和田紗愛 編 10

 紗愛サナとの異世界デート。町の西側にあるショッピングモールのような商業施設でウィンドウショッピングを楽しみ、昼食はフードコートにてラクロバーナとかいう名前のカルボナーラを一緒に食べた。食後はやっぱりというかなんというか、テレビもスマホもない世界だからなかなか情報も入ってはこない状況で、俺たちが共通の話をするには限度がある。結局はデート中なのにも関わらず、主な話になるのはダンジョンのことや自分たちに与えられた特別な力とやらのことばかりだった。


 そんな俺たちの前に突如として現れた一人の女性。その人は探検家であり、二週間前に酒場で目撃していた。第一印象とは違ってノリは軽く馴れ馴れしいタイプで、俺たちがデート中なのは見て分かるだろうに隣の席に着いて話がしたいと介入してきた。それに対して紗愛サナはご立腹で今にも爆発寸前に見える。ここは彼氏として、何とかこの場を穏便に切り抜けたい。この一件で今日のご褒美が消え去ってしまったら……俺は……。


「悪いけど、遠慮してくれないか?」

「え、なんで?」

「なんでって……。見れば分かるだろ」

「デートのお邪魔虫? そんなに長居するつもりはないよー」

「悪い。本当に外してくれないか? 今日は大事な日なんだ」

「ふーん。でも、嫌だよ」

「は?」

「言っとくけど、アタシはワガママだからね。思い通りにならないと気が済まないタイプだし」


 知らねーよ。何なんだこの人は。何がしたいんだ。邪魔になってると分かった上でのこの態度には悪意しか感じない。俺が彼女の仲間たちを馬鹿にしたからか? それで嫌がらせに来たのか? 気にしてないみたいなことを言っておきながらやけにしつこく絡んでくる。どうする……言っても無駄ならこっちが席を立つか?


「ねぇあなた、アタシの男になるつもりはない?」

「は?」

「なんか酒場で見た時にビビッときちゃったんだよねー」

「それって……」

「一目惚れってやつ? 普段なら絶対にあり得ないことだけど」

「やっぱりあの時に」

「んん? 気づいてたの?」

「別に。ただ、たまにいるんだよ。俺のことを見ると好きになっちゃう子が……」

「なにそれ! 自分でそんなこと言っちゃうとかウケる!」

「面白くなんてない。その好意は一方通行だ。俺の気持ちが揺らぐことはない。紗愛サナ以上の女なんてこの世界……いや、どの世界にもいないからな」

「………………」


 女性は黙った。こちらを睨みつけたままじっとしている。何かを考えているのか? まだ邪魔を続けるつもりなのか? だったらそれに付き合ってやる義理もない。俺は立ち上がり、紗愛サナの手を取る。


紗愛サナ、行こう」

「……うん」


 すぐにその場を離れようと歩き出した。紗愛サナの怒りは収まっているように思えたが今はそれを確かめている暇もない。探検家の女性は付いては来ないみたいだ。俺たちはショッピングモールの出口へと直行する。その際に一つ、紗愛サナに確認しておくべきことを思い出した。


「彼女の数字は見えた?」

「え? あ……見てなかったわ。ごめん」

「いや、いいよ。紗愛サナ……俺こそごめんな?」

「…………愛訝アイガのせいじゃないもの。それに、あんな風にはっきりと言ってくれて嬉しかったわ」

「当然だろ。生まれ持った力……と言えるのかもしれないけどさ、俺だってああいうのは嫌なんだ。だけどさ、この力がなかったら紗愛サナと恋人同士になれなかったかもしれない。そう思うと嫌いにはなれないんだよな」

愛訝アイガ……」


 ショッピングモールを出て通りを進む。フードコートでは食べ終わった食器類は返却口に戻すのがマナーだ。しかし、俺たちはそれを放置したまま出て来てしまった。もう二度とあそこで食事なんてできないだろうな。でも、それを代償にしてでも紗愛サナとのデートはやり遂げたいんだ。今日の予定はまだまだある。ディナーだって予約してあるんだ。ここからもう一度仕切り直しだ。


