メルリ・サッサネロ 編 1

 あれから、どのくらいの月日が流れたんだろうか。太陽が昇り、それが再び沈んでしまうまでの間、俺はただ布団の中で寝て過ごすだけの生活をしていた。また戻ってしまった。何もないこの空虚な日々に。もう希望はないと諦め、心が折れた俺には体を動かすだけの気力も沸き上がってはこない。


 もうすぐだった。いや、もう手は届いていたはずだった。俺は幸せの絶頂を迎え、この先の日々はささやかだけど薔薇色の人生になるはずだった。こんな異世界でも二人ならば楽しめた。訳の分からないことなんて忘れてしまえばいいと話したばかりだった。頼り頼られ、支え合って……そして愛し合えた。


 だけど……。だけど、紗愛サナは死んだ。自殺だった。宿の部屋には天井から鎖が垂れていて、そこに燭台を吊るすことで照明として利用できるようになっていた。そこで紗愛サナは死んでいた。俺の寝ている横で自ら首を吊ってこの世から去ったんだ。どうして……なんで……紗愛サナがもういないなんて…………。


 自殺だと断定したのはこの町の医者だった。紗愛サナが出勤してこないからと心配して呼びに来た酒場の同僚が俺たちの部屋の扉を開けた時、紗愛サナの死は世間的に発覚されたことになる。宿の主人に酒場のマスター、そして町の医者と次から次へと人が訪れ俺に説明を求めた。しかし、その時の俺にはその出来事を受け入れることができないどころか、頭が空っぽになったように何も考えられなくなっていた。


 紗愛サナの遺体はアメムガリミス教会の人間が引き取りに来たそうだ。俺はそれに立ち会ってはいない。しばらくして葬儀も行われたようだが、俺はそれにも参列してはいない。火葬されたのか、土葬されたのか、それとも他の方法だったのかさえ知らない。俺の時間はあの時から止まっていたのかもしれない。


 誰かが言っていた。これは本当に自殺なのかと。紗愛サナは出勤準備を終えていたようで、自殺を考えている人間がわざわざ仕事に向かう準備をするのかと。これも誰かが言っていた。以前に起きた首吊り事件に似ていると。そして誰かがこう切り出した。彼女は何者かに操られていたのではないかと。それが魔法によるものか、魔物の呪いなのかは分からないがと。


 その言葉が聞こえた瞬間、俺の体はどうしようもなく激しく震えだした。もしかしたら……その可能性が……信じたくはないが……もしそうなのだとしたら。空っぽだった頭の中で、紗愛サナへの気持ちと崩れた現実、責任感と虚脱感、そして悲しみがごちゃ混ぜになって揺れ動いた。


 魔法を操ることのできる探検家の仕業か、魔物による無差別な呪いか、それとも……俺の…………。


「アイガさぁん、起きてますかぁ?」


 コンコンと扉をノックする音と共に甘くとろけるような声がした。そこでようやく俺は目を開くことになる。薄暗い部屋、燭台ではない見慣れない照明道具は消されたままだ。声の主は俺の返事を聞くまでもなくドアノブに手をかけて部屋に入ってきた。その瞬間、パァーっと部屋の中が明るくなっていく。照明道具が起動したようだ。


「あ、起きてますねぇ? 良かったぁ」


 そう言って彼女はこの部屋にある木窓を開けて部屋の換気を行う。その窓が開いて日光が差し込んできた時、部屋の照明道具は最大限に光量を増やす。部屋の中にいるのに、外と同じだけの明るさへと変わる。俺はその眩しさに耐えきれず、布団を頭から被ってしまう。


「ダメですよぉ! せっかく起きたんですからぁ、たまにはお店にぃ出て来てくださぁい!」


 彼女が俺の布団を奪おうとする。しかし、その力はとても非力で俺にとっては心地の良い揺りかごで揺られている気分だ。このままもう一度、眠りに就いてもいいだろうか。今は動きたくない。起きていたくない。現実には俺の居場所なんてないから。俺は夢の中で紗愛サナと二人で……。


