メルリ・サッサネロ 編 6

「アイガさん、あなた……勇の者、ですわね?」


 心臓が停止した……ように感じていた。まるで時が止まったかのようにその場の空気は凍りついている。いや、そう感じているのは俺だけだろう。メルリもその言葉は知っているが、それがどういう意味なのかは理解できていないだろう。しかし、その言葉を知っていた貴族の娘であるミアムという少女はいったい何者なんだ? 従者であるメイドを連れて道具を買いに来るような少女に心当たりはない。いや、まさか……。


「何を知っている? どこでその言葉を聞いた?」

「あら、怖い顔ですわ。しかし、ご安心くださいませ。わたくしはあなたをどうこう致したりはしませんわ。ここにあなたがいることを誰かに告げるようなことも致しません」

「それは……まぁ助かるが、俺がそう呼ばれていることを知っているのはこの国でもほんの一握りのはずだ。ミアム……まさか君は」

「一流の貴族であればそのくらいの情報は簡単に得られましてよ? アメムガリミス教会についてはどの貴族たちも警戒しておりますもの。それに、あなたはもうこの町で長く暮らしていらっしゃるのですから。この世界には存在しない衣服を纏った無一文の男女が宿を探し歩いていた……とか。王家の雇った探検家たちが港へと現れた際、兵士たちに反抗的な態度をとって注目を集めたものの、その探検家たちの友人として無礼を許された男女がいた……とか。町の往来で真剣での殺し合いを始め、優勢だった女性が自害して決着がついたという揉め事、その相手が噂の男女だった……とか」

「………………」

「この町での噂なんて集まる所には簡単に集まるのですわ。その後、その男女がどうなったのかもお話致しましょうか?」

「……もういい。やめてくれ」

「分かりました。ですが、勘違いはなさらないで欲しいのです。わたくしはあなたを否定することは致しませんわ。どういった事情があったのかも存じ上げませんし、勇の者でありながらどうしてここで道具店の従業員をなさっているのかは気になってしまいますが」

「無一文だったんだ、仕事は必要だろ?」

「そういう意味ではありませんわ」

「……ダンジョンに行きたくなかったんだ。下手をしたら死ぬかもしれない。そんな場所に素人が出向いて生き残れるとは思っていなかったから」

「真剣で探検家と戦えるだけの強さを持っていたのにですか?」

「…………守りたい人がいた。彼女を危険な目に遭わせることなんてできなかった。ダンジョンなんて以ての外だ。自分の恋人を死地へと向かわせる彼氏がいるか?」

「いませんわね。ですが、わたくしならば愛する人を待たせてでも自ら活路を見出だす為に戦いたいと願ったでしょうけど」

「俺たち二人だけの問題じゃなかった。それに、俺たちはただ巻き込まれただけだ。あの時に俺が……紗愛サナを連れて逃げていたら…………こんなことには」


 今さら何を言ってももう遅い。それは分かっているのに、思い出すと後悔しか残っていない。楽しかった異世界生活……紗愛サナとの暮らしや思い出も全て後悔の先の出来事でしかない。だけど……今の俺にはメルリがいる。彼女の存在がこの世界に来たことへの後悔を忘れさせてくれる。俺の癒しはメルリだけなんだ。


「メルリさんは宜しいのですか?」

「え? な、何が……でしょうかぁ?」

「恋人なのですわよね? ですが、アイガさんの中にはまだ以前の恋人が息づいていますわ。そのような状態で本当の愛情をあなたに注いでくれるのでしょうか?」

「それは…………。私は信じていますぅ! アイガさんは私を愛してくださっていると。それに、サナさんのことは忘れないでいてほしいと私も思っていますぅ。アイガさんはそんなに薄情な人ではありませんからぁ」

「失った恋人の代わりをさせられているのかもしれませんわよ?」

「違う! そんなんじゃない! メルリは紗愛サナじゃない。それは俺が一番分かっている! だけど……」

「だけど?」

「………………もういいだろ。ミアム、踏み込み過ぎだ。君の知らない事情が俺にはある。俺を追い込むのはいい。でも、メルリを巻き込むのはやめろ。巻き込まれる苦しみを味わってほしくないんだ。それでもまだ続けるっていうのなら俺も力を使わざるを得ない。忠告しておく、その気になれば俺は貴族だろうが簡単に君を殺せるってことをな」


