第三幕:陽炎、稲妻、ウォーターマインド
「妃香なら昨日の晩の便で一旦ロシアに帰ったよ」
「はい?」
毎朝恒例の所長先生の診察中に今日は妃香が朝から私の部屋に突撃して来ない事を聞いてみたら、突然こんな事を言われた。
なんなの? 重要な事を事前に伝えないのは血筋なの?
「向こうの大学に頼んでいた澪ちゃんの義腕の部品が出来たはいいけど、税関を通らないとかなんとかで直接取りに行くって」
「は、はぁ…そうですか……」
私の為というのなら仕方ないけれど、そういうのは先に言って欲しい。
せっかく私の事を妃香に聞いて貰おうと思ったのに、これじゃ肩透かしだわ。
でも、私の義腕の為にわざわざロシアまで行ってくれているのだから、これぐらい我慢しなくちゃいけないわよね。
「早ければ明日には帰ってくるんじゃないかな。帰って来たら体育館を貸切にする様に頼まれているから、澪ちゃんもそのつもりでね」
所長先生はそう言うと、複数人の看護師を連れてふらふらとしながら部屋を出て行った。
体育館を使うって事は大掛かりな実験って事よね。だから、そういうのは先に言ってって言ってるのに…
◆◆◆◆◆
所長先生の診察を終えてから暫く、私は自室のベッドの上で暇を持て余していた。
妃香が来てからは毎日の様に実験をしていたし、妃香が来る前は定期的にある異能の検査や一定期間毎の生活のレポートの提出を求められていた。
今日は実験も無ければ検査も無く、レポートの期限は暫く先。やる事が無いからとおしゃべりをしようにも妃香は居ない。
私、今迄どうやって時間を潰していたのかしら?
妃香が居なくなっただけで、この三年間ずっと繰り返してきた事が出来なくなっている。
なんだか癪ね。
妃香が居ないと何も出来ないみたいじゃない。
「妃香は、私に出会うまでは何をしていたのかしら?」
ふと、そう言えば妃香は私の事を予め知っていたけれど、私は妃香の事を全然知らないという事に気付く。
所長先生からはロシアの大学に通っている事と私のファンだという事しか聞いてない。
だから、ちょっとした好奇心と、妃香だけずるいという嫉妬心でタブレットを立ち上げ、『
大学名は忘れたけれど、飛び級で優等生という事はこれでなんらかの情報がヒットするだろう。
妃香の事だから若い期待の星とか言われているかもしれないし、もしかしたらおっちょこちょいな部分がニュースになっているかもしれない。
私の知らない妃香の事が分かるかもしれないと期待して、浮ついた心で検索結果を覗き込む。
そこに最初に飛び込んできたのは
『ロシアで活躍するバレエダンサー烏摩妃香、初の大舞台で成功を収める』
という見出しの過去のニュース記事だった。
「え…」
瞬間、目眩がした。
妃香が、バレエダンサー?
同じ名前の別人かと思いサイトを見てみると、添付された動画には今より若く見える妃香が映っていて、私が踊る予定だったのと同じ規模のホールで、満員の観客の前で踊っている。
「うそ…なんで…」
ただでさえ足で操作をするから時間がかかるのに、ショックでつま先が震えるから上手くタッチが出来ない。
まさか妃香もダンスをしていたなんて思いもしなかったし、この動画を見ただけで妃香の技術が私なんかと比べ物にならない程に優れているのが分かる。
妃香はこの大舞台の後に「どうしてもやりたい事がある」と言って引退しており、その急な宣言にロシア中が悲しんだと三年程前の記事に書いてあった。
こんなの、全く知らなかった。
いえ、知らなかったのではなく、知ろうとしなかっただけ。
私は私以外の人間を私の奴隷とそれ以外としてしか見ていなかったから、妃香が私が目指していた場所を既に通り過ぎていたなんて知りもしなかった。
私は、ガラガラと、私の中で妃香に対する何かが焼け崩れていくのを感じた。
この日、私は夜まで何をして過ごしたかの記憶が無かった。
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