「アイガさぁん、今日は伝えないといけないことがあるんですぅ! だからぁ、起きてくださいよぉ!」


 いつもなら諦めて部屋を出ていってくれるのに、今日はどうしても起こしたいらしい。ここは俺と紗愛サナが寝泊まりしていた宿ではない。彼氏として紗愛サナの最期に何もしてやれなかった俺は酒場のマスターと宿屋の主人に愛想を尽かされ追い出された。教会の世話にはなりたくなかった。というよりも、今はイサムたちやキヤス神父の顔すらも見たくはなかったからだ。


「…………アイガさぁん! きゃっ!」


 勢いよく布団が引かれ、掴んでいた手を離してしまった結果、俺に被さっていた布団は剥がされ、引っ張っていた彼女はその勢いで体勢を崩してお尻から床にへたり込んでしまった。隠れる場所を失った俺は仕方なく上半身を起こしてその場に座り込む。そしてうるみ色の短髪をしたその女性の髪に付いた水色で三日月型をした髪留めを見つめていた。


「いたたぁ。もう……あ、おはようございまぁす。アイガさん、私のことぉ分かりますかぁ?」


 そう尋ねられ、俺は思い出す。この子と初めてあった港でのこと。そして、紗愛サナが見つけてきてくれた俺の仕事……その道具店へと初めて足を運んだ時の出来事を。



 ――あの日、道具店に訪れた俺は無人の店内を見回して店主を探したり、見慣れない道具を手に取ったりしながら待っていた。遅刻しそうだったはずの俺が待つことになるとは思いもしなかったが、この店は防犯に対する意識が低く泥棒や強盗なんかの心配をしていた時のことだった。バタン! と勢いよく扉が開かれ、一人の女性が飛び込んできた。


 その女性は息を切らし肩を上下させて、胸に手を当てて呼吸を整えようとしていた。うるみ色の髪は短く、どこか物足りなさを感じたのを覚えている。衣服は一般的だけど華やかな色合いをしていてその上からエプロンをしていた。ぱっちりと開かれた目が俺を捉え、少し驚いたような表情をしながらも彼女は息を吸い込んで申し訳なさそうにこう告げた。


『ごめんなさぁい。この店はしばらくの間……休業することになりましたぁ』


 あの時は驚いた。きっと彼女は俺のことを客だと思っていたんだろう。だけど、俺はここで雇ってもらえると聞いて来ていた。その店がいきなり休業宣言、驚かないはずがない。慌てふためき、俺は言葉を失う。その時の彼女の表情は寂しそうというか、今にも泣き出しそうで膝も震えていた。


『…………あの、何かあったのかな? 俺は、ここで雇ってもらえるはずだったんだけど』

『え? それじゃああなたがぁ? 酒場で働く女性の同居人の方とお聞きしていたのでぇ、私はてっきり女性の方なのだとばかり…………。あ……そういうこと…………ごめんなさぁい!』

『えっと……まぁ、それはいいけど。それで? なんで休業に?』

『私……無くしてしまって…………もう、気が気でなくてぇ』

『とりあえず落ち着こうか。ここの店主は? 留守……なのかな?』

『はいぃ。今は他国の方での商売に精を出しておりましてぇ、たまに様子を見に戻っては来るのですがぁ……先日、出港したばかりなのでぇ次はいつ戻るか……』

『それじゃあ、俺を雇うって決めたのは?』

『はいぃ、私ですぅ』

『君が? つまり……君は店主の娘さんとか? そして今は店主代理ってことかな?』

『そうなりますねぇ』


 俺を雇ってくれたのは店主ではなく、その代理を務めている娘さんだった。この子を初めて見た時に見送っていた中年の男性……あれがこの子の父親だったんだろう。二人の関係性が気になっていたが、これでようやく腑に落ちた。あまり似ていなかった……なんて言ったら失礼だけど、この子はきっと母親似なんだろうな。