 その発言を聞いてか、何かのたがが外れたように鬼の形相をしたメイドがミアムの前に立ちはだかった。睨み付ける俺と視線がぶつかる。でも互いに手を上げることはしない。それは何の利益も生まないことを知っているからだ。そして互いに手の内を見せたことで駆け引きも既に終えていたからでもある。


「下がりなさい、マリア」

「はい。申し訳ありません」

「……ごめんなさい、アイガさん。わたくしはあなたのことを知りたかっただけなのです。そして、メルリさんのことが心配になっただけなのですわ」

「そうか。俺も悪かったな。まだ完全に気持ちの整理ができてないんだ。この話題になるとピリピリしてしまう」

「そうでしたか。何も知らず口を挟んでしまったことにも謝罪致しますわ」

「ああ……。それにしても、ミアムはメルリとはどういった関係なんだ? 手紙のやり取りをする仲ってことは?」

「お友達ですわ。立場上、あまり表立って会うことはできませんが、たまにこうしてお店に通うことで交流を図っているのですわ。そうですわよね? メルリさん」

「はいぃ。ミアムさんとは仲良くさせて頂いておりますよぉ? 私は店からあまり出たこともないので、女性の友人はなかなか作れなかったのですがぁ、ミアムさんが通ってくださるようになってからは次に会うのが楽しみで仕方がないんですよぉ?」

「それなら、俺も仲良くしないとな。メルリの友達に失礼な態度をとったこと……ちゃんと反省するよ」

「アイガさぁん……」


 仲良くはする。だが警戒は必要だろうな。俺のことを知っていて、アメムガリミス教会についても調べている。きっと彼女が本気で貴族である家の力を行使すれば俺をこの町で生活できないようにすることは容易なはずだ。有無を言わさず勇の者としての役割に戻される可能性もある。そうなったらメルリにも被害が及ぶ可能性がある。それだけは絶対に阻止しなければならないんだ。


「さて、メルリさん。お手紙に書かれていた内容についてですが」

「あ、はいぃ。アイガさん、どうしますかぁ?」

「ん? ああ、そうか。あの日メルリが話してくれたのはミアムのことだったんだな。そうか、そうだな……」

「さっきの今でわたくしたちを信用できないと言うのであればまたの機会にして頂いても構いませんし、他の貴族の方にお願いしてみても良いかと思いますわ。でも、見知らぬ者……それもこの国の者ではないとなれば難しいかもしれませんが。本来、この国に他国の者の骨を埋めるという行為は良くないものとされています。実際に何が良くないのかというはっきりとした根拠もありませんが、この国は島国であるが故に国土的な問題としてそういう風習になったのかもしれませんわね」

「それは分かる気がするな。俺が以前にいた……その島国でも同じ問題を抱えていたからな」

「そうでしたか」

「でも、このままにはしておけない。あんな小さな壺の中に押し込めて蓋をしておくだけではいつか砕けてしまうかもしれない。ちゃんと弔ってやりたいんだ。墓を作ってあげてほしい」

「……分かりましたわ。では後程、預からせて頂きますわね」

「ありがとう、ミアム」

「いいえ。我が家は広く土地も余っていますから。メルリさんのお母様と同様、きちんと管理することもお約束致しますわ」

「ミアムさん、わがままを聞き入れてくださって本当にありがとうございますぅ……」

「いえ。メルリさんもアイガさんがいれば外出もできるのではありませんか? いずれお墓参りにいらしてくださいませ」

「はいぃ! 必ずお伺いさせて頂きますぅ!」


 嬉しそうなメルリ。最後に母親の墓前に立てたのはいつのことなのだろうか。もしかしたら一度も手を合わせたことがないのかもしれない。そのくらい募る想いを噛み締めるような表情をしている。彼女に重なって『87』という数字が見えた。また増加している。それだけ俺を愛してくれているのだとしたら嬉しいな。


 思い出したようにミアムとアスノマリアの数字も確認する。ミアムは『48』……いや『53』になったか。何気に数字が変動する瞬間を見たのは初めてだな。そして、アスノマリアは『24』だった。どうだろう。思ったよりは大きい数字な気もするが。さっきのやり取りでどう変化したのかは確認しておくべきだったか。でもまぁいいさ、そもそもなんで紗愛サナに見えていた数字が俺にも見えるようになったのかも分からないしな。きっと俺の都合でどうこうできるものじゃないと思っていいだろう。


