第292話 アレクの罠
頭の中が混乱している。今の話の流れからして、ダニエラお義姉様に抱擁されるようなシーンはなかったと思うんだけど。
「ありがとう、ユリウスちゃん。あなたのおかげで毎日が楽しいわ」
「私のおかげ?」
「そうよ」
そう言って体を離してくれた……のは良かったのだが、この位置はまずい。これならまだ抱擁されていた方が良かった。目の前にたわわな何かが浮かんでいる。これを見るのはお母様以来だな。
なるべく見ないように、強い意志を持ってダニエラお義姉様の目を見つめた。
「ユリウスちゃんが私に新しい力をくれたのよ。ユリウスちゃんが生み出したものを、ハイネ辺境伯家が設立した商会で作る。そして多くの人たちに販売する。そしてそこに私は深く関わっている。ただのお飾りのハイネ辺境伯夫人じゃないわ」
決意に満ちた声色だった。まるで俺に宣言するかのよう。きっとこれまでは「王家の一員としての飾り」でしかなかったと思っていたのだろう。飾りならすぐに取り替えることができるからね。ある意味で、王族であればだれでもできる。
だがしかし、新たに商会を作り、その責任者の一角となれば話は別だ。深く関われば関わるほど、ダニエラお義姉様の重要性は増すことになる。ダニエラお義姉様は自分が本当に必要とされていることを感じているのかも知れない。そしてそれがうれしくて楽しいのだ。
「お礼を言うのは私の方ですよ。余計な面倒事を全部押しつけてしまってすみません。ですがダニエラお義姉様のおかげで、好きなものを作ることができますよ」
「ユリウスちゃん……好き」
「ぐえ」
感極まったダニエラお義姉様が再び抱擁してきた。姉弟のスキンシップのつもりなのだろうけど、ちょっと激しすぎやしませんかね? それに「好き」って……家族としての好きってことですよね? 本音だったら、アレックスお兄様が泣くよ?
そのあとは二人で体を洗いっこしたりしてからお風呂から上がった。そのころにはもう感覚がマヒしていたからなのか、俺のケルベロスに反応はなかった。これはこれで良かったと思いたい。
火照った体を冷ますために近くのサロンへと向かう。このサロンはお風呂上がりにみんなが利用する場所だ。そのため冷たい飲み物なんかがたくさん用意してあるのだ。席に座ると、ネロがすぐにレモン水を運んできた。
「ユリウス様、どうぞ」
「……うん、おいしい」
ダニエラお義姉様にも専属の使用人が飲み物を運んでいた。このまま少し話してから解散かな? と思っていたのだが、どうやらそう、うまくは行かないようである。アレックスお兄様がやって来た。
「おや、ユリウスも一緒なのかい? ……まさか」
「あ、えっとぉ……」
どうやらダニエラお義姉様がお風呂から上がるのを見計らって、サロンに来ていたようだ。そこに俺がいたら何事かって思うよね。そして色々と察するよね。まずいわこれ。
「アレク、ユリウスちゃんが使用人のために新しい文具を作ったみたいなのよ」
「新しい文具?」
「そ、そうです。これです! ネロ」
「はい」
心得たとばかりに消しゴムつき鉛筆をアレックスお兄様に差し出すネロ。先ほど俺に黙ってフェードアウトしたのを悪いと思っているのか、その動きは素早かった。まあ、今回は許してやろう。次からは道連れにするからね。
「これはもしかして、黒鉛を使いやすくしたのかい?」
「そうです。みんなも見てもらえないかな?」
俺の発言で、部屋の中にいた使用人たちが集まって来た。ネロは削っていない鉛筆も渡してみんなに見せていた。どうやら内ポケットに全部しまっていたらしい。これは筆箱がいるな。部屋に戻ったらさっそく作ってあげよう。
「なるほど」
「これは良いものですよ。手が汚れません」
「消せるのも良いですね。欲しいです」
「さすがはユリウス様ですわ」
うん。つかみはオーケーだな。この流れでダニエラお義姉様と一緒にお風呂に入った件をうやむやにしないと。
「これはまた便利な物を作ったね。使用人のために作ったのか」
そう言いながら紙に試し書きをするアレックスお兄様。書き心地は気に入ったようである。ダニエラお義姉様は線を太くしたり、細くしたりして、絵を描き始めた。そういえば色鉛筆を作るのも良いかも知れないな。
「これは騎士団でも使えそうだね。重要な書類には使えないけど、簡単な伝達にはちょうど良い。ユリウスはこれをどうしたい?」
笑顔のお兄様が聞いてきた。その表情からして、悪い印象ではないようである。純粋にこれを広げるか、広げないかを聞いているのだろう。それならば、みんなが便利になる方を採用したい。
ダニエラお義姉様の仕事がまた増えるかも知れないが、許してくれるかな? 心配になってダニエラお義姉様の方を見ると、口元に笑みを浮かべて、しっかりとうなずいてくれた。任せんしゃい! ということだろう。
「鉛筆を作るのは簡単です。おそらくガラスペンよりも簡単に作ることができると思います。なので、職人ではない、ちょっとお金を稼ぎたい人たちに作らせてみてはどうでしょうか?」
「なるほどね。お金を稼ぎたいけど、手に職がない人に作らせるんだね。それができるほど簡単に作れるのなら何とかなるかな?」
「何とかなる、ではなく、何とかするのですよ。私たちの腕の見せ所ですわ」
「そうだったね。私たち二人で何とかするんだったね」
二人が目を合わせて楽しそうに笑っている。いや、たぶん実際に楽しんでいるのだろう。一人じゃないって、心強いことだな。うらやましい。俺もそのうち、ファビエンヌ嬢とそんな関係になれるのかな?
「ところでユリウス、髪が湿っているみたいだけど、お風呂上がりなのかな?」
「そんなまさか! しっかりと乾かしたはず……なんだ、ちゃんと乾いているじゃないですか」
「ユリウスくん?」
しまった、アレックスお兄様の卑劣な罠にまんまとかかってしまった! かわいい弟を罠にかけるとは、なんて外道な兄なんだー!
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