第143話 湖の怪

 何だか残念な気持ちになった俺たちは、そのままもう一つの観光名所である湖へと向かった。こちらは先ほどの温泉街とは違い、湖のほとりを家族連れの人たちや、商人のような格好をした人たちが歩いていた。


 それを見ながら湖へと近寄った。宿の部屋から見ると小さく見えたが、近くに来てみると結構広いな。対岸は見えるものの、泳いで渡るならちょっと大変そうである。湖の水面が日の光を受けてキラキラとまどろむように輝いていた。


「こちらはにぎやかみたいですね。湖は静かで、心地良い風が――ってお兄様、どうかしたのですか?」

「おかしい」

「おかしい? 何がですか?」


 水面をジッと見つめていたお兄様がこちらに目を向けた。眉間にはシワが寄っている。十三歳のイケメン男子が台無しである。カインお兄様はキリリとした眉毛が売りなのに。


「湖を見てごらん……って、湖を見るのは初めてだったか。えっと、ほら、湖の底が見えないだろう?」


 そう言われて見れば、湖の水質が悪くなっているのか底は見えない。お兄様の言い方からすると、以前は見えていたのだろう。


「見えないですね。以前は見えていたのですか?」

「そうだよ。この湖は『遠くの水の底まで見える湖』として、この辺りでは有名なんだ。だけど今は……」

「どう見ても見えないですね」


 ジッと見つめてみても、見えないものは見えなかった。湖の浄化作用が働かなくなったのかな? もしかすると、観光客が湖にゴミを捨てて、そのせいで水質が悪くなっているのかも知れない。それで湖の精霊が怒って温泉を……ありえそうな話だな。


「何か原因があるのですかね?」

「そうかも知れないな」

「それで湖の精霊が怒ったのでは?」


 ブフッとお兄様が吹き出した。なんだ!? 何か知らんけど失礼な気がする。ねっとりと粘り着くような非難の目を向けると、すぐに半笑いをしながら謝ってきた。


「ごめんごめん。まさか本当に湖の精霊の話を信じているとは思わなくてさ。ユリウスにも子供っぽいところがあるんだな」


 失礼な。まだ十歳の子供だぞ。それに俺はこの世界の神様に会ってるんだ。精霊が本当にいる可能性は高いと思っている。だからこそ、斧を投げ込んでみたかったのに。


「精霊はいますよ! ほらそこに!」

「え?」


 俺は何もない空間を差した、つもりだった。だがそこにはひょっこりと水面から顔を出したカメの姿があった。そのカメは迷うことなく俺たちのところへとスイーッとやって来た。実に見事な遊泳である。


「なぜバレたんじゃ?」

「しゃ、しゃべったー!」

「しゃ、しゃべったー!」


 お兄様と一緒に叫んだ。もちろん護衛の騎士たちも叫んだ。さいわいなことに周囲がそれなりににぎやかだったため、注目を集めることはなかった。




「まさかワシのことを見破れる者がいるとはのう。何百年ぶりかのう。うれしいのう」


 俺の両手で抱えられるサイズのカメは、目と口がスマイルの絵文字みたいになっていた。何だかとってもうれしそう。一方の俺たちは目が点になっていたはずである。

 どうしよう。ほんのちょっとした、子供のおちゃめのつもりだったのに。


 俺は助けを求めるようにお兄様を見つめた。お兄様の顔が引きつる。きっと俺の目からはキラキラした星屑があふれ出ていることだろう。観念したお兄様がそのカメに語りかけた。


「あの、この湖の精霊様だとお見受けしますが、どうしてこのように、その、何というか、水が汚れているのですか?」


 とても言いにくそうである。ごめんね、お兄様。嫌な役割を押しつけちゃって。カメは「そのことか」と言いたそうな感じで両目を閉じた。


「ワシの魔力がな……」

「魔力が?」

「魔力が尽きてしもうたのじゃ」


 どうやら魔力切れのようである。さすがの精霊でも魔力に限りがあるらしい。知らなかった。お兄様と顔を見合わせた。お互いにホッと胸をなで下ろす。俺たち人間が湖を汚したわけではなさそうだ。


「それに最近は湖にゴミを捨てる者が多くてな」

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」


 人間を代表して謝った。それは俺たちが悪い。間違いない。そんな俺たちを見て、フォッフォッフォと笑った。この声色は楽しそうである。


「顔を上げなさい。お前さんたちではないからな」


 どうやらゴミを捨てた人たちの顔は覚えているようである。怖い。今にその人たちに天罰が下りそうだ。悪いことをするとお天道様が見ているというのは本当のようである。


「私たちに何かできることはありませんか?」


 正義感の塊のようなお兄様が迷わずそう言った。

 う、とても嫌な予感がする。お兄様は魔法よりも剣術が得意だ。そして俺は魔法が得意。さらにこのカメが困っているのは魔力不足のようである。つまり、何かするのは俺である。


「お主たちは優しい子じゃのう。そうさな……魔力を回復することができれば、今一度この湖を清浄に、この辺りの温泉を以前の状態に戻すことができるのだがのう」


 寂しそうにそう言った。カメとしても、今のこの湖の状態とその周辺地域の状態は不本意のようである。それを聞いたカインお兄様の行動は――。


「ユリウス、何とかならないか?」


 デスヨネー。一瞬の迷いもなく俺に振ってきたお兄様。恐ろしく早い無茶振り。あまりの早さに俺じゃなきゃ対応できなかったと思う。


「そうですね、魔力回復薬をいくつか持って来ているのでそれを試してみましょう。ですがそれだけでは不安なので、魔力を徐々に回復させる効果のある魔法薬も試してみましょう」

「魔力回復薬は分かるけど、そんな魔法薬も持っているのかい?」


 俺はチッチッチとお兄様の顔の前で指を振った。


「なければこれから作れば良いのですよ。さいわいなことに『緑の回廊』があるそうじゃないですか。そこなら魔法薬の素材があるかも知れません!」

「……」


 俺の発言に、陸に上がった魚のように、無言で口をパクパクさせるお兄様。そしてカメが身を乗り出した。


「ワシも同行しよう。この辺りの薬草には心当たりがあるからな」


 どうやらこのカメは湖の中にとどまらず、周囲を徘徊していたようである。

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