「お嬢様、そろそろお時間の方が……」

「あら、もうそんな? もう少しお話していたかったのだけれど」

「仕方ありません。留守を知られては面倒なことになりますので」

「そうね。身代わりをさせたチノムもそろそろ疲れて嘆いている頃でしょう」

「はい。それに、あまり長居をしてはメルリさんにもご迷惑でしょうから」

「そ、そんなぁ。迷惑だなんてぇ」

「また時間を作って会いに来ますわ。今日は大事な営業時間を潰してしまってごめんなさい」

「いえぇ。大丈夫ですよぉ?」

「アイガさんもいろいろと失礼をしてしまいましたわね」

「お互い様だ。ま、相手がミアムじゃなくても俺の態度は変わらないだろうけどな」

「うふふ」

「では、お預かりするものをご用意して頂けますか?」

「ああ」


 俺は自室へと紗愛サナの骨が詰め込まれた骨壺を取りに戻った。蓋を開けて最後にもう一度紗愛サナの姿を目に焼きつける。墓石に入ってしまったらもう見ることも叶わなくなるだろう。紗愛サナ……本当はずっと肌身離さず傍に居てあげたいけど。今の俺はメルリの恋人なんだ。彼女の為にも俺は紗愛サナだけを愛しているわけにはいかないから。ごめんな。


 一階へと戻り、アスノマリアに骨壺を渡した。そのメイドは懐から取り出した大きな布生地で器用に骨壺を包み込んでいく。その手つきは小動物を愛でるように優しく、けして雑に扱われるようなことはなく安心した。それを待つ間、メルリもミアムに何かの包みを手渡していた。この店には貴族が好みそうな茶葉や菓子の類いなんて用意できない。たぶん、メルリ自慢の道具でも譲ったんだろうと思う。


「それでは、またお会いしましょう」

「はいぃ。またいつでもいらしてくださいねぇ」


 手短に挨拶を終えるとミアムお嬢様はメイドのアスノマリアを連れて帰っていった。残された俺たち二人は店内へと戻り、まだ昼食に手を付けていなかったメルリの腹が鳴る前に早く食べるように言った。既に冷えてしまったランチをそれでも美味しそうに食べるメルリ。それを見ていてふと思ったんだ。この世界には電子レンジもないんだなと。


「どうする? なんか中途半端な時間になったけど、今からでも店を開けるか?」

「んー、そうですねぇ……札は返してしまいましたし、今日はもうお客さんは来ないかもしれませぇん」

「だよな。それじゃあ、折角だしゆっくりするか」

「はいぃ。あ……」

「ん?」

「アイガさん、少しお出掛けしませんかぁ?」

「今から? どこに?」

「内緒ですぅ」

「………………」



 メルリがランチを食べ終えた後、俺たちはパパッと準備を整えて店を出た。どこへ向かうのかは知らないが、この時間からだとそう遠くまでは行けないはずだ。まずは南へと向かい大通りへと出た。その後は東へと向かって進む。東地区はあまり治安が良いとは言えないが流石に大通りは管理されているらしい。大きな店が立ち並び、兵士の詰所のような場所もあった。そして俺たちは町の東……その端にまでたどり着いた。


 このイザードパレスに外壁のようなものはない。それはあまりにも危険極まりないことだが、魔物はダンジョンから出ることはないと確信を持っているからなんだろう。いざ、攻め込まれたら絶望的なまでに被害は拡大するだろうが、町の外が見える安心感もそこにはあった。広大で雄大な平原。草木の茂る自然のままの大地。開発が進み過ぎた俺たちの世界では到底見ることのできない景色だった。


 世間話をしたり、この町やここで暮らす人たちについて楽しく語り合いながらもメルリは尚も進んでいく。町の外。外壁がないわけだから危険はないんだろうが普通は出歩く人なんていないのだろう。見かけたとしてもダンジョン帰りの探検家だったり、各ダンジョンの周辺で商売をしている商人たちくらいだ。メルリも商人ではあるが今日はただの町娘。可愛らしい容姿の看板娘が用心棒がいるとはいえ、少し無用心な気もするな。


「こっちですぅ」


 探検家たちが毎日のように歩いている道は、轍のように平原の草花を削り取り土の地面が剥き出しになっている。その街道のような道から逸れるようにメルリが進路を変えた。俺は内心驚きつつも、メルリのその躊躇のなさはまるで通い慣れた道であると言っているように思えて引き止めることはできなかった。


