#137 港湾都市ノースフォークⅢ
「お、おいおい~。困るなぁ、俺っちこう見えて忙し―――」
男はあまりのシリュウの視線の鋭さに
あるいは、この男はこの世で最も踏んではいけない尾を踏んでしまったのかもしれない。
「かえせ」
「へっ?」
「シリュウ、さん?」
「シィのおかねかえせ」
―――ギリギリギリッ
「ひっ! いだいいだいいだいっ! まっ、待ってくれよ! 何のこと――」
―――ゴギッ
「うあ゛ぁぁぁぁぁっ!!」
「シ、シリュウさん! いったい何をっ!?」
その悲鳴で何事かと家々から人が顔をのぞかせ、目の前の店からは人が慌てて飛び出した。
火竜の怒りを収めようとしているかのように雨足が強まる中、シリュウは肩をつかんだまま、膝を突いて悲鳴を上げる男をなおも睨み続けている。
男は後に、この時一度シラを切ろうとした事を生涯後悔することになる。
「このクソ人間、シィのおかねとった」
「えっ!? 窃盗ですか!?」
「ん~……ここ」
シリュウは男の右胸を指さし、自分の金袋が入っているであろう場所を指摘する。
「はやくかえせ」
―――グシャッ
「ぎゃぁぁぁぁっ! まっでっ、まっでぐれ! がえすっ! がえすからぁっ!」
「シリュウさん! 私が取りますからちょっと待って下さい! この人の肩が!」
「あ゛ぁん? なんで女中人間がとるんだ? クソ人間がとったからクソ人間がかえすのが当たりまえだ」
「っ!?」
―――ブチッ
「ひい゛ぃぃぃぃぃっっ!」
男の肩から鮮血が噴き出し、シリュウは引きちぎった骨と肉片を投げ捨てる。
「それとあと」
一言そう告げ、シリュウは
「うごっ、げあっ」
「シィは竜人だ。はやくかえせ」
「は、早く返してください! このままじゃ……このままじゃ貴方は無事にすみませんっ!」
セロットの声が届いたか否かはわからない。男は気を失いそうになる中、震える手で自身の胸元に手を伸ばす。肩から流れる血は雨に流され混ざり合い、今更ながらとんでもない尾を踏んでしまった事に男は心の底から後悔した。
「シリュウさんっ! 熱っ!?」
なんとかシリュウの気を逸らせようと首をつかむ手首に触れた瞬間、とんでもない熱にセロットは驚き手を引いた。このぬるま雨の中、熱が色となって彼女の指を赤く染める。
そしてこの瞬間、実感としてシリュウは自分とは種が違う事を思い知った。
男の首、シリュウの手から湯気が出ている。伝う雨が蒸発しているのだ。この窃盗犯は、もう助からないかもしれない。
セロットがそう思った瞬間、男は消えゆく意識の中、盗んだ金袋を命がけで取り出して目の前に差し出した。
「ふんっ」
―――ドサッ
シリュウはもう片方の手で金袋を取り上げ、男をまるでごみを捨てるように解放する。
男は雨の街路に横たわったまま動かず虫の息。悲鳴からの一部始終を見ていた見物人らは誰も声を上げられないまま、シリュウはさっさとその場を後にしようと踵を返した。
「お、おいどうすんだよ」
「どうするって、あいつスリだろ。自業自得じゃねぇの? 放っときゃいいんだよ」
「にしてもやりすぎ……いや……まぁ……う~ん」
「戦団に報せた方がいいかな?」
「それはさすがに……なぁ」
「あんな怪我じゃ鉱山送りも無理だろうし、二度とスリなんてやれねぇだろう」
何とも言えない空気が漂う中、セロットはこの窃盗犯を助けるか、守護戦団に知らせるか、シリュウを追うかの三択に迫られていた。
(んんんんっ!)
「よし! 私は何も見なかった!……が、出来るほどの人間じゃないのよね……」
セロットはうなだれつつ、この窃盗犯を助ける選択をした。シリュウを追いたいのは山々だったが、この出血を放置しては失血死してしまいかねない。自分も当事者のようなものであり、さすがに窃盗で命を落とさんとする人を見て見ぬふりはできなかった。
罰だとしても、重すぎる。
しかし、倒れ込む男の腕を肩に回して立ち上がろうとするが、脱力した大人の男を支えるのはセロットには難しい。
「お嬢ちゃん、あんたは間違っちゃいねぇと思うぜ。っと」
見かねた店の主人が助け舟に入ろうとしたが、その脚は店先で止められた。
「助けるのか?」
「わぁっ! シ、シリュウさん!」
いきなりシリュウの顔が目の前に現れ、その瞳は真っすぐ自分に向けられている。先ほどの男を刺すような視線ではないが、セロットは自分がやろうとしている事への申し訳無さからつい視線を逸らしてしまった。
「はい……すみません、シリュウさんのお財布を盗もうとした人なのに……」
「ふ~ん……それじゃあこれでおかしの借りはなしだぞ」
「えっ?」
シリュウは事も無げに男の腹に手を当て、片手でグィと持ち上げる。
(シリュウさん……)
怪我をさせた張本人がその怪我人を治療の為に運ぶという訳の分からない事になってしまったが、セロットは貸してもいない貸しで一人の命が救えるのならと、そうすることに何ら躊躇いは無かった。
「ふぐっ……ありがとうございますありがとうございますっ」
「おい、いいからどこいくんだ! このクソ人間のせいでびちゃびちゃなんだぞ!?」
「は、はいっ!」
セロットの一方的な好意はこの瞬間、一種の憧れに変わった。
「でも、怪我人を雨よけにするのはどうかと思います!」
「このクソ人間がわるい!」
「今は怪我人間です!」
「あ゛ーうるさいうるさい! このクソけが人間がわるい!」
ここにまたひとつ、不思議な友情が生まれた瞬間である。二人の頭の上に血だらけの男さえ居なければ、見る人にはさぞ美しい時だったのかもしれない。
周囲の見物人がようやく収まったかと胸を撫でおろし、当の二人は隣り合って歩きだした―――が、
事はここで終わらなかった。
―――ゴンッ!
