カビ戦線
カビ。
見れば寒気が走る、あの独特な模様。バッグの内側までもが彼等の餌食になっている。何をもってそんな暗がりで彼等は戦略的侵攻を繰り広げているのか俺には理解できないが、彼等なりの正義があるのだろうか?
朝起きてクローゼットを開いた。ニュージーランドのテカポ湖のように空気の澄んだ所でしか見ることの出来ない星々。それと同じくらいの密度でバッグ上に展開される、カビの恐々としたフォーメーション。
彼等がバッグの持ち手に若干集中しているように見えるのは俺の汗が原因なのだろうか?
するするとは動かないくせに、水面下で上手く陣取りしてきたこの強敵を目の前にして俺はただ呆然と、サーキュレーターを活用してこなかった自分を責めた。空気の溜まるこんな場所は常に風を通さなければいけないと、昔からの知恵があるというのに……。
俄には信じ難いカビとの対面。しばらく何をするでもなく無惨な姿のバッグを見つめていた。
『よりによって、俺のお気に入りに巣食うとは……』
ここで一つ教訓。『大事な物は床に置いてはならない』
これは湿度の高い状況下では鉄則である。
とりあえず、空気を入れ替えようと窓を全開にした。動物達がこぞって俺を見物しに来るかもしれないから少し戸惑ったが、今はそれどころではない。窓との距離とバッグとの距離が等しくなるようなポジションに座り、絶好の二等辺三角形を作って、窓とバッグの定点観測を行うことにした。
誰も動かぬ、静かなる戦い。
そして遂に、この行動に勝利の糸口を見出せなくなった俺は、何故だかとてつもなくシャワーを浴びたくなった。
『もしかするとカビの胞子が体についたかも知れない!』
そんな恐怖に押し流されるように、迅速にシャワーを浴びて、体をゴシゴシと綺麗に洗った。
『ふぅ、風呂上がりは牛乳っと!』
絵に描いたように腰に手を当てて牛乳をごくごくと飲み干し、パンツ一丁でベッドに座ると、やはり目の前にはあの黒々としたカビがいる。
ちょっとの間忘れる事ができても、いつでもすぐに帰ってくる彼等の面影。もう瞼の裏に焼き付いたあの黒い星々。
そして、俺は気付いてしまった。
風呂上がりの俺の湿った身体が、彼等の栄養になる事を……。
『くそ!何をしてもあいつらの思う壺やんけ!』
俺は悔しさのあまりおかしくなっていたのだろう。壁が薄くお隣への騒音が激しいこの物件で、狂ったように地団駄を踏んだ。うるさい音と共に、沈んでいたカビの胞子も舞い上がるというのに……。
それだけ苦しかった。もう逃げてはいけないのだと決心した瞬間だった。
○
家にある物で、このカビに対抗できるのは何か?
ようやく重い腰を上げて武器を揃える事にした。奴らはすぐには動かない。こちらがしっかりと対策すれば勝てない相手ではない。
部屋中を探し回り、アルコールが効くのではないかという結論に至った。
勇気を振り絞り、瀕死状態のバッグに手を伸ばした。『あれ?このバッグ、こんなに重かったっけ?』と思うくらいに、不吉な重量感が右手にある。これは湿気によるものなのだろうか?
シュシュっと吹きかけて、トントンと叩いて拭き取る。
『おおぉ!すげぇ!』
なんという事だろう!みるみるうちに取れていくではないか!
アルコールを吹きかけるたび、バッグの表面から聞こえてくるのは、カビ達の断末魔。俺はカビ軍団にとってみれば世紀の大悪党なのかも知れないが、俺の手は止まる事なくシュシュっとし続ける。
彼等なりの最後の抵抗か、一つ一つの黒い点の中心がやけにしつこい。『しつこい奴は嫌われるぞ』と囁きながらティッシュでトントンしている俺の姿は、さぞ不気味な光景であっただろう。
そしてバッグの内側。中に入っていた大切な思い出はもう駄目だ。旅行に行った時のパンフレット等はもう修復できないほどに侵されている。こんな昔の思い出を人質に取ってまで繁殖を続けるとは、なんて姑息で卑怯な奴らなんだ!!
怒りと涙を糧に、シュッシュ、トントン。力を込めて必死に、シュッシュ、トントン。
とうとう最後の砦まで到達した。
構造が解明不能なまでにカビが蔓延る、持ち手部分。
奴らの親玉はきっとここの中にいる。
カビ達は怯えているのか、はたまた抗戦しようとしているのか。静かなる時の中で、俺はとうとう持ち手部分にアルコールを吹きかけた。
しかし…………。
『なんで……。全然取れない……』
俺は最後の戦いに挑むのであった!
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