部屋干しは続く
持ち手のところにあるカビが全く取れない!
DJのスクラッチばりに右手で擦るが、ちっとも消えない。今までのカビとは一線を画す根深さ。やはりここに元凶がいたのだ。
俺の動かし続けてきた手と、神経を集中させていた目が、もう限界を迎えていた。この日起きてから、頭の中がカビの事だらけで埋め尽くされ、心の奥にまでカビが蔓延っているようだった。かなりの疲労のためか、俺はフラフラと立ち上がり、一旦ベッドへと横になった。
ここでもう一つ教訓。『ベッドに容易く横になってはいけない』
あれは何という現象であろうか?眠くなくても夢の世界へと誘われる。指数関数的な勢いで意識が遠のいていく。
眠りへの入り口があるとすれば、そのドアの鍵は間違いなくベッドなのだ。
YouTubeの動画を追っていたはずの俺の手に力はなくなり、突然顔面に直撃するスマホには『取り消す?』の文字が悲しく浮かぶ。どうせ取り消すのなら、カビの出るこの部屋の環境を作ってしまった俺の過ちを消してくれよ……、と嘆いたのはもう半分夢に足を突っ込み始めていた時だったのだろう。
俺の瞼は自然と閉じた。そして気がついた時には、いつの間にか休日の夕方の心和むテレビ番組が流れていた。
『はぁ……寝てしまってた』とは、敗者の嘆きである。
取れない持ち手のカビをチラッと見ては、どこかへ逃げ出したくなる。今すぐにこの家を飛び出して、嫌なもの汚いものから解放されたいという欲求。走って走って、出来るだけこのクローゼットから遠ざかりたい。もうこんな呪いのようなカビなんて二度と見たくない!『助けてくれ!』という叫びが喉元まで出かかったが、この家の壁の薄さを思い出して、そっとやめた。
ヒュゥと音を立てながら萎んでいく風船のように、儚い虚しさだけが胸に残った。
『何してんだ、俺……』
現実とはそんなものだ。見渡せば嫌なもの汚いものばかりで、自分の望むものなどは滅多にお目にかかれない。もうこんな所は嫌だと目を逸らそうにも、また新たな厄介ごとが目についてしまう。それはすなわち逃げる場所など無いという事である。
『立ち向かえ……、俺!』
アルコールがダメなら、何が効く?
考えれば考えるほど視野が狭くなっていきそうな袋小路で、俺は諦めずに頭を働かせた。きっと何かあるはず……!
そしてギラついた俺の目が捉えたもの。
全ての原因である、部屋干しされた洗濯物達。その中でくたびれたように色落ちしたTシャツ。あれは…………。
『酸素系の漂白剤はどうだろう?』
俺は、あのTシャツの華麗な染料をも削ぎ落とす漂白剤の力に可能性を感じた。
もう他に思いつく手は無いのだから、とりあえずやってみよう。立ち止まりそうな時ほどトライアンドエラーで動き続ける事が大事だと俺は思う。
洗面所へと走り、洗面器と漂白剤を持って来た。そして水も入れて注意書きの記載の通りにつけ置きすることにした。
そして俺は会心の一撃をカビに与えたと確信した。カビのふちがぼやけて消えかかっている!もはやカビの悲鳴が聞こえるほどの浸透力!
俺は焦らずにじっと見守った。漂白剤という最強武器の活躍ぶりを眺めながら、俺という個人がいかに無力かを思い知らされた瞬間でもあった。
時間が経つ毎に、消えゆくカビ軍の戦士達。彼等にとってはマグマの中に漬け込まれているのと同じようなものなのかも知れない。散り散りになって溺れゆく彼等の後ろ姿は、圧倒的な強さを誇った親玉の城でさえも没落するという栄枯盛衰を表現しているようであった。
そしてカビの親玉の断末魔が消えた時、試合終了のゴングが鳴った。綺麗に消えている。しかし、俺は抜かりなくバッグを洗濯しておいた。彼等の微々たる遺伝子をも残さないという俺の徹底ぶりが発揮されたのだ。
あぁ、清々しい!
外はもうすっかり暗く、ぬるい風が部屋に入っては、首を流れる汗を優しく撫でた。
勝利の美酒。あぐらをかいて久しぶりに強めのお酒を飲み、身体の中もアルコールで洗浄しておいた。もちろん気持ちの問題である。
ふぅと一息ついて、綺麗に洗濯されたバッグに見惚れていると、一匹の蜘蛛を見つけた。
たらーんと、俺の一メートル前あたりでピクピク動いている。色は真っ黒で大きさは一センチメートルもないくらいであろうか。いつもなら優しくティッシュで包んで、外のベランダへと逃すのだが、その日はカビとの戦に勝った心の余裕から、ただぼうっと眺めていた。
そして俺はそのまま寝てしまっていたのだが、翌朝起きた時に頭の中にあったイメージが少し不思議だった。あれは恐らく夢なんだと思うが、どうもこの部屋の状況とまるっきり一緒であるから、変な心地だ。
まぁとりあえず、その内容はそのまま俺への教訓であったから、以下にそのイメージの内容を記しておこうと思う。
○
お酒も飲み干し、幸せな気分でテレビを見ていた俺が鼻息荒く笑っていると、どこからか突然声が聞こえた。
『おい!揺らすな揺らすな!気分悪くてしゃぁないわ!』
俺は、あれ?と思いその音のする方へ目をやると、さっきまで垂れていた蜘蛛がぶらんぶらんと揺れているのが見えた。
『お前がしゃべった?』
『俺や。俺以外に誰がおる?』
『そっかぁ、ごめんなぁ』
喋る蜘蛛。
ハハッと笑ってまたテレビを見る。
夢の中やお酒に酔っていると、こういった出来事にも柔軟に対応できる。人間の素晴らしい能力であると思う。
『ごめんちゃうがな。お前さん、これどないすんねん?』
蜘蛛はさりげなく“これ”と言うが、一体どの足で“これ”を指しているのか分からず、適当に頷くフリをしていると、
『洗濯物や!また湿気たまっとるぞ!』
『あぁ、どうしようもないっていうか……』
俺が曖昧な返事をすると、蜘蛛がするすると上にあがっていった。
『もうどうしようも無いな。じゃあな部屋干し男!このまま部屋干し続けとったらカビとの戦いはまだまだこれからや。もっと沢山の場所がダメになる』
『まぁまぁ、そんな事言わずにさ……』
○
その後の記憶はない。ただ一つだけ言える事がある。
蒸し蒸し、ペタペタ。
蒸し蒸し、ペタペタ。
あの蜘蛛の去り際の捨て台詞は、一言一句間違いない予言だったのだ。
部屋干し男 メンタル弱男 @mizumarukun
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