 ガッ! と前方で音がして俺たちは足を止めた。視線の先には石畳の道路に刺さった一本のナイフがある。それを見た瞬間、ヒールを履いている紗愛サナの足がぐらつき、俺の背中にもたれるようにしがみついてきた。まさか空から降ってきたのか? いや、ナイフが降ってくるはずなんてない。これは俺たちの足を止める為に誰かが投げ込んだものだ。そして、俺たちの邪魔をする人物といえば……。


「考え事してるうちに行っちゃうなんてつれないなー」


 背後から声をかけられて振り返る。そこにはやはり先程の女性が立っていた。不敵な笑みを浮かべながら懐に隠してあったナイフを取り出している。嘘だろ? こんな町中で武器を抜いたのか? 常識はないのか? それだけじゃない。既に投げ込まれている以上は敵意があると思っていい。


「なんのつもりだ!」

「言ったでしょ? アタシは自分の思い通りにならないと気が済まないの。何が何でもあなたをものにするから」

「無駄だ。俺はあんたみたいな女は気に食わない。どう転んでもあんたを好きになることはない」

「それはどうかな? あなたさっき言ったよね? この世界にその女以上はいないって」

「ああ……」

「だったら……その女を殺しちゃえばいいだけじゃない?」

「正気か? こんな場所で人を殺せばあんたは終わりだ」

「いいよ? それであなたが手に入るなら」


 イカれてる。頭がおかしいんじゃないか? そこまでして俺への好意を貫き通したいのか。それは何ゆえに? 愛ゆえにか? そんな愛は望んでいない。愛の形は人それぞれなんだろう。これまでにも数々の好意を向けられてきた俺だけど、ここまでの一方通行は初めてだ。しかも紗愛サナを殺せば俺が手に入るとか……考え方が異常すぎるだろ。


紗愛サナ、下がって」

愛訝アイガ……あの人、普通じゃないわよ?」

「分かってる。でも、俺という存在がそうさせてしまっているのなら正気に戻してやらないと。たぶん、俺にしかできないことだから」

「…………無茶はしないで。絶対に」

「ああ」


 俺にしがみついていた紗愛サナを離して遠ざける。目の前の女性は右手で持ったナイフの腹を左手へと何度もペシペシと叩きつけている。感触を確かめているのか、こちらの様子を伺っているのか。ふと、俺の足元に彼女の持つナイフと同様のものが地面に突き刺さっているのを見つけた。さっき投げつけられたやつか……。俺は彼女から目を離さないようにしながら、そのナイフを抜き取った。


「あらら? あたしとヤる気? あなた探検家には見えないけど、素人が敵うとでも思ってるわけ?」

「やらなければお前に紗愛サナが傷つけられる」

「んふふ。抵抗する男を実力でものにするのも悪くないかも」

「言ってろ。すぐにその心ごとへし折ってやるよ」

「んんー、ゾクゾクする。それじゃあせいぜい足掻いてみせてよ。そしてアタシをよく知って!」


 その女が駆け出した。それは予想以上に速く、瞬間的にナイフを振り上げていなければ首筋に突き付けられていただろうということまでは理解できた。相手のナイフを弾いたものの、女はその反動を利用して回し蹴りを繰り出してきた。俺はそれを受け止めようとするが振り上げた手はそう簡単には戻せない。腹を蹴られ後ろへとよろめく体。女とは思えないほどの重い蹴りだった。


「やるじゃん! まさかナイフが捌かれるとは思わなかったよ。あなた、本当に素人?」

「さぁな。命の危機を前にして俺の特別な力が開花したのかもな」

「んふふ、面白いね。もっともっと見せてよ。アタシはあなたをもっと知りたいのよ!」


 そう言って女はまた懐に飛び込んでくる。俺はそれを一歩退いて迎え討つ。俺は確かに素人だ。だけど剣技の心得ならばある。相手の太刀筋は目で追えるし、それに合わせてナイフを押し当てるくらいのことならやれる。しかし、捌けるのは攻防一回につき一度だけだ。更に隠し持っていたナイフを女が取り出したのを目撃した瞬間に飛び退いて逃れた。


