#118 運命の地Ⅱ
今にも折れそうなやせ細った手足に白い肌、頬まで垂れる毛足の長い耳がセツナさんを雪人たらしめている。
不釣り合いな抜身の剣が傍に置かれている事への違和感は拭えないが、よくよく見ると錆が浮き、剣身も握りも手入れは為されていない。
剣士なら道中であろうが剣の手入れは欠かさないし、そのような剣を持つのは恥であり、剣への冒涜とも言える。
(大事なものではないのか……?)
俺は胸中でそんな事を思ってしまったが、今聞くべき事はそれではない。
セツナさんは宴の場に煌々と焚かれた明かりが辛うじて届く場所で膝を突き、ルーナを呼んだその声は焦りの中に悲壮感も漂わせていた。
宴の場に相応しいとは到底言えない様相だが、一日で目を覚ますとは思っても見なかっただけに皆に安堵が広がっているのだが、そんな皆の心持を読み取れるほどセツナさんに余裕はない。
ルーナと彼女の間に何があるのかようやく明かされる事になるが、後々ルーナの口から出たのはとんでもない願いだった。
「ようやった、セツナはん。ここがおまんの入口や」
「っ!?」
伏せたままのセツナさんに顔を上げさせる事無く、ルーナは彼女の頭上に言葉を振り下ろす。
「もう知っとるやろけど、ここは人間の里や」
「はい」
「ここでしばらく世話んなりなはれ。そんで、一人でホワイトリムに帰れるようになるまで鍛えてもらい」
「……えっ?」
―――えっ?
何処に行くのかも知らされていなかったのなら、なぜここに来たのかも知らないのは道理だろう。
一番驚いているのはセツナさんのはずで、やはり驚き過ぎて思わず顔を上げて固まってしまっているが、それは俺も含めて皆同じである。
(おいジン)
(何考えてんだこの人)
(わ、わかりません……)
安堵していた所に意表を突かれ、俺にも方々から視線と小声が投げられるがルーナの意図する所が全く分からない。
小さく首を横に振って成り行きを見守ろうと、皆緊張の面持ちで再度ルーナの背を見やる。
「やるんか、やらんのか。今決めなはれ」
「っ!?」
目を覚ましたばかりな上に、良し悪しを判断する材料もほとんどない残酷な選択と言わざるを得ない。聞いているこちら側からすれば言葉も無いというものだ。
ほとんど何の説明もなく迫られる人生の岐路に、セツナさんは見ているこちらが心配になる程に身体を震わせた。
人間と共に暮らす?
私が?
ここから故郷まで一人で帰る?
私が?
なんの力も知恵もない
私が?
「あ……ぅ……ぁ」
何とか言葉を絞り出そうとしているが、混乱と恐怖、そこに畏怖が混ざったような複雑な表情を浮かべ、答えを出せずにいる。
(当然だ)
と思いつつ、ここで口を挟むなど絶対に出来なかった。
俺と同様に皆口を噤んでセツナさんの動向を見守ろうとしているし、あのシリュウまでもが歯ぎしりしながら叫びたい衝動を抑えている。
形は全く違えど、同じく里を出て様々な選択を経て今があるシリュウも、ここがセツナさんの分水嶺だと分かっているのだろう。
『ぬがーっ』と叫んで空気をブチ壊す様も一興かと思ってみたが、何とも成長したものである。
「ここでの沈黙は否やで、セツナはん。まぁいきなりっちゅうんは可哀想やし、返事は明日でも―――」
そういってルーナが背を向けようとしたのを見て、セツナさんは慌てて声を振り絞った。
「わ、私にっ!……あの……出来る……のでしょうか……?」
まるで親に見捨てられそうな子が、必死に追い縋るような表情である。
そう聞きたくなる理由は山ほどあり、こちらとしてもそれが嫌というほど分かるだけに痛々しい以外の何物でもない。
しかし、俺の知るルーナにはまずい一言だったと言わざるを得ないのが正直なところである。
案の定、ルーナは目を瞑って天を見上げた後、先程とは違って穏やかな表情となり、眉尻を下げてセツナさんに向き直った。
此度の来訪が、ただの観光となる瞬間である。
だがそれを遮ったのは、
「ぬがーっ! もうがまんできない!!」
他でもないシリュウだった。
「シィちゃん!?」
「イルイルちょっとまて!」
「こっちのセリフなんだけど!?」
(いいぞ、いけシリュウ!)
