第142話 温泉

 ハイネ辺境伯家の者が来ると言うお達しがあったのだろう。俺たちが馬車を降りるときには、すでにお世話になる宿の従業員たちが玄関の前に勢ぞろいしていた。

 それを見て、何だ何だと騒がしくなる周囲。やだ、すごい目立ってる。カインお兄様はそれに慣れているのか、堂々とした立ち振る舞いをしている。何だか俺だけが小心者のようである。


「お待ちしておりました」


 ナイスミドルの男性が一歩足を進めて挨拶に来た。この人がこの宿の支配人なのかな? 爽やかな笑顔を浮かべている。


「出迎えありがとう。またお世話になるよ。こっちは俺の弟のユリウスだ」

「お世話になります」


 頭を下げて出迎えに応える。毎回こんな歓迎を受けるのかな? それだとちょっと利用しにくいな。個人的にはもっとお忍び感があった方が気が楽にできてうれしいんだけど。何だか一挙一動を見られていそうで嫌だな。ん?


「あの、何かあったのですか?」


 俺の質問にハッとなる支配人。競馬シーズンに挨拶回りで貴族たちの顔色をうかがって培った能力はだてじゃない。わずかな顔色の変化も見逃さないのだ。隣に立つカインお兄様は不思議そうに首をかしげていた。


「それが……現在、この町の名所の一つである温泉が出なくなっておりまして……」

「な、何だってー!」


 申し訳なさそうに言う支配人に、思わず驚きの声を上げてしまった。だって、カインお兄様に温泉があると聞いて楽しみにしていたんだもん。しょうがないよね。ちなみにカインお兄様は俺の叫び声に驚いていた。


 その顔には「そんなに驚くことか?」と書いてある。日本人にとって、温泉は特別なのだよ。あ、支配人の顔もカインお兄様と同じような顔になってる。もしかして楽しみにしていたのは俺だけなのか?


「本当に申し訳ありません」

「あ、いや、別に怒っているわけではないので……」


 申し訳なさそうに頭を下げた支配人の頭を上げさせる。まずは宿を案内してもらわないと。俺が怒っていないことに安心したのか、すぐに部屋へと案内してくれた。


「広いですね、お兄様。でもさすがに二人で使うには広すぎるのでは?」


 案内された部屋は最上階の眺めの良い部屋だった。窓からは近くの森と、その奥に小さな湖が見えた。もちろん町中を見下ろすことができる。

 部屋の中はさすがに貴族が泊まるだけあって、白と青を基調とした涼やかな色で統一されていた。足下に敷かれているカーペットはフカフカである。素足で歩いたら気持ちよさそうである。それをやったら「行儀が悪い」って怒られそうだけど。


「王都に行くときにはいつも使っている部屋だからね。少し広いかも知れないけど、その分、ゆっくりできるよ」


 実に慣れた様子でソファーに座るお兄様。その様子はまさに貴族の子供。様になってる。一方の俺はテーブルの席に座る、どこか落ち着かない客である。何だか足下がソワソワする。


「向こうに湖が見えますね。こんなところに湖があるとは思いませんでした」

「あの湖はこの辺りでは有名な湖なんだよ。何でも湖の精霊が願いをかなえてくれるらしい」

「それって、湖に木こりの斧とかを投げ込むんですか!?」


 まさかあの、金の斧、銀の斧ですか!? もしそうなら、何か投げ込んでみたい。


「なんでそうなるんだよ……そんなことをしたら、湖の精霊に怒られるよ。やめてよね」


 ものすごくあきれた瞳でこちらを見てきた。違うのか。残念だ。でも湖の精霊か。見学しに行くのも良いかもな。あ、もしかして。


「この町の他の名所はもしかしてあの湖のことですか?」

「そうだよ。他にも近くの森には遊歩道が作られた『緑の回廊』があるよ」

「緑の回廊! 行ってみたいです!」


 これはあるぞ、きっと魔法薬の素材になるものがあるぞ。俺の「魔法薬素材センサー」がビンビンに反応している! 勢いよく迫ると、お兄様はソファーにのけぞった。


「わ、分かったよ。時間は十分にあるから一緒に行こう」

「はい。楽しみです! あ、湖にも行きましょう」

「そうだね。でも木こりの斧は持っていかないよ?」

「……残念です」

「やめてよね」


 チッ、ダメか。カインお兄様の顔が引きつっている。どうやら本当にやめてもらいたいようである。それじゃコインとかを投げ込んでみようかな? 何か御利益があるかも知れない。


 部屋で一息つき、お兄様が町を案内してくれることになった。まずは残念な結果になってしまった温泉街へと向かった。観光名所の一つだと言うので、温泉はなくとも、温泉饅頭くらいはあるだろう。


「あんまり人がいませんね」

「そうだね。本当に温泉が出なくなっているみたいだね。閉まっているお店もあるみたいだね」


 お兄様が眉下げてそれを見ていた。本当なら活気のある温泉街を見せたかったのだろう。本当に残念だ。温泉饅頭を食べながら店の人に尋ねる。


「いつから温泉が出なくなったのですか?」

「そうさね、二ヶ月前くらいから湯の量が減っているって話を聞いたね。それから一ヶ月もたたないうちに完全に出なくなったみたいだよ。最初はお湯を沸かしてごまかしていたみたいだけど……」


 それアカンやつ。ここまで活気がなくなったのはそのせいなのかも知れない。その店はきっと潰れたんだろうな。あの閉まっている店がそうなのかも知れない。

 他にも温泉街にはうつろな顔をした人たちが徘徊していた。きっとこの辺で働いている人たちだろう。余計なことしやがってと思っているかも知れないな。

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