「良い判断! 逃げなきゃ死んでたよ」

「褒めても喜ばねーよ」

「あはは!」


 遊んでやがる。今のだって追撃しようと思えばできたはずだ。それをわざと見逃してくれた。それは、この女の目的が俺を殺すことではないからだろう。もう見抜かれている。俺に剣技の心得があったとしても全く役に立っていないことに。そうだ、俺は基本的に木刀しか持ったことはない。真剣を握ったこともあるがまだ子供だった俺はそれを人に向けて振るったことはなかったんだ。そんな俺がナイフを一本持ったところでいきなり無双できるほど世の中は甘くないってことだ。


 周囲が騒がしくなっているのを聴覚で感じていた。町中で暴れればそりゃあそうだろって感じだが、これは俺にとっては好都合だ。もっと騒ぎになって誰かが止めに入ってくれればこの戦いも収まるだろう。そしてあの女が兵士にでも突き出されれば厳重注意くらいは受けることになるはずだ。そうなれば今後は俺たちに近付くことも難しくなる……そう思っていたんだけどな。


「いいぞー! やれやれ!」

「おい兄ちゃん、押されてるぞ! 悔しくねぇのかよ!」

「そこだ攻めろ! やっちまえ!」


 周囲からはそんな声が投げ掛けられる。止めるどころか全力で煽ってくるじゃないか。女の攻撃を必死に捌きながらこの世界が普通ではないことを改めて重い知らされる。探検家ならばこんなことは日常茶飯事ということだろう。ただの喧嘩。プロであれば真剣で斬り合っても寸止めできるだとか、命は奪わないだろうとかって思ってるんだろうな。


 だが、この戦いはそんなものじゃない。剣を交えている俺には伝わってくる。この女は本気で俺の心を折りにきてる。俺が敗けを認めれば容赦なく紗愛サナを殺すだろう。だから俺は逃げることもできない。この女を倒さない限り、俺たちに未来はないんだ。たとえ……殺すことになっても。


「んふふ。どうしたの? そろそろ息が上がってきてるけど降参する?」

「ふざけるな」

「これ以上ヤっても無駄なのは分かってるでしょ?」

「お前なんかに負けるかよ」

「いいよいいよ。そうこなくっちゃ!」


 距離を取って一息つく。呼吸が激しくて酸素があまり肺にまで供給されていない。女が言った通り、そろそろ限界が近い。片手で扱うナイフでは上手く力を込めることができていないんだ。刀が……木刀でもいい。せめてもう少し刃の長い武器があれば善戦できそうなのにな。


 異世界に招かれた勇の者だっていうのなら、もっと分かりやすく俺に力を与えてくれよ。どんなものでも斬り裂く伝説の武器を手にするだとか、誰も操ることのできない究極の魔法を使えるだとか……そういう分かりやすい力で圧倒してこそ召喚された甲斐があるってもんだろ。


「特別な力が発現するなら今だろ。ここで負ければ次はないんだぞ。神様……いくらでも祈ってやるから俺に力を寄越せよ!」

「ここにきて神頼み? 呆れちゃうわ」

「見損なったならさっさと諦めて行ってくれよ。あんたに構ってたら今日が終わってしまう。言っただろ、今日は特別なんだ。この後の予定もあるし、まだまだ話したいこともあるんだ。いい加減に邪魔なんだよ、あんたは……」


 そこまで言った時だった。女は右手で持っていたナイフを自分の喉元に突き刺そうとした。それを顔を背けて避ける。そして、左手で持っていたナイフを投げ捨てて自分の右腕を掴むと引き離そうと力を込めているように見えた。何が……いや、何をしているんだ?


「あ、愛訝アイガ! その人……数字が……!」


 数字? と聞き返している間もなかった。女は「ぐぎぎぎぎ……」といったような苦しそうな声を響かせ、必死に堪えて後退りをはじめた。しかし、追っているのは自身の右腕だ。逃げ切れるものじゃない。次第に体力が削られて右手で持つナイフの切っ先が喉元に触れる。赤い雫を垂らしながら女は最後の力を振り絞って叫ぶ。