成長したは取り消した上で珍しく応援に回る俺だが、人間である以上その心境は他の皆とて同じはず。
父上がニヤリと笑うと、母上とコーデリアさんは互いを見合いながら微笑み、制しようとしたエイルに先手を打ってシリュウはズンズンとセツナさんに詰め寄った。
「おいこら! おまえ見てたらなんかイライラする!!」
「ひっ!」
理不尽な言い分を添えて完全に悪漢の様相を呈しているが、皆がその一言一句に期待を寄せている事は知る由もない。
「きったない剣!」
それは気になる。
「しにかけ!」
事実か。
「ほそすぎ!」
それは仕方が無いのか。
「こえちっさい!」
お前がデカ過ぎるとは言わないでおく。
「よわい!」
腕っぷしの事ではないと思いたい。
「おまけにあたまわるいとかもう終わってるな! クソザコアホ
……。
結局罵詈雑言で終わるのかとため息が出そうになったが、続く展開は後々スルト村の語り草となったのはここだけの話にしよう。
「ううっ」
一方的に雑言を吐かれ、何一つ言い返せないセツナさんにシリュウは手を緩めない。
「このあほぎつねが言ったのきいてなかったのか!?」
「なっ」
ルーナを指さし、阿呆呼ばわりされた瞬間に大尾がゾワリと逆立ったが、本人は全く気にすることなく続ける。
「やるかやらないかってきいてるのに、できるかとかきくな!!」
「っ!?」
「あれか? あほぎつねがつれてきたからあほなのあたりまえか? なーっはっはっは!」
「……」
「おまえなんか雪山かえれ! ふんっ! シロチビ、お皿はこびするぞ!」
言いたいことを言い切ったシリュウはくるりと背を向け、積み上げた皿を運ぼうとテーブルに戻っていった。
この間、見た限りボーッとしていたコハクに凍らされた皿とは対照的に、こちらの熱は上がり切ったか。
火炎を操るシリュウである。魔物も森も、そして人も。等しく燃え上がらせることには長けているらしい。
ゆらりと立ち上がったセツナさんの目には、蒼白の魔力光が宿っていた。
「お、お待ちください!!」
その声に皆が驚き、そんな大きな声が出せたのかと度肝を抜かれてしまったが、そんな茶々を入れられる雰囲気では全くない。
「あん?」
「確かに竜人様の仰る通り、私は心も弱く、力も知恵もございません。ですが、女王陛下に向かってそのような……」
「なんだ? ザコじまんか? そんなのいらないからどっかいけ」
煽りとしては下の下だが、要点が違うだけに効果はてき面か。
「訂正なさって下さいませ! そのような無礼は私とて許せません! 山神様にも……いえ、雪巫女様にも謝罪を!」
「ぶれい? なにが? ゆきみこってなんだ?」
「口にするのも憚られます! 知らぬふりなどっ……そのような事は許されません!」
永遠にかみ合わないであろう事態に周りは冷や汗が止まらないが、セツナさんの怒りは最もだろう。
仮にこれが獣人だったとしたら、殺し合いになっても不思議ではない。
セツナさんでよかったという問題でもないが、どう着地するのか、よもや刃傷沙汰にはなりようも無いだろうが、この予期せぬ事態を楽しむかのようにルーナは尾を振り、万が一に備えてアイレはため息をつきながら風を纏っている。
この風は当然セツナさんを守る為だと思うが、少なからずシリュウを知る皆、とくに母上は今ではないと静観を続けている。
まぁ、後で謝るように言われるのがオチだろうが。
そして二人の喧嘩は潮目を迎えた。
「うるさい! クソザコのくせにシィのことおこるとかなまいきだぞ!」
「それでございます! 強い弱いの話ではありません! 女王陛下と雪巫女様に謝罪なさってください!」
「いやだ! なんでシィがあやまるんだ!? わけわかんないクソザコが、もんくあるならかかって来い!」
「っ!」
これにはさすがに堪忍袋の緒が切れたのか、セツナさんは横たわる剣の柄を握った。
(いかんっ!)
