ!」
「ええと、どなたか進行してもらえませんかね。これ以上騒がれると私も瑞葉も怖いだけでして」
「柘植! おかしいでしょ! 触ったって認めなさいよ!」
河本が今日一番の大声を出すと、瑞葉が驚いて柘植の陰に隠れる。柘植は遠慮がちにお手上げのポーズを他の参加者に向かって示している。目が合ったのは、水鳥だった。
「河本さんも落ち着いてください。まずは落ち着いて話をして、誤解があったのなら謝れば丸く収まると思いますよ」
彼は、他のメンバーの手前、怯えている少女をそのままにできなかった。優しい口調で訴えかけて仕切り直そうとするが、リミッターの外れた河本の馬鹿力を止めるにはあと少し足りなかった。それでも十分に威力は削がれたが。
河本が前髪をさっと撫でて、取り繕う。そして、猫なで声で「ねえ、吉野さん……」呼びかけた。
「悪いけれども、どうもアタシには分からないね。本当に見たのかい? 他に誰も見ていないじゃないか」
吉野は腕を組みながらにべもなく、客観的事実だけを基に返事をした。河本の表情は……変わらないで固まっている。
「ねえ、徳田さん、福本さん、――」
河本が片っ端から援護を求める。バツが悪そうに目を反らされる。その行動が、決め手となった。吉野がパンッと手を叩いた。
「往生際が悪いよ。誰も見ていないんだ。誤解していたのなら謝るのが筋、全員で決めたじゃないか。『人の嫌がることはしない』と」
「でも! 私は、見たのよ! 嵌められたのよ! あいつら、グルになってるでしょ!」
河本は意地になってまたもスイッチを入れると、喚き始めた。身も蓋もない。
柘植も柘植で、河本が話しているのを気にすることなく、聞こえやすい声で他の参加者に問いかける。
「あの、私たちは運よく信じてもらえましたが、これが今日明日で私たちが死ぬような話でしたら、そういう前例を作ってしまったら、次は誰になるか全く分からないし、その人も同じように選ばれますよね」
「河本さんは、その、こういうことをするのはもう止めた方がいいと思いますよ」
急に話しかけられた河本は一瞬黙ってから、振り向いた。
「ふざけるな! 何を偉s――」
「はーい、投票でーす」
ニニィの声が雑音の全てを終わらせると、スマホ以外に光源のない世界の中で参加者たちは投票を行った。明るくなってから真っ先に目に入るものは、透明なケースと――。
「はーい、今日の犠牲者は河本美香さんですっ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます