#136 港湾都市ノースフォークⅡ


 ―――コンコン


「む……眠ってしまったか……どうぞ」


 扉を叩く音でうたた寝から目を覚まし、厚い雲の隙間からの斜陽に目を細めて返事をする。


「失礼いたします」


 静かに扉が開かれ、部屋まで案内してくれた女中とは別の女中が静々と入って来た。寝ぼけ顔ではいかぬと頭を振り、ついでに部屋を見回すとシリュウの姿はない。


「リカルド様、お食事のご用意が出来ましてございます」

「ああ、もうそんな時間ですか」


 初めて訪れた街ではなるべく外食したいというのが本音なのだが、それを事前に伝えていなかった上に、既に用意が出来ていると言うのならわざわざ断る事もない。


 俺は部屋まで持ってきてもらうよう頼み、女中は部屋を後にする。そして間もなく三人の女中が台車を押しながら入ってくると、食卓へ手際よく料理が並べられていった。


 とは言ったものの、皿の数は多いが一つ一つの量は驚くほど少ない。これがこの宿、言い換えるならノースフォークの流儀だと言うなら俺の勉強不足なのだろう。


 引かれた椅子に促されて大人しく従って座ると、空になった台車を一人が下げ、二人は扉横に控えてしまった。


(くっ、慣れん!)


 要するにこの状態でメシを食えと言われている訳である。


 しかし、流されるままにこの状態になってしまったが、手を付ける前に聞いておくべき事を聞いておく。


「あの、連れはどこへ行ったかご存じですか」

「はい。シリュウ様は既に食事を済まされ、一人の女中を伴い街へお出かけになられております」

「なんと」


 まさかあのシリュウが初対面の者と街に出るとは思いもよらなかった。迷惑をかけるのは間違いないだけに、心配で途端に食欲がなくなってしまった。


「も、申し訳ない! あ奴が強引に手を引いたのでしょう、何をしでかすかわかりません! すぐに探し出し―――」


 俺は慌てて遠視魔法ディヴィジョンを展開して立ち上がるが、二人の女中は慌てるそぶりもなく、何も問題はないと告げる。


「シリュウ様をご案内いたしましたのは私共でございます」

「えっ、女中さんが?」

「はい」

「な、なぜまたそんなことに……」

「その者はセロットと申します。おそらくシリュウ様のお気と合ったのでございましょう」

「気が……?」

「はい。詳しくは承知しておりませんが、私共がお見かけした時、シリュウ様は当館においでいただいた時とは別人のように気を落されておりました。おそらく、そのことでセロットはお気を晴らしていただく為に」

「うっ」


 確かにこの部屋に案内した女中と部屋を出ていった記憶はある。ほんの少し強くは言ったが気を落していたかは……いや……


「ご心配でしたら速やかに使いをりますが」

「い、いえ。あ奴も初対面の方に迷惑をかける……ほど……子供で―――」

「それがよろしいかと存じます」

「……」


 食い気味にそう言われて若干の違和感を覚えたが、言葉を飲み込むためにグラスに手を伸ばした。


 ほんの少し注がれた果実酒をグッと一口含むと、爽やかな酸味と香り豊かな風味が鼻を抜け、強めの酒精が身体に染み渡る。


(……うまいな)


 昼間にイカをかじっただけだったので腹は減っているらしい。あまり放っておくのも料理に失礼なので続けて並んだ皿に手を付けた。


 さすがに高級宿だけあって上品で美味い。この品数と繊細さは巷の食事処では手間の面でまず出せないだろう。どうやら今並んでいる皿の後にまだ料理が続くようで、女中たちは機を見て皿を下げ、新たに料理を出し、それを二回続けて最後の締めに果実と茶が出された。


「以上となります。他ご用命がございましたら何なりとお申し付けください」


 味良し量良し給仕良し。強いて言えば見張られながらの食事は落ち着かなかったが、総じて満足である。


「とても美味しかったです。ぜひくりや主殿あるじどのに感謝を」

「ありがとうございます。喜びます」


 二杯目の茶を貰って手際よく片づけられる様に感心し、すっかり日の沈んだ窓の外を眺める。星は無く、黒い雲が空を覆っている。


「降るな……濡れねずみにならなければいいが」


 どうやら、雨に滲んだ街明かりに風情を感じる余裕は無さそうだ。ここでふとある荷を思い出し、荷袋の中に手を伸ばす。


 帝都の水路のヌシ、水人アクリアの鱗が青き蛍のごとく掌で淡く光っていた。 



 ◇



 一方、ジンが夕食に舌鼓を打っていた頃。


 食事処の灯りばかりが目立つ時間だったがそれには目もくれず、二人はノースフォークの街を目的も無く歩いている。


「―――かった」

「はい?」

「うまかったって言った!」

「っ!?……ふふっ、それはよかったです」


 ここまで返事以外は無言。ようやく出た言葉の意外さと素直さに驚きつつ、つい頬が緩んだ。


 風が徐々に強くなる中、ズンズンと前を歩くシリュウの後にスカートを押さえながら続くのは女中のセロット。


 顔を見ずともわかる。宿を出た時はうなだれ、とぼとぼと歩いていたのが徐々に背筋が伸び、歩速が上がり、今ではいかり肩で風を切っている。


(元気になったのかな。すごいなぁ)