『それで? なんで休業に? 何かを無くしたって言っていたけど』

『はいぃ……。私の大事な……宝物だったんですぅ…………。それを、どこかに落としてきてしまったようでぇ……』

『それに気付いて店を開けっ放しにして飛び出して行ってたのか』

『あ、ごめんなさぁい……』

『いや、謝るなら店主に。俺が来た時には誰もいなかったし、荒らされてないから泥棒も入ってないとは思うけど』

『そうですかぁ……』

『それで、落とし物は見つからなかったってことなんだよな?』

『はいぃ……』

『それが見つかるまでは店なんてやってられないと?』

『そうですねぇ……ごめんなさぁい』

『…………困ったな。俺にはもうここしかないんだ。他の店では雇ってもらえなくて。落とし物ってどんな? 探せる物なら一緒に探すけど』

『髪留め……。母の形見だと小さい頃に父から譲り受けたものでぇ……私にとっては命よりも大事な…………』

『髪留め? それって……水色で三日月型の?』

『え? はいぃ……そうですけどぉ、どうしてそれを?』

『港で会った時に付けてたよね』

『…………あ! あの時の!?』

『今気付いた?』

『すみませぇん』

『いや、いいよ。それよりも……これだろ?』


 俺はポケットにしまってあったそれを取り出して彼女に見せた。金色の金具と水色の装飾の付いた三日月型の髪留め。彼女の探し物はここへ来る前に立ち寄ったアメムガリミス教会前の広場で俺が既に拾っていた。これは偶然か? それとも必然か? あの時、不安と緊張を掻き消す為に神様とやらに祈りを捧げてみたんだが、もしもあそこで膝をついていなければこれを発見することもなかっただろう。偶然にしては奇跡に近い出来事だった。


『それぇ! どうしてぇ!?』

『教会の前で拾ったんだ。どこかで見たものだとは思ったけど、まさか持ち主が俺の雇い主だったとは思いもよらなかったよ』

『あのぅ……それは…………返して頂けますかぁ?』

『ああ、もちろん。君に返す為に神様が俺に預けたんだろう』

『ありがとうございますぅ!』


 髪留めを彼女に返す。それをとても嬉しそうに、そして安堵したように受け取る女性。両手で握りしめ、胸に押し当てるようにして亡き母に謝罪でもしているのだろう。目を瞑り、申し訳なさそうな表情で祈る彼女の姿はとても小さく見えた。


『……それで、探し物は見つかったけど? 俺はどうすればいいかな?』

『あ……そうですよねぇ。えっと……』

『まだ店は休業する予定?』

『いえ! 休業は……取り消させていただきますぅ』

『そうか。良かった』

『でも、私……』

『ん?』

『男性の方だとはぁ思っていなかったのでぇ』

『あー、うん。男だと何かまずいの?』

『いえ……そういうわけでもないですけどぉ。こんな町の端っこにある小さなお店でぇあまりお客様もおいでになられることも多いとは言えませんがぁ、それでも近くでご用の際は帰りに立ち寄ってくださる常連様、それから、ここで扱っている商品の価値を分かってくださっている探検家の皆様もいてぇ……細々ではありますが有難いことにこうして毎日お店を開けていられていますぅ』

『うん』

『でも、中には買い物を目的として来店するわけではない方もいらっしゃってぇ……』

『…………というと?』

『はいぃ……その……実は、この辺りの地区はあまり治安が良いとは言えなくてぇ……』

『みたいだね。崩れそうな建物や既に廃墟のようになってる建物もあった。精気を失ったように座り込んでる人もいたし』

『…………私も昔、その……誘拐されそうになったことがありましてぇ』

『誘拐? マジか』

『はいぃ……』


 そこまでのことが起きるような場所だったのかと驚いた。この国はダンジョンという観光資源があって他国から訪れる人も多い。それなのに町の一部だけがこれだけ貧しいのはおかしくないか? この世界だけに限らず貧困の差は激しく、その溝を埋めるのも難しいのは分かってはいるが、一国の一つの町だけでこれだけの差になるのはどうなんだ? 明らかに放置されている。この地区には何かあるのだろうか?


