第438話 刺繍をする
それからは魔法薬の手ほどきをレオン君にしつつ、訓練場へ行ったり、サロンで刺繍をする三人の様子を見に行ったりする日々が続いた。
辺境で発生した魔物の氾濫も、元凶を断ったようで、あれから大きな被害は出ていなかった。
「ユリウス様、朝の鍛錬は終わりましたか?」
「うん、終わったよ。ここのところレオン様が調合室にこもりきりなので、たまには運動させた方が良いんじゃないかと思っている」
サロンに到着すると、ファビエンヌが笑顔で尋ねてきた。その手元には刺繍用の布を張った丸い枠が握られている。膝の上ではミラが気持ち良さそうにお昼寝しているようだった。まだ午前中なのに、のんきなものだ。
「あら、それはちょっと難しいかも知れないわね。レオンは運動が苦手だもの。剣なんて振ったら、きっとバランスを崩して転んじゃうわよ」
「さすがにそこまではないと思いますけど……」
ヒルダ嬢のあまりの物言いに思わず苦笑いをしてしまった。だが冗談ではないらしく、しきりに首を左右に振っていた。キャロを見ると、キャロも首を振っている。どうやら同じ考えのようである。それならランニングくらいにとどめておくか。これなら大丈夫だろう。
席に座ると、すぐにネロがお茶を運んで来た。さすがは気が利くね。
「順調に進んでいるみたいだね」
「なんとか形になっているような気がしますが……なかなかうまくいきませんわ」
眉が下がり、情けない表情になるファビエンヌ。魔法薬のようにはいかないか。刺繍には繊細な指運びが必要不可欠だからね。不器用だと指に何度も針を刺すことになるだろう。
チラリとファビエンヌの指を見る。うん、ケガはしていないようだ。不器用というわけではないようなので安心した。
「ユリウス様もやってみますか? ぬいぐるみを作るのがお上手ですし、もしかしたら……」
「俺もやるの? うーん、紳士がする趣味ではないような……」
「あら、別にいいじゃない。男の人だって裁縫師として働いている人は多いわよ」
「ユリウスならすごい作品を作りそう」
ヒルダ嬢とキャロも俺を巻き込みたいのか、ファビエンヌに援護射撃を行う。嫌とは言えない雰囲気になってきたぞ。俺には『裁縫』スキルがあるから、刺繍くらい、お茶の子さいさいなんだよなー。どうしたものか。
そんなことを思っている間に、ファビエンヌがせっせと刺繍枠の準備をしていた。
やらせるつもりだ。もしかして俺がいなくて寂しかったのかな? もう、しょうがないなぁ。かわいい婚約者のためにも、ちょっとだけやるとするか。
そう思っていたときが、ボクにもほんの少しだけありました。
「すごいですわ、ユリウス様! これ、ミラちゃんですよね? 小さくてかわいいです」
「キュ、キュ!」
「痛い、ミラ、痛いから頭突きをやめなさい!」
興奮したミラがもっと見せてくれとばかりに腹に頭突きをしている。どうしてこうなった。いや、俺が二百色ある白色を器用に使いこなして、見事なグラデーションをしたミラを模した刺繍をしたのがまずかったのか。
「まさかユリウスにこんな才能があっただなんて……」
「さすがはぬいぐるみ職人ね」
だれがぬいぐるみ職人ですかヒルダ嬢。当時は様々な事情が重なっていたから作っただけですからね。ぬいぐるみ職人じゃないから。隣でファビエンヌが喜ぶから調子に乗って刺繍をしたのがまずかった。今は反省している。
「なんだか騒がしいわね。どうしたのかしら?」
「お母様! これを見て下さい」
たまたまサロンへやって来た夫人をキャロが呼んだ。俺が裁縫をしているところを見て、申し訳なさそうな表情をしていた夫人だったが、俺の作品を見て顔色を変えた。何度も俺と刺繍を見比べている。なんだか悪い予感がするんですけど。
「これ、ユリウス君が刺繍をしたのよね?」
「ええ、まあ、一応?」
「すごいでしょう? ユリウスがあっという間に刺繍したのよ。ミラちゃんにそっくりでしょう?」
「キュ!」
「ええ、ええそうね。素晴らしい刺繍だわ。これほどの見事な刺繍はめったに見られないわよ」
夫人の一言にみんなの視線が集まった。これはまずい。今度は刺繍職人にされてしまう。身の危険を感じた俺はレオン君の指導があるからと言って抜け出そうとしたが、ダメだった。
「ユリウス君、この刺繍、どうするつもりなのかしら?」
「練習で作ったものなので……良かったら夫人に差し上げますよ?」
「良いの? ぜひ欲しいわ」
「あ! お母様、ずるいです。私も狙っていたのに」
「え、ちょっと、私も狙っていましたわ!」
ワイワイと騒ぎ出すミュラン侯爵家の女性陣。これは困ったな。苦笑しながらファビエンヌを見ると、自分も欲しそうな目で刺繍枠をガン見していた。……これは人数分を作るしかないな。
俺はそれぞれにミラのどんなポーズが良いかを聞き、実際にミラにポーズを取ってもらいながら刺繍を仕上げた。ミラにはドライフルーツを追加で食べさせることで協力してもらっている。
そうして全員分のミラを模した刺繍が完成した。みんなとても喜んでくれた。これで良かったと思おう。みんなにはその刺繍をしたのが俺であることを言わないように約束してある。刺繍の依頼が殺到するとか、悪夢だ。
「師匠、どうして午前中に見に来てくれなかったのですか」
「それがちょっと色々とありまして……午後からはしっかりと見させてもらうのでそれで許して下さい」
「許すも何も……なんだか師匠、疲れてませんか?」
昼食のときにレオン君に詰め寄られたが、パワフルな女性陣を相手にエネルギーを使い果たしてしまい、それどころではなかった。
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