「メルリ、大丈夫なのか? こんな林道……もうすぐ日も落ちる時間だぞ?」

「はいぃ。迷ったりする道ではないのでぇ。それに、もうすぐ着きますよぉ」


 その言葉通り、道はすぐに途絶えた。林道の終わりは小さな原っぱのような場所。吹く風は少し強く、眼下には大海が見える。ここは港から続く海岸線の先。緩やかな坂になっていたのか崖の上に位置するようだ。長閑でとても居心地も良い。何よりも……ここから見える夕陽はとても綺麗だった。


「……ここは、母がまだ存命だった頃にぃ父に連れられて三人で来たことがあるんですぅ。小さい頃に数える程しか来てなかったのにぃ……覚えているものですねぇ」

「メルリにとっての思い出の場所なんだな」

「はいぃ。いつかまた来たいと思っていたんですけどぉ、一人ではなかなか……お店の外だって人通りの多い時間帯しか出られませんでしたからぁ」

「そうか」

「だから、アイガさんが居てくれて良かったですぅ! アイガさんと一緒にこの景色を見られて……嬉しいですぅ」

「俺も良かった。この橙色の空が冷めきった俺の心を温めてくれるようだ。ありがとう、メルリ……ここへ連れて来てくれて」

「もぉ、お礼を言いたいのは私ですよぉ?」

「はは! でも、なんで今日だったんだ? そりゃあさ、たまたま時間ができたからっていうのは分かるけどさ」

「…………思い出したんですぅ。両親が私をここへ連れて来てくれた時のことを。やっぱり道具店を営んでいるとお仕事が忙しくて他のことに手が回らない……ということは今になって私にも分かるようになりましたがぁ、当時の私はそれが寂しくてよく自室に引き籠って泣いていたんですぅ。それを見兼ねた母がお弁当を作ってくれて、父のことも説得してくれて、お店の札を返してこの場所へとピクニックだと言って連れてきてくれたんですぅ」

「うん」

「……今日のアイガさん、ミアムさんとお話している時……怒ったりぃ悲しんだりぃ、それが少し怖くて私もつい言葉に圧を込めちゃったりしてしまってぇ」

「………………」

「分かっていますぅ。アイガさんはサナさんのことを……でも、私はアイガさんの為に自分が何をできるのかも分からなくてぇ。恋人として、何かできることはあるはずなのにぃそれが思いつかなくてぇ。だから、ここへ来たら何か感じることがあると思ったんですぅ。でも結局何も……」

「いや、感じるものは確かにあったよ」

「えぇ?」

「メルリが俺のことをそれだけ大切に想っていてくれていることを知れた。そして俺はそんなメルリに寂しい思いをさせてしまっている。メルリが言った通りだよ。俺にとって紗愛サナという存在は大きかった。だけどそれはメルリが大事じゃないって意味じゃないし、メルリを紗愛サナの代わりにしてるわけでもない」

「……分かっては、いるんですぅ」

「いきなりは難しいよな。紗愛サナもそうだった。紗愛サナだけじゃない……これまで俺と関わった女性はみんなそうだった。俺の恋愛体質と、妙に女性を惹き付けてしまう性質に苦悩していた。でもその度に俺は言うんだ。俺には複数の女性を一度に相手するようなことはできない。常に誰かを愛していなければならないこんな体質だけど、それはたった一人の女性にしか向けられない。俺が今、一番大事なのはメルリで……一番愛しているのもメルリだから」

「………………」


 こんな言葉をすんなりと受け入れてもらえるとは思っていない。でもメルリはあの日、俺の告白に首を縦に振った。それが俺の生まれ持った性質であり、長年付き添って来たから慣れてもいる。だけどそれに甘えて努力を怠るようなことをしてはならないと紗愛サナに何度も叱られた。だから俺には彼女を忘れることはできないし、忘れるつもりもない。過去の全てを背負って生きていく。そして今、目の前にいる恋人を全力で愛することこそが俺らしい生き方だと信じたい。


「アイガさぁん……」

「ん?」

「私ぃ、アイガさんに好きだと言ってもらえた時……嬉しかったんですぅ。今までにも好意を持ってくれる男性はいましたがぁ、あんな気持ちになったことなんてなかったんですぅ。他の人の言葉は薄くて軽い……中身が入っていないもののような感じがしましたがぁ、アイガさんの言葉からは強く胸を打つような想いを感じたんですぅ。だから私……初めて父の言いつけを破ってしまったんですよぉ?」

