第8話
鳥の鳴き声が聞こえる。
ふとぼんやりと目を覚まし、チョコはベンチから体を引き剥がした。
こんなに非日常の中にいるのに、普通の朝の音と空気に包まれる。
それさえもなにか虚しかった。
チョコが起き上がった気配につられ、バニラも目を開ける。
けれど、バニラは起き上がらず溜息をつき、まぶたに右腕を乗せた。
「何時……?」
「6時半……だね」
まだ入院患者の所に人が来るには少し早いくらいだった。
ジャンボも検温やらなんやらを受けるのだろうか。
受けられるのだろうか。
言葉が通じるのだろうか。
バニラはやはり動かなかった。
チョコもチョコで、壁にもたれてぼーっとした。
呑気な鳥の声は永遠に朝を告げる。
もうこの時間が続いていればいいのにとさえ思った。
なのに病棟は、看護師の声や足音で一気に活気づく。
「おはようございまーす。よく寝れましたか?」
そんな声がだんだんとジャンボの病室に近づく。
全身の打ち身や骨折で、包帯まみれのジャンボは、口で検温するらしい。
「おはようございます」
そう声をかけられながら、ジャンボのベッドのカーテンが引かれた。
差し込む光と声に、ジャンボの目が反応する。
体温計をくわえさせられてた。
それに点滴を変えたりと看護師は忙しそうに動く。
ジャンボはただの患者の一人でしかない。
分かっているけど、無言でされるがままのジャンボは、あまり見ていたくなかった。
「熱は落ち着いてますね。血圧は後で無事な方の腕で測ります」
看護師はさまざまな荷物が乗ったワゴンを押しながら、また別の部屋へと行った。
チョコとバニラは遅れてジャンボの部屋に近づいた。
声を、かけてみた方がいいだろうか。
「おはよう……」
ジャンボは声に反応して目をこちらに向けた。
そして少し微笑んだ。
「おはよう……」
返事が帰ってきただけで、チョコとバニラは嬉しくて泣きそうになる。
それにジャンボは二人のことを理解していた。
「心配かけたな……ごめん」
「記憶は……?俺たちのことは……」
「「チョコ」と「バニラ」だろ。覚えてるよ、ほら」
ジャンボはおもむろに腕を上げた。
二人は止めようとしたが、痛みがないのか、ジャンボはくるくると左手の包帯を解いた。
そこに刻み込まれた文字を見て、二人は戦慄する。
「これでもうきっと忘れないよ。見なくても思い出す」
ずいぶん器用に彫り込んだものだ。
チョコとバニラと二人の実名が、それぞれ乾いた血の残る手の甲に刻まれていた。
この体を失うまでジャンボは、チョコとバニラとの記憶を、手の甲に残すことにしたのだ。
それはもう、自分が治らないと知っているかのようだった。
「……車は?轢かれたみたいだって聞いたけど」
とたんにジャンボは黙り込んだ。
視線を逸らして、目を閉じる。
まぶたが閉じてしまうと、この見た目では生きてるかどうかも分からないなと、ふと二人は思った。
「わざと轢かれたの?」
チョコは負けじと聞いた。
けれど、ジャンボは目を開けず虚ろな声で答える。
「……蝶がいたんだ。黄色の蝶が」
それは警察官も繰り返しジャンボから聞いていたらしい。が、ジャンボの周りに蝶は特に飛んでいなかったという。
「母さんが好きだったんだ。黄色の蝶は幸せを運ぶって、ずっと……」
こうなるともう分からない。
ジャンボは幻の蝶を追い、車に跳ねられたのだろうか。
轢いた車は今のところ見つかっていない。
ブレーキ痕や、ジャンボの血液から現場は分かったらしいが、特定には相当時間が必要だと言っていた。
タイヤ痕にはおかしな動きはなくて、やはりジャンボが飛び出したのではないかと、そう言われていた。
「幸せを運んでもらう前に死んじゃうだろ」
真っ当なツッコミにジャンボは力なく笑った。
「母さんに見せてやりたかったんだ。それだけなんだよ……」
ジャンボは静かになった。
思わず呼吸を二人で確認して、ほっと胸を撫で下ろす。
ジャンボはまた眠ったらしい。
朝の病棟は人も増え、チョコとバニラは慌ただしさから逃れるよう、人の少ないベンチに腰掛けた。
「ジャンボのお母さんってどんな人だろ」
チョコがつぶやに、さぁなーとバニラが返す。
「ジャンボもイケメンとか言われるし、お母さんも美人だっかもな」
「ジャンボが?イケメン?」
「そーだよ、俺だってイケメンなんだぜ」
バニラが言うと、チョコはおかしそうに笑い転げた。
言われて見れば二人とも、顔はいいのだろうか。
「けど、イケメンって。ふふ」
「そんなに笑うことでもないけどな」
まぁ、笑ってくれてよかったよ、と呟くようにバニラは言った。
少し肩の力が抜けたらしい。
「今日は俺は仕事だな」
「あ!そうか……」
立ち上がるバニラを見て、チョコは心細そうな目をした。
バニラは少し迷って、そしてチョコに笑いかける。
「お前も言われてたぞ。イケメン」
チョコはキョトンとして、遅れて「はっ!?」と叫んだ。
撮影所の人達がチョコとバニラの噂をしてるのを聞いたのだ。
「彼氏にするならどっち?」なんてミーハーな話題で。
ジャンボに関してはとっくに誰からも噂さえされない。
だから遠い昔の記憶だ。
顔について評されていたのを妙に覚えていた。
バニラは真っ直ぐ職場へと向かう。
付き合うならきっと、チョコだよ。俺は向いてない。
あの声に答えたわけでは当然ないが、心のうちで返答した。
ただ、俺は、ほっといて欲しかったから。
告白されたりしても全部断っていた。
なにが「一緒に背負える」だ。こちらからゴメンだ。
ぼんやりとするバニラをバスは職場へ運んでいく。
その頭には黄色い蝶の姿が何となく浮かんでいた。
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