 先刻、たったの一言で目を潤ませたシリュウを見てセロットはいてもたってもいられなかった。


 ジンを案内した部屋から連れ出し、別室で一箱分の菓子を渡すや否やシリュウはものすごい勢いで食べ尽くしてしまった。それからすぐに机に突っ伏して一言も発しなかったが、間もなく出された夕食も無言でペロリと平らげ、また机に突っ伏してしまう前に外行きを提案していた。


 言ってしまえば客同士の痴話喧嘩に遭遇しただけのこと。


 自分がやっている事は女中の身としては領分を超える行動なのもわかってはいたが、まだ幼さの残る少女の意を汲むどころか突き放すような物言いを聞いて我慢できなかったのである。


(リカルド様には悪いけど、あんな言い方しなくてもいいと思うわ! いくら何でもシリュウさんが可哀そうよ! 誰がどう見てもご一緒したがってるのに、挙句の果てに邪魔だなんてっ!)


「私あの人嫌い!」

「おわっ!? なんでお前が怒ってる!? 怒ってるのシィなのに!」

「あっ! ご、ごめんなさいごめんなさない! 思い出したら私まで無性に腹が立ってしまって」

「ふんっ、へんな人間」


 真紅の髪に二本の艶やかな角。大きな紅玉の瞳からはほとばしる自信が溢れ出ているように見えた。自分と大して変わらない年齢なはずなのに、きっとこれまで何にも媚びる事無く、ありのままに生きてきたのであろう。初対面なのにも関わらず、自分に正直で裏表の無さも十分に感じ取れた。


 帝国とミトレスが同盟を結んでいる事はこの僻地にも伝わっているが、その中でもまさか最強と言われている幻の種族とこうして歩いているだけでも信じがたい。


 しかしそこから来る好奇心、あらゆる先入観を除いても関係ない。セロットの目には望んでも手に入らない全てをシリュウが持ち合わせているように映った。


(なんて美しい方なんだろう)


 高級宿で働く彼女は、これまで良くも悪くも様々な人を目にしてきた。高貴な出の者、豪商、女騎士、名のある冒険者―――だが、ただ一見しただけでここまで惹かれてしまったのは初めてだった。


「お~う、セロット。ずいぶん珍しいの連れているな」

「ちょっ、ちょっとやめて失礼よ!? こちらの方は宿のお客様なの!」

「うぇ゛!? エルテインの!? それは失敬っ!」


 道行く顔見知りに雑に声を掛けられ、慌てて事の次第を簡単に説明する。こうしている間にも、シリュウは気に留める事無く進んでいくのでその背は徐々に小さくなっていた。


 シリュウからすればセロットが勝手について来ているだけで、居ようが居まいが関係ない。食べ物屋をチラチラと流し見て、これぞという店に行きつくまで歩き回るつもりでいた。


「待ってくださーい!」

「……」


 そんな声も怒れる自分には関係ないとばかりに進むシリュウ。ハァハァと息を切らせて追いついた頃にはポツリポツリと雨が降り始めていた。


「雨……」


 セロットは上着のフードを被り、シリュウに宿へ戻るよう言おうとしたその時、前から被り物をした旅人風の者が歩いてくる。その者は雨に濡れたくないのか下を向いて歩いているようで、シリュウに気付いているかは微妙なところ。


 シリュウの性格と機嫌を鑑みれば、おそらく避けようとはしないだろう。ぶつかれば喧嘩になるのは間違いなさそうなので、そうなる前に声を掛けた。


「あ、あのっ」

「んぁ」

「っと、ごめんよぉ」


 軽薄そうな声と同時に男は身をよじり、ギリギリのところですれ違う。


 しかし、セロットの心配が霧散したのもつかの間だった。


「おいこら」

「え?」

「女中人間じゃない」


 シリュウは男の腕をつかみ、振り返らせて肩に手を置いたまま恐ろしい形相で睨みつけていた。


「どうしたのどうしたの怖い顔して。俺っちになんか用かい? ん~? 暗くてよく見えなかったけど、お嬢ちゃん獣人かい? かっこいい角だね~。へへっ、いいもん見れたよ、ありがとな。俺っち帰るとこなんだよね。お嬢ちゃんたちもそろそろ帰らないと雨も降って来たし、ヤバい方だったら面倒だしさ? なっ? この手離してくれないかな」


 男は早口にそう捲し立てて立ち去ろうと身をよじるが、その手が離れる事はなかった。


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