「あん? なんだこれ?」
鈍い音を立て、二人の目の前に勢いよく落ちてきたもの。
それは、上手に処理すればとても美味い代物―――
「……イカ? なんでイカ?」
「ああっ!」
◇
「遅い……どこで油売っとるんだあ奴は」
風と雨が勢いを増す中、俺は部屋でシリュウの帰りを待っている。
女中さん曰く、セロットというあの最初に俺たちを部屋まで案内してくれた人が付いているから心配ないと言うが、それはシリュウの事をよくわかっていないから言える事。
最初こそ過保護はいかぬと自分を押さえたが、この風雨のおかげか俺の心配は時間を追うごとに増している。スルト出立前なら苛立ちが勝っていただろうが、今はなぜか心配が勝ってしまっている。
「どこかで雨露をしのいでいるのかもな……」
シリュウだけなら荒天などものともしないだろうが、セロットさんがいるなら話は変わるか。
そう結論づけ、宿には珍しい備え付けの書棚の本に手を伸ばした。古書店には到底及ばないが、ざっと見る限りでも宗教、歴史、紀行など割と人気な部類から哲学、思想といった小難しいものまである。本の裏には紋章が刻まれており、恐らくはバイスリー伯爵家の紋だろう。
つまりこの書棚にある本は全て伯爵家の所有物で、盗もうものなら盗人だけでなく、その盗品の買い手までも市井の処罰よりはるかに重い罰が待っている。これだけでもこの宿が伯爵家の管理下である事が伺えるというものだ。
俺は目についた『マッカロン 天からの漂流記』と書かれた書物を手に取った。
「マッカロン……どこかで……まぁいいか」
表紙には空に浮かぶ
海にまつわる物語なら航海に向けていい情報が得られるかもしれないし、発刊は帝国歴三百年、つまり五年前と比較的最近世に出たものというのも悪くない。
「さすが高級宿だな」
こういう側面があるのなら宿代を節約してばかりではなく、たまには大盤振る舞いも悪くないかもしれない。
早速机に向かい、頁をめくる。空想物にあまり興味が湧かないので創作物語はほとんど読んでこなかったが、導入はそこそこ面白い。
だが、たった二、三頁読み進めたところで窓の外から無粋な鐘の音が聞こえてきた。音は最初は北の海側から聞こえていたのが徐々に南下し、しまいには街中に響き渡っているようだ。
これは、間違いなく警鐘だ。
俺は本を開いたまま念のため
(雨も恵みよ)
しかしそう呑気なこと思ったのもつかの間、もう一度本に視線を落したところで部屋の扉が叩かれた。
「どうぞ」
「夜分に失礼いたします。リカルド様、只今少々お時間よろしいでしょうか」
入って来たのは給仕で世話になった女中。客を不安にさせぬよう警鐘鳴り響く今も落ち着き払っており、ピクリとも表情が動かぬ女中の鑑と言える。
「鐘の事ですか?」
「はい。現在、街にメタルイカが降り注いでおります」
「……え゛っ?」
予想外過ぎる警鐘の原因に間抜け面で本を落し、慌てて拾い上げた。
イカが降っているなど、全然気が付かなかった。
それもそう、後に聞いたことだがこの宿はとりわけ造りがよく、周囲は壁と植木に囲われ、通路以外は芝が敷き詰められているので壁向こうの雑音は聞こえにくいのだとか。伯爵家の管理下ならば当然と言えば当然なのかもしれない。
しかしまぁ……イカが空から降ってくるなど想像のしようも無いのだが。
「万が一この事態となりましたら、リカルド様には早急に全てをお話しするよう、ラインハルト戦団長様より仰せつかっておりました」
「わ、笑いごとではなさそうですね」
「現状で収まるのなら街の被害もなく笑い話で済みましてございます。ですが―――」
事は約五年前。このノースフォークに突然イカが降り注いだ事に端を発する。
――――――――――――――
どこが大航海編なん……いつも通りだと思って許してください
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