俺は慌てて椅子から立ち上がり、同時に風を纏ったアイレの手がセツナさんに向いたが、その切っ先がシリュウに向くことは無かった。
剣を向けた瞬間、シリュウが襲い掛かっても誰も文句は言えない。そうならなかった事は一安心である。
ほんのわずかながら、この事をもってセツナさんが剣を握った理由が垣間見れた気がした。
「女王陛下!」
「お、おぅ」
剣を取ろうとした体勢のままセツナさんは再度膝を突き、もう知らぬと言いたげにシリュウを放っておき、次はルーナを見上げてそもそもの発端となった答えを導き出した。
またも呼ばれたルーナが、その力強い視線に一瞬たじろいだのを見逃さない。
「先のお話、お受けさせて頂きたく存じます!」
「えっとやな……一応何でか聞いといてええか?」
「はい! 私にはあのような無礼者を正す力も必要かと!」
(家帰るどころや無くなっとるがな! さすがにそこまでは無理っちゅーもんやで!?)
ルーナの顔が明らかに一瞬引きつったが、ゴホンと咳払い一つして気を取り直した。
「さ、さよか……さよかっ! かーっかっかっか! よう言うた!」
(放り投げたか……)
当初の目標から天の如く高くなってしまっているが、経過はどうであれ、これがルーナ欲しかった結果なのだろう。
高笑いが響き渡り、これでようやく目的の半分が達成された。
ここからは最後の仕上げが待っている。
ルーナの高笑いを許諾と捉えたセツナさんは、願い出るべき人間達に頭を下げようと三歩進み出たところで、大尾がそれを遮った。
「入口までは連れてったる言うたやろ? 扉叩くんもウチの役目っちゅーこっちゃ」
そう言ってルーナは戸惑うセツナさんの横に立つや、深々と頭を下げて皆を驚かせた。
「皆にお願いや」
呑んだくれて半裸になっているとはいえ、腐っても女王である。
頭を下げた女王を帝国貴族として慌ててたしなめようとしたコーデリアさんを俺が制し、それを黙って受け止めたルーナは続けた。
「セツナはんを置いてもらえんやろか。頼んますっ!」
「女王陛下!?」
本人の願いを受けてから、村の許可を取る。
順序としては間違っていないのだろうが、一部始終を見せられてのこのやり方は些か卑怯ではないだろうか。
自分の代わりに頭を下げているルーナにセツナさんはどうすればいいのか分からず、大いに困惑しているところにすかさずアイレがその手を取った。
「セツナさんが頑張ったからだよ。ここはルーナに任せましょう?」
「姫君様……」
そうしてセツナさんの運命はここにいる村人らに委ねられた訳だが、幸いここにはその許可を下せる人間がいる。
「だとよ村長殿」
「で、ですよね……僕なんですよね……」
この局面で断る事など出来ようもないが、村側の人間として聞いておくべき事は山ほどある。
マティアスさんはぶつぶつと村の住人になるに当たっての条件を
「これは大丈夫そうだしいいか……あの、亜人の方となりますと本国に引受人が必要となるのですが、ご家族やそのような方はおられますか?」
「あ、いえ……私は孤独の身で」
「ウチでええやん」
「そ、そんな! 恐れ多―――」
「では何の問題もありません。うんうん、あとは……」
セツナさんの遠慮がちな言葉にマティアスさんが被せる。
(ふっ、さすが我らの村長殿。付き合っていられないと早々に見切られたか)
マティアスさんも伊達に若くして村長をやっている訳ではない。こういう事務的思考をさせると非常に頼りになると皆から聞いていた。
そして頭の中で最後の判が押されると、マティアスさんは村長としてルーナの前に出で、右手を左胸に当てた。
「ルーナ女王陛下の御用命、このマティアスがしかと承りました」
「ほんまか!?」
下げていた頭をギュンと上げ、会議で見たガチガチに緊張していた村長がこうも出来る男だったのかと驚きつつ、ルーナは微笑むマティアスさんをこれでもかと見つめた。
(暗いからよく見えてないんだろうな)
(村長殿……その立派な振る舞いを普通の女性に向けられては?)
(あのマティアスが村長してやがる)
(見てるかティムルさん! 息子があの獣人国の王相手に堂々としてるぞっ!)
皆巡る思いは違うが、ようやく落ち着いた結果に再度安堵の表情を浮かべた。
「はい、セツナさんはもう村の一員です。ようこそ、スルト村へ」
「かかっ! ありがとう、ありがとうな! おまん話分かる人やなぁ!」
「よかったね、セツナさん」
「は、はいっ! よろしくお願い致します!」
なぜ移住の運びとなったのか何も分からないままだが、こうしてセツナさんはあれよあれよとスルト村の一員となったのだった。
……―――
「……あれ? シィなんでおこられた?」
「さぁシリュウ、コハクさん。一緒に片付けましょう」
「おかたづけ」
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