「そっか……ごめんな?」

「い、いえぇ。いいんですぅ。ただ……」

「……………」

「私はぁ、サナさんのことを大切にしていたアイガさんだから好きになったんですぅ。だから私は、アイガさんの全てを受け入れますぅ。これまでのこと、これからのこと……一緒に考えていけたらいいなと思っていますぅ。でも、時々不安になってしまうこともあるかもしれませぇん。だから……あの…………私を信じさせてくださいますかぁ?」


 それはメルリにとってとても勇気のいる言葉だったんだろう。俺を見つめる大きな瞳は潤い、夕陽の光を反射する。そのか細い肩は小刻みに揺れ、小さな手を硬く握り込んでいる。彼女にここまで言わせたんだ。俺はきちんと誠意を見せなければならない。彼女が怯えないようにゆっくりと正面にまで近付き、まだ揺れている肩をそっと手で掴む。覚悟を決めたように目を閉じた彼女の……艶やかに震えるその唇に自分の唇を押し当てた。



 ――それからあっという間に半月ほどが経過した。俺たちは順風満帆、仕事も恋愛も何もかもが幸せで楽しい日々を過ごしていた。一度火の付いた花火は勢いを増すように華麗に燃え上がる。俺たちもそれと同じように互いの気持ちを探り、確かめ、求めあう。そして俺の中に眠っていた欲望や欲求という怪物が目覚めはじめる。それをメルリも薄々気付いているみたいだった。


「……アイガさんが望むならぁ、いい……ですよぉ?」


 とある日の夜。俺は遂に、居候先のサッサネロ道具店の三階にある、この店の看板娘であり俺の雇い主でもある店主代理……恋人であるメルリの部屋へと招かれた。まるで巨大な屋根裏部屋のようだ。三角の天井は高く壁紙はピンク色になっていた。父親の趣味なのかメルリ本人の趣味なのかは分からないが、それがどうにも胸の鼓動を早めてしまう。


「ちゃんと整理整頓はしてるんだな」

「もぉ! そんなにだらしなく見えてましたかぁ?」

「はは、そんなことないけど。可愛い部屋だな」

「えへへ、ありがとうございますぅ」

「…………メルリ」

「アイガ……さん?」

「引き返すならこれが最後の確認だぞ」

「……大丈夫、ですぅ。少しだけ怖いですけどぉ、アイガさんは優しく……してくれますよね?」

「ああ、約束する」

「分かってると思いますがぁ、私は……」

「うん、任せとけ。俺に身を預けてじっとしていればいい」

「…………はいぃ」


 俺はメルリの手を引いて彼女が普段眠っているベッドへと誘う。嫌がる様子もなく、素直にそれに従うメルリ。一旦座らせて深呼吸させてやる。そっとキスをしてから見つめ合う。大丈夫だと確信を持てたら肩を掴んでゆっくりと倒れ込ませていく。背中が布団に付いていよいよだと俺も気持ちを昂らせていく。すると、メルリが「うぅぅ……」と唸るような声を出した。


 緊張感に耐えられなくて心が折れそうになっているのかもしれない。でも、もう止まれない。髪を撫でてやり、もう一度キスをする。メルリが目を瞑る。浮かんで見える『91』という数字。撫でていた右手を滑らせ頬に……首に……肩に……そして、寝巻きの上から大胆かつ繊細に、その少し控えめな胸を撫でていく。漏れる吐息。くねらせる腰。その艶かしい仕草と、時折、俺の名前を呼ぶ際に耳を刺激する甘くとろけそうな声に、猛々しく主張する俺の怪物が我慢の限界を迎えたのだった――。



 翌朝。目を開くとそこはまだ見慣れていない天井だった。壁紙と同じ淡いピンク色のそれはまさしく昨晩の出来事が夢ではなかった証明になる。精根尽きて寝落ちしたのか、目覚めてもすぐに脳は働かなかった。はっきりとしない意識の中で俺は手探りで感触を探る。しかし、そこにあるはずの温もりと柔らかさを感じることはできない。


「……メルリ?」


 そう声を出し、首を振って左右を確認する。しかし、彼女の姿はない。ハッとした。脳裏に嫌な予感が走る。大量の汗が溢れ出てくる。体を起こそうとしたがまだ脳が寝ぼけているのか思うように動かせない。あの時と違って部屋の中は明るい。窓も開けられている。それじゃあメルリはどこに?