『それで、父からは一見様の男性客は来店をお断りするようにと言われておりましてぇ』

『そうか。一人娘だもんな。大事なのは分かる。でも、それだけ大事なら娘一人残してどこに行ってんだよって話だけど』

『…………父は根っからの商人ですからぁ。今は他国で出会い、ご出世なさった将軍様からご贔屓にされているとかでぇ』

『将軍……。やっぱり他の国にも軍隊とかは普通にあるんだな。それで、君は危険だと分かっててなんでこの店を続けてるの? お父さんが帰ってくるまで閉めておくことだってできるよね?』

『はいぃ……。でも私、父の作った道具が好きなんですぅ。小さな頃から物作りに励んでいた父を見てきてぇ、私にはそんな才能はありませんでしたが、せめて……商品となったこの子たちを多くの人たちに知ってもらい、探検家さんたちのお役に立たせてあげたいんですぅ』

『思い入れか。そしてやっぱり君は商人の娘なんだね。そういうことなら俺は応援したいよ。道具のことはまだ全然知らないけど、この店の雰囲気も好きだし並べられてる道具たちはよく手入れされてて綺麗に整列もしてる。愛されてるのが伝わってくるよ』

『ありがとうございますぅ!』

『俺は男だけど客じゃないし、看板娘である君に危害を加える存在でもない。むしろ、俺なら君を守ってあげられるかもしれない』

『こちらもお手伝いして頂けるなら本当はすごく助かりますしぃ、用心棒としてと紹介もされていたのでぇお願いしたいところではありますがぁ……』


 あと一歩かな。もう一押し欲しい。本来ならきっともう断られていてもおかしくはない。それくらいこの子は父親の言葉を固く守っている。だけど、俺は母親の形見を拾った……言うなれば恩人ということになる。そんな相手だからこそ無下にはされていない。そんな時、ふと防具屋の店主に言われた言葉を思い出した。


『君はここで何を得られると思う? 君はこの店の為に何をしてくれるのかな?』


 そうだ。あの問いに答えられなければ、俺はここで彼女を言いくるめても長続きはしないまままた去ることになってしまうんじゃないか? 俺はその場で大きく深呼吸をした。彼女はそんな俺を店の扉に背を向けたままじっと見つめていた。


『ふぅぅ……。聞いてくれ。俺の知り合いに探検家がいる。そいつらはまだまだこれからって感じなんだけど、俺はそいつらには無事にダンジョンを攻略してほしいって思ってる。本当は俺も手伝えたらいいんだけど、俺には恋人がいて、彼女を守ってあげたいから危険な場所には行けないんだ。だけど、何とか別の形で協力できないかとも思ってて。例えば道具の知識を得てその扱い方を教えたり、素材ごとの特性とかそういうのも教えてあげられたらいいなと思うんだ。もし、ここで俺を雇ってくれるなら、営業時間内は俺が君とこの店を守る。毎日でもいい。この店を閉じなくてもいいように協力したい。そして、時間がある時だけでいいから道具や素材の知識を分けて欲しいんだ。頼む……俺をここで使ってほしい』


 深々と頭を下げる。目の前にいるのはおそらく年下であろう女の子。でも、そんなこと言っている場合じゃない。彼女は店主代理……現在においてこの店のトップであり、俺にとってはきっと最初で最後のチャンスだ。全力で全身全霊を込めて願った。二人きりの店内は静かで、息の切れていた彼女の呼吸もいつの間にか整っていた。


