第13話 捧げるな(2)

 「頭痛え……」

 坂本は起きてすぐに白髪交じりの頭を抑えた。酒臭い息を吐くとそのわずかな振動がまたガンガンと頭に響く。坂本は目をこすって、再び生じたその痛みに苛立ちながら枕元のスマホを手に取り、「ににぉろふ」を立ち上げた。


 「酔い覚まし、水」

 出てきたそれらをすぐに口の中に流し入れると、坂本はぼーっとベッドに座ったまま虚空を見つめて、何もしなくなった。


 「あー……」

 何かの音を発するが、到底意味があるとは思えない。


 坂本は昨日も時田たちと一緒に夜遅くまでどんちゃん騒ぎをしていた。好きな物を好きなだけ食べて、旨い酒や煙草を好きなだけ楽しんで、ふらっふらの頭で――その後のことは彼の記憶にはなかった。


 彼はおもむろに枕元に手を伸ばすと、煙草とライターを手に取って、火を点けた。煙を肺の奥まで届かせてから灰を落とすと、「あぁー」と声を出して、また止まった。


 (昨日、飲み忘れた)

 酔い覚ましの効果が現れ始めてから最初に坂本が考えたことは、昨日寝る前に酔い覚ましを飲み忘れたという、誰でも明らかに分かることだった。頭の痛みが引いていき、内臓脂肪の付いた腹の下で胃が動き始め、くっきりと顔に付いた枕のしわが消えていく。


 「大体さあ……」

 一服を終えた坂本はペットボトルに残った水を飲み干し、立ち上がって洗面所へ向かった。いつの間にか吸い殻も空のペットボトルも消えていた。ベッドは整えられて、汚れ一つ残されていない。サイドテーブルには煙草の箱とライターが重ねて置かれており、その横に灰皿とスマホが並べられている。風呂場の方から小汚い呻き声、それから壁や床に水がぶつかる音が聞こえてくる。



 やや経ってから下着姿の坂本が洗面所から出てきた。彼は腹をかきながら寝室へ戻り、再びベッドに倒れ込むと渋々スマホを手に取った。それから親指を何度か動かし、「7SUP」に大した連絡が来ていないことを確認して、スマホを放り投げた。コン、と小さな音がした。スマホにも床にも傷一つ付いていない。


 天井を見ながら坂本は考える。

 (馬にすっかなあ……)


 (最近、舟もツイてるしなあ……)


 (台の調子も、分かるようになってきたしなあ……)


 彼は少し前に会社をクビになった。再就職は……形だけの就活をする以外、あとはギャンブルか家で寝転がっているだけであった。いつか何とかなると思っている彼は毎日貯金を減らして、夢を見ている。


 坂本はごろりと寝返りを打つと同じ思考のループを始めた。競馬、競艇、パチンコ、競馬……。どれも上手くいったときを思い出し、自分にある博打の才能を肥大化させていく。ただ現実逃避しているわけではない。そうやって少ない頭を動かしていれば、死が眼前に迫っている恐怖、連日の死に様を思い出さなくて済む。そうやって正気を保ち、このゲームを生き残るための行動を間違えないようにしているのである。


 「クソッ!」

 坂本は突然、目の前のベッドサイドランプを殴り飛ばした。床に落ちた音がした。坂本の拳がヒリ、ヒリと痛む。

 (何で俺が! こんな目に合わなきゃいけないんだよ!)


 そうやっても何も解決しない。坂本はため息をつくと立ち上がり、スマホを拾ってから寝室を出ていった。すでにランプは元の位置に戻っている。


 坂本が向かった先はリビングだった。彼はそこに置かれた本革のソファにドシンと座り込むと、「煙草、焼きそば、水」と呟いた。それらは目の前にすぐさま現れた。箸とライター、灰皿も一緒に、であった。坂本は飛びつくように煙草の箱に手を伸ばすと、しばらく煙を周りに漂わせて、それから焼きそばに手を伸ばした。


 (何でこんなにうめぇんだ?)

 程よい硬さの熱々の麺を噛み切ると、たっぷりと野菜や果物が使われた甘辛くまろやかなソースが口の中に広がっていく。噛む度にキャベツやもやし、ニンジンが歯ごたえにアクセントを添えて、小麦の甘みを引き立たせる。豚肉の旨味も、鉄板で焼いたような香ばしさも、全て坂本の好み通りである。


 あっという間に食べ終えた坂本はソファの上で寝転がると、食後の一服をしながら今度は今日の宴会、そこで何の芸をするかについて考え始めた。


 (何も思いつかねぇ。あー……)

 酔っぱらった後は流行りの芸人や二昔前の一発屋の真似をして、全く似ていなくてもそれはそれで十分だった。問題は場が暖まる前で、彼は、これまで小ネタを披露することで乗り切ってきたが、これというものを持っていなかった。


 (まぁ何とかなるだろ……)

 坂本は焦点の合わない瞳で煙越しに向かいのソファを眺めながら、そういうことにした。彼は、宴会芸を仕入れるのに「ににぉろふ」を使おうと思いつきもしなかった。どうにも思いつかなくても体を張れば何とかなると自分を安心させた。


 それからのいわゆる空き時間を坂本はこれということもせずに過ごした。このゲーム中に役に立ちそうなことも、このゲームを終えた後の就職に有利になることも行わず、血糖値が上昇するその勢いに身を任せて、眠りに落ちた。


 坂本は、例え目覚ましをセットしなくても、話し合いが始まる前に起きることができる。長年勤務時間が不規則かつ遅刻したときにはいつも痛い目を見たという経験に加えて、ここで遅刻すれば即ち死ぬという冗談じみたフレーズが嘘ではないと骨身に滲み渡っているからである。

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