「アイガさぁん、そろそろ起きませんかぁ?」


 その声と共に部屋の扉が開いた。そこには既に着替えの済んでいるメルリが立っていた。ああ、そうか……俺は随分と深い眠りによってメルリが部屋を出ていたことにも気がついてなかったということか。それでも血の気が引いた。もしかしたら俺の中でトラウマになっているのかもしれない。紗愛サナを失った日の出来事が……。


「……ふぅぅ。焦った」

「起きられますかぁ?」

「あと五分待ってくれるか?」

「もぉ……それじゃあ私は開店の準備をしていますからぁ。起きたら降りてきてくださいねぇ?」

「はいよー」


 いつも通りのメルリ。いつも通りの日常が始まる。俺はしばらくそのままで流した汗が冷えていくのを待った。起きたらまずはシーツを取り外して洗濯しておかないとな。流した汗は二人分だ。それに、ほんのりと赤く滲んでもいた。俺はちゃんとメルリに優しくしてあげられていただろうか。昨夜の素晴らしい一時の記憶を呼び起こそうと目を閉じた時だった。


 ダァン! と大きな音が響いた。それは何かが崩れたような、へし折れたようなもので普段の生活で聞くような音ではなかった。そのすぐあとにはガシャン! だとか、バタン! だとか……騒々しい音が続けて鳴り響いた。それが何の音なのか、どこから聞こえてくるのか。それを俺が理解した時には全てが遅かった。


「……!?」


 慌てて体を起こす。動かなかった体がすんなりと起きて立ち上がる。部屋を出て階段を駆け降りる。一階にある店舗へと着いた時に見えたのは、半分に折れた店の扉から数人の男たちが出ていく姿だった。そいつらはどこかで見たような風貌をしていたが、そんなことを考えるより前に俺は周囲の様子を確認した。店内は荒らされており、商品や棚、カウンターの上にあった書類やレジとして使われている木箱が散乱していた。そして……。


「メルリ!?」


 店の真ん中で倒れているメルリを見つけて駆け寄った。膝をついて抱きかかえようとした時、辺りの床に赤い液体が広がっていくのが見えた。それは間違いなくメルリを中心に広がり、まるで留まることを知らない。メルリは腹を何かで刺されたようで、そこから血が溢れ出ている。まさに天国から地獄。嫌な予感が的中してしまった。まさか……また、こんな……。


「アイ……ガ…………さぁん……」

「メルリ! 何があった!? あいつらは強盗か? いや、そんなことはいい。すぐに病院へ!」


 どうする? どうすればいい? こんなに出血しているのに動かしても大丈夫なのか? まずは止血か? でも、そんなことをしている暇はあるのか? 咄嗟に動き出せない俺に向かってメルリが手を伸ばそうとする。それをすぐに掴んで何度も何度も彼女の名前を呼んだ。


「メルリ! メルリ!」

「ごめ、ん……な、さぁい…………」

「な、なにを……」

「アイガ……さぁん。愛、してぇ……」

「メルリ? 愛してる。愛してる! メルリ、愛してる!」

「また……ひ、と…………ご、めん……な、さ……」

「メルリ? メルリ? メルリ!? メルリ!!」

「わた、し……し……あ、わ…………せ…………」

「メ、メル……リ……?」


 嘘だ。嘘に決まってる。ありえない。夢だ。夢だ。夢のはずだ。こんなこと……絶対にありえない。俺の腕の中でメルリは動かなくなった。さっきまで普通に話していた。昨夜はあんなにも愛し合った。それなのにもう、あの声を聞くこともできない。メルリの体温が奪われていく。そして次第に冷たくなって硬直するんだ……紗愛サナと同じように。


 メルリの体をそっと床に戻して寝かせてやる。俺はまた守れなかった。いったい何をしていたんだ。すぐに起きるべきだった。傍にいてやればよかった。頬を伝っていく涙が止まらない。苦しくてメルリから目を背けてしまう。目線の先に三日月型をした水色の髪留めが落ちていた。それは彼女が命よりも大事なものだと言っていたものだ。俺はそれを拾いにいく。