『…………分かりましたぁ。私自身、まだまだ未熟者でぇいろいろと至らぬ点もあるとは思いますがぁ、どうか……よろしくお願いしますぅ』

『……ああ、ありがとう! 本当に嬉しいよ!』

『そんなぁ。こちらこそですぅ』

『はははは。そうだ、その髪留め付けたら? あんまり強く握り続けてると壊れちゃうかもしれないからさ』

『あ……はいぃ』


 彼女は言われるがままに髪留めを右手で持ち、左手で前髪を持ち上げるようにして左側に流すとその束を挟み込むようにしてパチンと金具を取り付けた。うるみ色の髪によく映える綺麗な水色の三日月は彼女を少し幼く見せる。しかし、甘くとろけそうな彼女の声とほっそりとした彼女の体型には良く似合っているなと思う。


『どうだ? 付けてると落ち着くか?』

『そうですねぇ。これを付けていると父と母がいつも傍で見守ってくれているようなぁ……そんな気持ちになれますぅ』

『そうか。それじゃあこれからよろしく頼むな。えっと……ああ、そういえばお互いに自己紹介がまだだったね。俺は愛訝アイガ。重杉愛訝アイガだ』

『アイガさん……?』

『うん。店主代理……君の名前も教えてくれるか?』

『はいぃ。私は…………』



「メルリ」


 敷き布団の上に座り込んだまま、俺は目の前でこちらを覗き込んでいる女の子の名前を呼んだ。俺の仕事場、サッサネロ道具店の看板娘にして店主代理……メルリ・サッサネロ。

 

「はいぃ! 良かったですぅ。最近のアイガさんは声をかけても心ここにあらずで心配していましたがぁ、もう大丈夫ですよね?」

「………………」

「…………?」

「…………伝えないといけないことって?」

「あ、はいぃ。アメムガリミス教会のキヤス神父様からのお伝言ですぅ。えっと……」


『事情はお聞き致しました。この度のことは心から御悔やみ申し上げます。彼女には私の理想を多くの人々に伝え広めて頂いた御恩もありますので非常に残念な思いです。しかしながら、当初の約束通り……我々教会としては彼女に対して何の救いの手を差し伸べることもできません。どうか祈りを捧げることもできないことをお許しください。あなたならば既にご理解頂けているでしょうが、勇の者と呼ばれる者たちはアイヴイザード王家の許可なくしてこの国に骨を埋めることすら許されないのです。彼女の亡骸は我々教会が預かっておりましたが、肉体の限界が近かった為にその身は聖なる炎によって我らの神の御許へと御返し致しました。よって、残った遺骨の処遇をご相談したく伝言をお願い致しました。私の一存で現在は教会にて保管させて頂いておりますが、そう長くは預かることを許されません。遺骨にも魂が宿るとされ、その地に深く根づいてしまうという神の教えがあります。いずれは砕かれ灰とされ、島の外……遥かな大海へと流されることになるでしょう。どうか、最期はあなたの手で彼女の魂を天へと御返しください』


「……以上ですぅ」

「………………うぅ、くっ、ああ……ぐぅぅ」


 俺は涙を堪えきれなかった。キヤス神父はきっと協力しあえると言った俺の言葉を本気だと受け取ってくれていたんだろう。こんな時でも誠心誠意、俺と紗愛サナの為に動いてくれている。ケルヴィン王にバレたらお叱りだけでは済まないだろうに。彼の言葉は信用に値する。俺たちに嘘はつかないと言った彼の心にも嘘はなかった。それはつまり、今一度思い知らされることになる。もう紗愛サナはいないのだということを。


「アイガさん……」

「くぅぅ……うっ、うぁぁぁ…………」

「…………ごめんなさぁい。やっぱりまだ、お休みになられていた方がいいかもしれませぇん。横に……なってくださぁい」


 メルリが俺に布団を返そうとする。さっきは必死になって起こそうとしていたのにな。言いたいことを言ったらそれではいおしまい……か。違うな。この子はそんな子じゃない。あの伝言だってきっとずっと前から話す機会を伺っていたんだろう。俺が彼女の問いに答えて名前を口にした時、この子は俺がようやく立ち直ったのだと思ったんだろう。


