第13話 捧げるな(1)

 鷲尾は静かにスマホを見つめて広間にアクセスできる時間を待ち続け、そして、時間が来るとすぐさま「カードキー」を使った。次に鷲尾の視界に入っていたのはただの白く広い空間であった。中央付近に様々な大きさの白いブロックが置かれているだけで、他には何もない。鷲尾はそのやや歪な円状に並べられたブロックの方をちらりと見ると、近くの壁の傍まで歩いていった。


 (……)

 音を発するものは鷲尾以外にない。壁も、床も、天井も、単調に白一色である。染み一つない。


 壁際に辿り着いた鷲尾はそのまま沿うように歩き続ける。滑らかな壁面に何か出っ張るものがあれば一目で分かる。

 (盗撮カメラは……今のところない。盗聴器も……ない)

 鷲尾は角を曲がり、再び歩いていく。広い空間にただ独りでいる恐怖をものともせず、今日死ぬかもしれない恐怖を押し殺し、毅然と進んでいく。


 (今日までに広間に残されていた物は4日目のタブレットだけだった。もしかしたら朝一番に回収されていたのかもしれないが、投票を終えて誰もいなくなったこの広間を記録する意味は、物が見つかるリスクを考えたら、ない)

 見えるものに集中しながらも、鷲尾はこれまでにメンバー間で共有してきた情報について考えていく。


 (物の小ささには限度がある。仕掛けることで得られるリターンは大きい。しかし、見つかるリスクの方が大きいだろう。だから普通は仕掛けない。松葉さんや影山さんがこの作業をやり続けたがる理由はそれだ。危険なことはしないだろうから探しても無意味だと思い込んでいる隙、その隙を突いて来る参加者がいる可能性がある)

 時折鷲尾は立ち止まり、壁を背にして広間を見渡した。音がしなくても誰かが来ているかもしれないから、または、まさに今来ると気配を感じたからである。誰も来なかったが、仮に誰かが来たとしても、ただ歩いているだけなのだから何も疚しいことはない。


 しばらくして部屋を一周した鷲尾は、そこの壁際に座り「ににぉろふ」を使って文庫本を取り出した。ページをめくる音が静かな空間の中でやけに大きく聞こえる。

 鷲尾はすでにこの小説をもう何度も読んでいる。だから、内容に集中しなくても、あるいは目を通していなくても、大まかに書いてあることを知っている。意識を向けるべき方向は広間を訪れる別の参加者の動向であり、参加者間の関係性である。


 不意に音がした。鷲尾が顔を上げると、そこにはオーバーブラウス姿の女性……仁多見の姿があった。


 「おはようございます」

 鷲尾の言葉に仁多見は分かりやすくキョロキョロしてから、つまり音のした方を向くのではなく、音のするものを探してから「あ、おはようございます」と返事をした。仁多見が鷲尾の方へ近づいていく。


 「あ、私、何か眠れなくて、それでここに来たんです」

 そう言う仁多見の目の下には小さく隈ができており、無理に明るい表情をしているように見える。眠れずに早朝散歩をして気を紛らわすのはごく自然のことである。


 「僕も部屋にいても落ち着けなくて、ちょっと別のところで本でも読もうかと思いまして」

 鷲尾がにこやかに対応した。


 「ですよね! やっぱり、こんなところ、楽しめないですよね」

 「ええ」


 仁多見と鷲尾の会話は途切れた。鷲尾には仁多見が固まっているのが見える。用事が済んで他に用事もないのにフリーズしている。鷲尾が苦笑いをする。返事はない。鷲尾が何か声をかけようかと思い立ったそのとき、仁多見は途端に再起動した。


 「あっ、じゃあ、私、これで」

 「どうも」


 鷲尾が再び文庫本に目を落とし、仁多見が遠ざかっていく足音を聞いていると、――止まった。鷲尾が顔を上げると、疑いの眼差しを向ける仁多見の姿があった。

 「ところで、それ、どんな内容ですか?」


 鷲尾はここ数日で知った仁多見の知能レベルを思い出し、それに合わせて答えることにした。仮に、この本の芯のところを仁多見に話したとしても、伝わらないに違いない。

 「主人公がカジキや鮫と戦う話ですよ」


 「バトルものって感じですか?」

 仁多見が視線を上に向け、人差し指を顎に当てる。


 「そんな感じです」

 鷲尾は適当に相槌を打ちながら、早く自分への興味をなくしてくれないかと思った。やることがあるから早起きして広間にいるのに、ずっといられたら困る。それでいて自分は彼女からものを聞き出すのに向いていないし、とても困ることを起こされそうだ。鷲尾はそう思った。


 鷲尾にとって幸いなことに、仁多見はそれ以上追及してくることはなかった。鷲尾の目の端には、彼女がブロック群の方へ向かっていき、その一つに腰を掛けて本を読み始めるのが見えた。


 無言の中、鷲尾は片手間に本をめくりながら、何かの本に熱中している仁多見と少し経ってから現れてすぐにいなくなった武藤、壁に寄りかかって何か音楽を聞いている三石、それから次々に出入りする参加者を観察していった。


 (彼女……乙黒さんだ。上手いことやっている)

 鷲尾は、しばらくしてから現れた乙黒が、時田にぎこちなくも話しかけているのを横目でじっと見た。時田は警戒していない。


 (今日話しかける理由は……何だろう? 時田さんたちのグループに女性はいなかったはず。内容を聞き取れればいいけれども、遠いな……)

 鷲尾は本を閉じると、自分のスマホを取り出して数歩進む。


 「――だから、今日のh……」

 時田が声量を途端に落とした。がさつなようで周囲に注意を払っている。警戒していないのはあくまで乙黒に対してだけであった。


 鷲尾はそれ以上危険を冒すのを止めた。その場でそれらしく伸びをすると「カードキー」を使って広間から姿を消した。

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