アバヨって言えなくて
紫鳥コウ
アバヨって言えなくて
傘を開いて、歩道橋から投げた。夜、信号が点滅したままになる、あの夜に。南へ吹く風が、紺色の傘を連れ去ってしまった。暗やみに溶けこんで、消えてしまった。
昨晩は、雨が降っていた。横殴りになったり、ならなかったり。ありふれた、雨の日。泥棒が、橋のしたで、これからどうしようかと、考えていそうな、雨の日。友達がみんな、友達でなくなる。そんな風に考えてしまう、雨の日。わたしは、傘の右側にいた。紺色の傘の右側に。
水たまりを踏んだら、ジーパンが濡れて、ごめんって言うのも、なんだか違う気がして、そのまま前を向いて黙って。文房具、あの角度をはかる、分度器という文房具。あれを使って、距離をはかる感覚。なんだか違うというのは、それ。
唇が湿っている。髪も濡れている。耳に入る、静かな風の、その冷たさ。寂しさ。おかしさ。眠たさ。宮廷文化のような。
夜の色は、黒。陽が沈むまえに、この世の色という色が、混ぜ合わされて、黒になる。そして、朝になると、黒の画用紙に彩りが加えられて、あれ、と思う。
ミシンで
手品師がひとり、わたしの目の前に現われて、トランプから一枚を選ばせて、見せないで、と言うのかと思ったら、見せて、と言ってくる。わたしは、スペードのエースを見せる。すると、手品師は、そのカードは、ハートのキングですねと、堂々という。みんな、大拍手。あっぱれ、それでこそ、一人前。よっ、色男。
ごめんって、言えばよかった。紺色の傘を、返すことができたのに。その一言で、歩道橋の上なんかに、こなくてすんだのに。神様なんて、いるかどうかわからないけれど、あなたには、ごめんなさいなんて、言ってやらない。どうぞ、天国に運んでください。
リッチなマダムが、わたしのポケットに五万円をいれてくれて、どうぞ、白雪姫になってください、おほほ、と笑って、アバヨと言う。ああ、かっこいい。わたしもそうなりたい。アバヨって、小声でささやく。さまにならない。
君主様、いま駆けつけます。峠をこえて、川を渡り、敵の陣形の横っ腹をついて、敵将を討ち取ろうとしたとき、あ、このひと、死んだ弟に似ている、いや似ていないな、まあ、助けてやろう、寝返ってやろう。そう思っちゃう、あの感情にそっくり。
いや、そうでもないか。ただ、ごめん、その一言で、滝の流れは止まり、ホトトギスが眠り、
ただひたすら、その背中を見続けて、暗記する。その肩幅、後ろ髪、お尻の形、
はじめて手を繋いだときの、震え。繋ぎなれてしまって、憂鬱。繋がなくても歩けるようになり、傘を持つことができた。夏、冬、昨晩。この順番。いまは、春だったかしら。そんなことは、どうでもよくて、ごめんっていうのには、季節がないし、賞味期限がないし、副作用がないのに、言えない。
砂糖をなめて、甘いけれど、なんだか、いけない感じがする、あのとき。後ろをふりかえると、あれ、だれもいない。じゃあ、いけないことだ、ほんとうにいけないことだ。どうしようか。人生ではじめて、死にたいと思うのは、ああいうとき。
せめて、ごめんって言えれば、なんて思っていても、無駄。無駄なのだ。アバヨ。それだけ。わたしは後ろから、アバヨって言えば、よかった。言う、最後の力くらい、あったでしょ。ねえ。
楽市楽座。
夜明け。白い太陽がのぼってきて、光が放射線状にビル群を駆け抜け、歩道橋は
目をこする。服が濡れている。寝ていたのか。それじゃ、気づかない。紺色の傘、どこへ行ったのかしら。まあ、いいや。今日も、生きよう。
アバヨって言えなくて 紫鳥コウ @Smilitary
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