「アタシは! ただ……あなたを! 愛していただけなのに!」


 遂に刃が喉を貫通してしまう。そのまま横に掻っ捌き血飛沫が舞う。その光景にあれだけ煽っていた野次馬たちも黙り込んでしまう。俺と紗愛サナも同様に女が地面に倒れていく姿をただ眺めていることしかできなかった。訳も分からないまま、その戦闘は突然に終わりを告げた。



 ――その後のことはもうぼんやりとしか覚えていない。あっという間に騒ぎは大きくなり、詰所から兵士たちが駆けつける事態にまでなっていた。それは俺が望んでいた通りだったわけだが、こんな結果なんて……いや、これも俺の望み通りか? 殺すことになるかもしれないとは本気で思った。紗愛サナを守るためなら手を血で染めることになっても構わないとさえ思っていた。でも、まさか自害してしまうなんて……さすがにそれは予想できなかった。


 原因は不明だ。俺たちは事情聴取の為に詰所へと連行されそうになったが、アメムガリミス教会のキヤス神父の名前を出したらあっさりと解放された。さすがはアイヴイザード王家と関わりのある人物なだけはある。俺は震える紗愛サナを連れて宿へと戻ることにした。主人に夕食の手配を頼んでから部屋に入り、紗愛サナをベッドで休ませて俺は窓の側に設置されている椅子に座った。


 コップに水を一杯注ぎ、それを一気に飲み干す。コップから離れた手のひらをじっと見つめる。そこにナイフは握られていない。あれは現場に投げ捨ててきたからだ。しかし、握っていた感覚はまだ残っていた。その感覚を消すために手のひらを閉じたり開いたりしつつ、紗愛サナが落ち着くまでの間、ただ黙って今日という日が過ぎていくのを待っていた。


「ん……」

紗愛サナ、大丈夫か?」

「…………うん。ごめん、あたし……」

「いいって。まだ寝てた方がいい。急に動くと立ち眩みだとか貧血でまた倒れるかもしれないだろ?」

「……そうね、そうするわ」


 紗愛サナは詰所を出られた際の解放感の後、恐怖のぶり返しがきて足がすくんでしまった。目眩を訴えた為に今日のデートは中断することになったわけだが、こんな状態の紗愛サナを前にして残念だったとも言えるはずもなく。今はただ体調が戻るように安静にさせておくことしかできないんだ。


愛訝アイガは怪我してないの?」

「ああ、大丈夫だよ。かすり傷すらないから」

「そう……良かったわ」

「もうすぐ夕食も運ばれてくるから、そうしたら一緒に食べよう」

「ええ。でも……ごめんね。折角、愛訝アイガが色々と準備してくれていたのに」

「…………いや、謝るのは俺の方だろ。あんなことにならなければ紗愛サナが倒れることもなかったし、怖い思いをさせたのは俺のせいだ」

「………………」


 その後はしばらく無言が続いた。何か話してあげた方が良かったのかもしれないけど、俺は俺で今日の出来事を振り返ったり整理したりする時間がほしくて考え込んでしまっていた。食事が運ばれてくると、紗愛サナはベッドから起きて二人揃って小さなテーブルで料理を食べた。豪華なディナーにはならなかったけど、ちゃんと喉を通ったことには安心できた。


「なぁ紗愛サナ……思い出したくないかもしれないけど、聞いてもいいか?」

「うん。なに?」

「あの時、数字がどうとかって言いかけてたよな?」

「ああ……うん。そうね。あの時、あたしは彼女の数字を見たわ。話しかけてきた時のことは分からないけど、愛訝アイガと戦っている時の彼女は『64』だったわ」

「なかなかの数字だな。確か港でルータを最初に見た時は『53』で、見送った時は『82』まで増えてたんだよな。その中間辺りか。マイは『08』で変動しなかったからそれよりは圧倒的に大きい。そして、美菜ミーナの『76』『79』よりは小さい……」

「でもね、彼女があんなことをする直前にそれが大きく変動したのよ」

「……いくつになってた?」

「『100』」

「え?」

「急に増えたのよ。ううん、ルータさんの時は徐々に増加していく感じだったのに、今回は増えたっていうよりもいきなり『100』になったって感じだったわ」

「変動……というよりも、変化したのか? そして数字のキリが良いというのも気になるな。そこが天井なのか、それともたまたまそんな数字になったのか。それ以上は増えなかった?」