 しかし実際はそうじゃなかった。俺は弱いから、あんなことを聞かされたら何度でも悲しみの中へと引き戻される。それだけ、俺の中では紗愛サナの存在が大きかったということだ。俺の全てを受け入れてくれた紗愛サナ。そして、立ち止まった俺をずっと待っていてくれた紗愛サナ。そんな彼女を俺は……守れなかった。


「メルリ……」

「はいぃ?」

「もう、俺のことは放っておいてくれないか?」

「えぇ?」

「頼むよ……」

「…………そんなことできませんよぉ!」

「俺が邪魔なら、すぐに出て行くから……」

「そういうことじゃないんですぅ! アイガさん……お願いですぅ、横になってくださぁい」

「………………」


 メルリが俺をなんとか寝かそうとする。それに抵抗するような気力など俺にはない。だけど、彼女が必死に俺の体を押しても倒れることはなかった。この子は……とてもか弱い女の子だ。商人としての知識は豊富で店主代理としての責任感もある。甘い声やその口調から感じられる通りの優しい心の持ち主で表情も豊かだ。だけど、この子はその非力っぷりからも分かるように危険から自分の身を守る術を持たない。


 その為の用心棒。そのついでに店員として雇われていた俺。紗愛サナがいない今、俺がこの世界で生きていく理由ってなんだろうな。生活費を稼ぎ、紗愛サナの負担を減らしたかった。たまには恋人らしく、美味しいものでもご馳走してあげたかった。そうやって思いつくことは全てもう叶わない幻想になった。だったら……俺が生きている意味とは? 紗愛サナのいなくなった世界で、何故俺は未だに息をしているのか。分からない……。


「俺も……紗愛サナのところへ…………」

「えぇ?」

「俺の骨も……紗愛サナと一緒に、海へ流してくれ……」

「…………アイガさぁん! ダメです! そんなことを言ってはダメなんですぅ!」

「メルリ……?」

「命を粗末にしないでくださぁい……。世の中には生きたくても生きたくても、どうしようもならない人たちがたくさんいるんですぅ。神様に頂いた命を大切にしてくださいぃ……」

「……神、か。悪いけど、俺はそんな目には見えないような存在を信じちゃいないんだ」

「………………」

「なぁメルリ。君も知ってるんだろ? 紗愛サナは自ら命を絶ったことをさ。どうしてそんなことをしたのか、誰も……俺だって分からないんだ。だけど死んだんだ。もう二度と彼女の顔を見ることもできない。なぁメルリ、紗愛サナの命は粗末なものだったんだろうか。どうして君は……紗愛サナのことも同じように止めてくれなかったんだ」

「……それは…………だって」

「分かってる。その場にいなかったもんな。止められるはずがない。あの場で彼女の自殺を止められたのは俺だけだ。俺は彼女が首を吊っている横で呑気に寝ていた。紗愛サナはどんな気持ちで最期の瞬間を迎えたのかな?」

「………………」

「キヤス神父は紗愛サナの肉体を神の御許へ返したと言ってたんだろ? でもさ、もしも……その神の力で紗愛サナが死んだんだとしたら?」

「どういう……ことですかぁ?」

「信じられないかもしれないけどさ、俺や紗愛サナは……この世界の人間じゃないんだ。アイヴイザード王家の指示でアメムガリミス教会の神父たちが召喚した異世界人。そんな俺たちには君たちの信じる神様とやらが特別な力を与えてくれたらしい」

「……そんなことがぁ?」

「それを信じないということはキヤス神父を嘘つきだと呼ぶことと同じだ」

「………………」

「そして俺は、神に与えられたという力がどんなものなのかも知らない。その力を発現させようと願ったこともある。結果、紗愛サナが死んだ。紗愛サナは自殺なんてするような女の子じゃなかった。気が強くて負けず嫌いで……そりゃあたまには落ち込んだりすることもあっただろうけど、自ら死を選ぶようなことは絶対にしない。しないんだよ、紗愛サナは……」