「こんなものが……命よりも大事なはずないだろ……。メルリ……君の命は俺にとって、こんな髪留めなんかよりも……ずっと……」


 俺はそれを投げ捨てようとした。しかし、できなかった。できるはずがなかった。それをすれば俺がメルリを投げ捨てるのと同じことだと思ったからだ。俺は髪留めを握り締めた。もしかしたら手の中で壊れてしまうかもしれない。メルリと同じように救えたはずだと……壊さずに済ませられるかもしれないのに。俺の感情はまるで理性を保てはしない。


「この店だ! 扉が壊れてるぞ! 急げ!」


 外が騒がしくなってきた。異変に気付いた近所の人だろうか? それとも常連客たちか? どちらにしても結果はもう変化しない。メルリの死はけして揺るがない。そして俺は思い出す……メルリを殺した男たちのことを。あいつらに復讐をしなければならない。誰でもいい、この町の人たちと協力して必ず見つけ出して殺してやる。たとえ相手がヤクザやマフィアのような組織であってもだ。


 店に入ってくる数人の男性。知ってる顔もある。やはり常連客たちのようだ。彼らは一様にメルリの無惨な姿を見て膝から崩れ落ちていく。彼らもメルリに想いを馳せていた。こいつらは使える。俺の復讐の為の道具にしてやる。他の男たちはどうだ? 探検家のような格好をしている奴はもちろん、金持ちそうな奴も使えるな。それに…………ん?


「こいつだ! こいつが犯人だ!」


 一人の男が俺を指差してそう言った。その男は以前、花屋の前で恋人と待ち合わせをしていたのにも関わらず堂々と遅れてきていた……あの時の男だった。そいつが怒り狂ったような形相で俺を犯人だと言い放った。頭がイカれていると思った。こんな時に冗談でもそんなことを言う奴がいるなんて……。まずはこいつから殺してしまおうか? なんてことが頭を過る。


「こいつ、この店の従業員じゃないか!」

「まさか……メルリちゃんを殺す目的で近付いたのか!」

「ま、待て。何を言っている? 俺じゃない……俺なわけがないだろう!」

「信用するか! お前が……殺したんだ。彼女は幼馴染みだった。誰よりもオレを理解してくれていた。それなのに……あの日、お前に会ってから全てが狂いだした! そして、オレに別れを告げて自ら首を吊って……お前がそうさせたんだろ!」

「何の……話を……?」

「兵士たちに突き出してやる! 捕まえろ!」


 男たちが俺を捕まえようと一斉に襲いかかってきた。俺は咄嗟にその場から離れた。何故ならばそこにはメルリが横たわっていたからだ。暴れてこれ以上傷つけさせたくない。かといって無抵抗に捕まるわけにもいかない。兵士の元へ連行されれば教会や王家が動くかもしれない。そうなったらもう俺は二度と外へは出られなくなる気がする。それは困る。俺には成すべきことがあるんだ!


 俺は襲い来る男たちを振り払い店の外へと脱出を図る。ほとんどが素人の動きな上、半数は床に膝をついたまま動かなかった為に逃げ出すことは容易だった。扉も壊れている。探検家のような男がそこに立ち塞がったが、掴もうとする腕の動きと力を逆手に取って投げ伏せる。そして俺はすぐに駆け出した。


「待て! 逃がすな!」

「そいつを捕まえてくれ! そいつは首吊り事件の容疑者だ! もう何人も殺めている極悪人かもしれない!」

「探検家たちを集めろ! 生死は問わない! 報酬も出すぞ!」


 そう、聞こえた。俺は理解ができなかった。あの男たちが何を言っているのか。しかし、足を止めたら一貫の終わりだということだけは分かった。逃げた。どこまでも逃げた。息が切れても、足が千切れそうなほど痛くても走り続けた。いつの間にか周囲に建物は見えなくなっていた。誰も追いかけては来ていない。ここは……町の外だろうか? まだ日が昇ったばかりだというのに、俺の視界はモヤがかかったように黒く染まっていた。


 足を止めてその場に座り込む。頭がくらくらする。立ち眩みだったのかもしれない。喉も渇いたが近くには川もなさそうだ。これから……どうするか。もう誰の手も借りられなくなった。一人で何ができるのか。もう町にも戻れない。それは道に迷ったからだけではない。いや、迷ったのかもな。俺はこの異世界で迷子になったんだ。暗雲が立ち込めるとはまさにこのことだな。


「おや? あんた……アイガじゃないかい?」

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