「うん。その前に彼女は…………」

「そっか」


 紗愛サナだけが見れる謎の数字。それが何を表しているものなのかは未だに分からないままだが、もしかしたら俺と何か関わりのある数値なんじゃないかと推測している。だとしたら、俺と紗愛サナが手にした力には結び付きがあるのかもしれないな。そして、突如として自害を図ったあの探検家の女……あれが彼女自身の意思ではなかったとしたら、俺の能力とは……。


「あの人、どうして急にあんなことを……」

「………………」

愛訝アイガのこと諦めたって感じでもなかったのに。当然、あたしは腹も立ったし、あんな方法で愛訝アイガを奪おうとするなんて信じられないとも思ったわ。でも、それでも手に入らないからって自分で命を絶ってしまうような人には見えなかった」

「ああ。あの人は自分の行動を拒絶しているように見えた。あれはまるで体に何かが憑依したような……操られてたって感じがしてた」

「人を操るような魔法があるってこと?」

「……魔法とは限らない」

「どういうこと? 愛訝アイガは何かに気付いたの?」

「いや、はっきりとはまだ。でも……覚えてるか? アメムガリミス教会でキヤス神父が言っていたこと」

「なに?」

「魔法だけが力の全てではない。純粋に身体的な能力の向上を遂げる者もいれば、精神的支配によって他者を弱体化させるような力もある……と。つまり、魔物だけに限らず、人間すらも操ってしまうような力があったとしても不思議じゃないってことだ」

「それって……あたしたちに与えられた特別な力であの人を操って…………殺したってこと?」

「まだそうと決まったわけじゃない。だけど、その可能性もあるってこと」

「そんな…………」


 俺の能力か、それとも紗愛サナの能力か。どちらでもない可能性だってある。でもたぶん、あの時の状況からいって最も可能性があるのは……俺か? 俺は能力の発現を願っていた。その条件すら判明していない以上、無意識に発動させてしまっていたとしてもおかしくはない。だとしたら、あの力は強大すぎる。制御できなければ今後も起こりうることで、無自覚の殺戮者にだってなり得てしまうということだ。危険すぎる。


「あたしたち……どうしたらいいのかな?」

「ん?」

「だってこのままじゃ、もう外にも出られないわ。こんなことなら……」

「ダンジョンに潜った方がマシだったか?」

「…………そうかもしれないわね」

「そんなことはない。それこそ、紗愛サナにとっては……。それに、制御できてない力を持ったままダンジョンへ潜っても仲間を危険に晒すだけだ。その力でイサムたちを殺してしまうことだってあるかもしれない」

「………………」

「どっちの方が良いとかって話じゃなくて、あいつらを殺してしまったら俺たちは元の世界へ帰れる確率が大きく下がる。今の俺たちにできることは自分の力を知って制御することだけだ。でも、どうすればそれができるのかも分かってない。つまりは……何もできない。あの力が発動しないように静かにこの町で暮らしているしかない。そうだろ?」

「……うん」


 紗愛サナの体は震えていた。怖いんだろうな、人を殺してしまったかもしれない力なんてものが。自分の意思でなかったことにはできないし、この世界へ招かれた時点でまともな生活なんてできないことは分かっていた。それでもここまで上手くやってきた。それは紗愛サナの頑張りが大きい。俺の努力なんて紗愛サナと比べたら砂粒一つ分くらいでしかない。今の俺たちには何もできない。今の俺には……紗愛サナの震えを止めてやることすらも……。


愛訝アイガ……」

「ん?」


 紗愛サナが椅子から立ち上がる。足元がふらついていて危なっかしく感じた俺も一緒になって立ち上がる。そして、彼女を支えてあげようと近付いた時、紗愛サナが俺の胸へと飛び込んできた。しがみつき、抱き合う形になった。そうなってから気付くことができた。これは……これだけは俺にしかできないことだと。紗愛サナの震えを止められるのは俺だけなんだ。俺は強く紗愛サナを抱き締める。


「大丈夫。紗愛サナには俺が付いてる。もう怖い目には合わせない。特別な力……そんなものはもう忘れてしまおう。考えなければいい。発現させようとしなければその力が行使されることもないはずだから」