「それじゃあ……」

「そうだよ。たぶんそういうことなんだ。それ以外には考えられないだろ? きっと……寝ぼけたまま。何の罪の意識もなく俺は…………俺が紗愛サナを……」

「ち、違いますぅ!!」


 メルリが声を荒げるようにして叫んだ。その容姿には似つかわしくないくらいの大きな声だった。不覚にも驚き、俺は言葉の続きを声には出せなかった。たった一言で息を切らしてしまったメルリは肩で呼吸をはじめる。それを目の当たりにして、俺はまともにこの子を見ていなかったことに気付いた。メルリもまた俺と同じように……泣いていた。


「私には難しいお話は分かりませぇん。でも、サナさんとは一度だけ話したことがありますぅ。とても愛想が良くて、よく笑い、思いやりのある女性でしたぁ。そんな人が自ら命を絶ったとは……私も思えませぇん」

「そうだ。だからきっと……」

「でも私は、アイガさんのことならもう少しだけ知っていますぅ。ぶっきらぼうな一面が時々怖くなることもありますがぁ、その反面、何事にも一生懸命で他人に優しくてぇ……私のことも心配して守ってくださいましたぁ」

「それは……仕事として……」

「そうだとしてもぉ、アイガさんが誰かの……サナさんの死を願ったなんて絶対に思えませぇん! 仮にそうだったとしてもそれは事故でぇ……アイガさんには何の罪もなくてぇ……うぅぅ」


 いつの間にかメルリは俺以上に大号泣になっていた。大粒の涙をポタポタと流しながら俺の無罪を訴える。どうしてこの子はそこまでして俺を慰めようとしてくれるのか。これも店主代理としての責任感からくるものなのか? だけど、俺よりも俺の心配をしてくれている人が目の前で泣いているとどうにも冷静になってしまう。


 俺は袖で目を擦り涙を拭う。そのまま目を瞑り紗愛サナのことを思い出す。彼女がこの場にいたらなんて言うだろうか。きっとまた俺は叱られるんだろうな。自分の知らないところで別の女の子を泣かせて。また平手打ちかな? そしてあの鋭い目で睨まれながら怒鳴られるんだ。


『何やってるのよ! 愛訝アイガがそうやって簡単に弱みを見せちゃうからその子を心配させちゃうんでしょ! 頑張るって……約束したじゃない。ちゃんと自分の足で立ってよ。もうあたしには何もしてあげられないんだよ? 愛訝アイガ……分かってるんでしょ? あたしがいないってことはそういうことよ? 愛訝アイガがあたしのことをまだ想ってくれているのは嬉しいわ。でもね、愛訝アイガ自身のことは愛訝アイガにしか分からないんだから……。ちゃんと顔を上げて前を見て歩いて行って? そんな愛訝アイガのことを……あたしもずっと見守ってるから…………』


 なんてさ、紗愛サナがそんなことを言うだろうか。言うかもしれないし、言わないかもしれない。でもきっと、ここでメルリを泣かせている俺は間違っていると思うんだ。だからさ、俺はもう少しだけ生きてみようと思う。俺が感じた悲しみを……他の誰かに味合わせたくはないから。


 そっと目を開き、俺は目の前で泣いている女の子の頭に手を乗せ、ゆっくりと撫でた。そうしているうちに、その女の子は次第に落ち着きを取り戻し、荒れていた呼吸も整っていった。しばらくして顔を上げた彼女の瞳からはもう涙は流れていなかった。それでも潤んだその瞳をもう滲ませたりはしないように、安心させてあげられるようにと俺は笑ってみせた。そして一言謝ろうと思い、彼女の顔をしっかりと見て口を開いた。


「………………『69』?」

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