愛訝アイガは……強いね」

「俺が?」

「うん。逞しくなった……なんて言ったら生意気?」

「そんなことない。確かに俺は情けない男だった。でも変われたのは、紗愛サナがずっと隣で叱って、励まして、応援してくれたからだよ」

「あたしはそんなに強くないわ」

「強くなくていいさ。紗愛サナが意外と打たれ弱いってのは知ってるしな。昔、一度告られた時に俺は断ってる。その時は他に恋人がいるからだと紗愛サナも納得してくれたよな? だけど、あの時の紗愛サナはすごく悲しそうな目をして涙を我慢してたのはよく覚えてる。付き合いだした後もいろいろとあったけど、紗愛サナは壁にぶつかった時はいつも苦しそうにしてた。だけど俺はダメ人間だったから何も言ってあげられなくて、してあげられなくて……。気がつくと紗愛サナは自分で壁を乗り越えて前に進んでた。俺はそんな紗愛サナを見て立派だと思った。大人だと思ったよ。ずっと昔ある人に……『強さなんて必要ない、大事なのは前に進む力だ』って言われたことを思い出したよ。まだ俺も子どもだったからその意味が分からなかったけど、今ならよく分かる。ダラダラと寝て過ごしていた日々は二度と戻らない。そして、日が経つに連れて就職活動に対しての意欲とチャンスが失われていった。だけど、俺はこの世界に来て変わることができた。それは何故か……俺には紗愛サナがいてくれた。この世界に来てから気付いたんだ。紗愛サナには……復帰力があるって。失った時間はけして戻らないけど、リカバリーする力があれば人はまたやり直せるんだってことに」


 紗愛サナは黙って聞いていた。時折、鼻をすする音がしていて泣いていることにも気付いていた。震えはまだ止まらない。俺の背中に回された手に力が込められる。俺では力不足だったのかもしれない。紗愛サナという器に俺という存在は小物すぎるんだ。本当は俺の方が彼女の全てを受け止める器になってあげなければならなかったのに。


紗愛サナなら大丈夫さ。俺を更生させてくれた復帰力を持ってる。また前を見て歩き出せる。頼りないけど、俺も一緒に歩くからさ。二人で乗り越えていこう。その為ならなんでもする。紗愛サナの為ならなんでもできるから。俺にしてほしいことがあればなんでも言ってくれていい」

「…………なんでも?」

「ああ」

「それじゃあ……」

「ん?」

「あたしを……慰めて?」

「え?」

「まだ怖いのよ。このままじゃあたし……何もできなくなる。だから、忘れさせて? 嫌なことを全部、愛訝アイガで上書きしてほしいの」

紗愛サナ……でも」

「あたしは、あたしが愛訝アイガを好きになったのに! でもずっと我慢してた……それが愛訝アイガの為になると思ったから。なのに……こんな世界に来て訳が分かんなくて。でも愛訝アイガは頼りになってかっこよくて、社会復帰だってできたくらい変わってくれた。あたしは……何の役にも立てない。ずっと愛訝アイガの足を引っ張ってる……」

「そんなことは」

「こんな状態のあたしは抱けない? 愛訝アイガにとって、あたしはもう魅力がない?」

「そういうことじゃ……。紗愛サナ……それでいいのか?」

「うん……。あたしにとっては愛訝アイガが全てなの。愛訝アイガに必要とされたい。愛訝アイガに……愛してほしい」

「愛してるよ。俺も同じだ。俺だって紗愛サナがいないとダメなんだ。紗愛サナが必要だ。見捨てられたくない。今日だってずっと楽しみにしてた。ようやく俺は紗愛サナの隣に立つことを許されたんだと……ようやく、彼氏として紗愛サナの為にできることがあると知れた。紗愛サナ……俺は、紗愛サナを抱きたい。今ここで、俺が全てを忘れさせる」

「………………うん」


 紗愛サナを抱きかかえ、ベッドへと運んで寝かせる。その上に覆い被さるようにして座り込み、そっとキスをした。いつも強気な紗愛サナが恥ずかしそうに、そして少し怯えたように目を瞑る。この日の為に用意してくれたドレス風の衣服を脱がしていくと、目の前で白く大きな胸が露になった。それを腕で隠そうとする紗愛サナが初々しくて可愛く思えた。俺はもう一度キスをして、紗愛サナの緊張をほぐしていく。


「……ごめんね?」

「ん?」

「制服姿……見せてあげられなくて」

「あ……。はは! 向こうに帰ったらまた……な?」

「うん。愛訝アイガが向こうでも変わらずに頑張ってくれるなら」

「ああ。やれるさ。俺はご褒美があれば頑張れるって自覚したからな」

「あはは、なにそれ。でも……それなら、たくさんご褒美を用意しないとね」

「マジか。それじゃあ張り切っちゃおうかな。紗愛サナ……いいか?」

「うん。愛訝アイガ……大好きよ」



 ――その夜、俺は紗愛サナを抱いた。もうどのくらいぶりかも分からないくらいだったが、相変わらず紗愛サナの体は綺麗だった。この宿の壁はそんなに分厚くはない。声を押し殺そうとする紗愛サナが可愛くて、俺の心にも火が付いた。本当はもっと丹念に紗愛サナの全てを愛してあげたかったのに、燃え上がった二人の炎はあっという間に燃え尽きて、俺は紗愛サナの中に全てを吐き出して果てた。


 こうして俺たちの約束も果たされた。誰にだって強みもあれば弱みもある。俺と紗愛サナはそれを上手く補い合っていけることを知った。一人では生きていけない世界だけど、紗愛サナと二人なら笑って日々を過ごしていけるだろう。お互いに仕事も順調だ。たまには喧嘩することもあるだろう。だけど、俺たちの愛は揺らぐことはない。元の世界へと帰り、次の約束を果たす為に俺たちは生きていく。前に向かって歩いていくんだ。


「……んん」


 目が覚めた時、ベッドの中が寂しく感じた。それもそのはずで、そこに紗愛サナの姿はなかった。今日も朝から酒場の仕事へと向かったようだ。薄暗い部屋の中、俺もそろそろ起きなければいけない時間だと分かっているのになかなかに体が重い。昨晩は張り切り過ぎたか? 乱れた紗愛サナの姿を思い出してニヤニヤと口角を上げてしまう。


 少し肌寒くて体が震えた。今日は雨が降っているのかもしれない。この世界では滅多に雨は降らない。それでも気候や気温は安定しているし、作物などを育てている農家などもあるらしいから影響はないんだろう。まぁ、魔法なんていうものがある世界だし、その気になれば雨くらい降らせられるのかもしれないな。


 …………あれ? ちょっと待てよ? どうしてこの部屋はこんなにも薄暗いんだ? この世界に照明はない。宿の部屋にあるのは燭台だけだ。もちろん蝋燭の火は消えているわけだけど、こんなに部屋の中が暗くなることはない。何故ならば、この宿には小さな窓が一つあるがカーテンはない。日光を取り込みやすくするためだろう。もちろん、覗き防止の為に木窓は外側に倒れ込む設計になっていて、紗愛サナはいつもそれを倒してから部屋を出るようにしていた。その窓が今日は開かれてはいない。


紗愛サナ……いるのか?」


 まだベッドの布団から出られない俺はその場で声をかける。しかし、返事はない。シャワーでも浴びてるのかと思ったけど、そんな音は聞こえてはこない。開け忘れ……ま、そんな日もあるだろう。そう思っているとようやく体が動きだす。ゆっくりと起き上がると正面で窓は開いていた。小さなテーブルだけが光を浴びている。その上に置いてあるのは燭台と水の入ったコップが一つだけだった。


 その時、俺は強烈な違和感と、背中から震え上がりそうなほどの寒気を感じていた。ベッドとテーブルの間だ。窓から差し込まれる光を遮るようにそこには何かがあった。俺は視線を少し上へと向ける。薄暗い部屋の中、そこには燭台をぶら下げる為の鎖があったことを思い出す。しかし、そこに燭台はぶら下がってはいなかった。燭台はテーブルの上に置いてあったからだ。代わりにそこからぶら下がっていたのは……。


「…………紗愛サナ?」

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