#115 王たる所以Ⅱ

「こ……こは……?」


 木製の四角い板が整然と組み込まれ、そこから下がる、見たことの無い湾曲した透明の板に包まれた暖色の光源が部屋を柔らかく照らしている。


 いつも明かりとして使っていた直接の炎ではない。しかしどういう仕組みなのかと思案する余裕もなく、セツナは現状を把握しようと必死に視線を泳がせた。


 細工が施された窓板は閉め切られており、光が全く差し込まない精巧さだった事もあって外からの音もほとんど聞こえない。


 薄暗い視界からはさほど情報は得られないと上体を起こそうとするが、手を突いたベッドは思いの外柔らかく、経験したことも無い反発力に再度枕に頭を落とす羽目となった。


(私はどうなったの? 記憶が曖昧……っ!?)


 ここで自身に掛かっていた布団が信じられない程柔らかく、軽い事に気が付いた。余程高価な羽毛を使用しているのかと頭をよぎった瞬間、咄嗟に布団を払いのけてしまう。


「卑賎の身で汚しては」


 本当に自分はどうなってしまったのか。


 あまりに自分が知る環境との違いに戸惑っていると、不意に扉を叩く音がした。


 コンコン


「失礼します」

「!?」


 ノックと同時に扉を開く者がいるのかと、セツナは返事をする間もなく急いでベッドの隅に身を屈める。


「あ、目を覚ましておられましたか。大変失礼いたしました」

「……」


 怯える小動物のような恰好となり、投げかけられた言葉にも理解が及ばず、自分に向かって頭を下げている事にも気づかず、扉の向こうから差し込む逆光で影となっている闖入者の姿ははっきりと識別できない。


 だが徐々に目が慣れ、ようやく無言で佇むその者の姿を捉えた瞬間、セツナは愕然とした。


「に、人間っ!?」


 ガタタッ!


 確かに過去、人間に命を救われた。夜の闇の中、復讐の炎と共に佇むその人間の事は名と共にずっと胸にしまってある。


 だが、全てを奪ったのもまた人間であり、絶望を刻んだ恐怖の対象であることに未だ変わりはない。


 セツナは四つん這いになって慌ててベッドから下り、たまたま目につき、傍らに立て掛けられていた自身の剣を手に取った。


「ち、近寄らないで下さいませっ!」

「……」


 だが、剣を向けられているその者に動揺は見られず、どころか、控えめに両手でスカートをつまみ上げて自らを名乗った。


「お初にお目に掛かります。ティズウェル家に仕える使用人、ユーリカと申します。セツナ様のお世話をさせて頂いております。どうぞ、お見知り置き下さい」

「ティ、ティズ……?」


 眉を潜め、猜疑心に満ちた視線を向けられるユーリカだったが、このセツナの反応も全て伝えられていた通り。


 引き続き慌てる事無く、部屋に備え付けられているランタンに火を灯し、怯えるセツナを怖がらせないようにゆっくりと窓際へ移動した。


「何もかもお分かりにならない事でしょう。まず申し上げられる事は、私共はセツナ様を害することは決してございません。剣はお持ちのままで結構でございますので、よろしければ窓の外をご覧下さい」


 そう言ってユーリカは窓板を開き、ガラスのはめ込まれた窓に手を掛ける。


 すると、明るい日差しが部屋全体に行き渡り、眩しさで目を細めたセツナの眼前に新たな世界が広がった。


「おーい、そっち持てー!」

「よっしゃあ! 引っ張れ、引っ張れ!」

「ちょいとあんた、手伝っておくれ!」

「次こそかぁーつ!」


 雪と氷で出来た白銀の世界とは全く異なる、苦しみながらもここ数日目に焼き付けて来た緑の世界。


 そこに根付く大勢の人の営み、それを包み込む暖かな風。


 活気に満ちた人々の声が洪水のように耳に届くや、セツナの鼓動はこれまでに無い程高鳴った。


「すごい……」


 見たことも無い美しい世界にセツナは敵意を忘れてユーリカに向き直り、その澄んだ蒼白の瞳に恐怖していたはずの人間を映し込む。


 ユーリカは穏やかにほほ笑みを返し、セツナを何も知らない外の者ではなく、敬意を払うに値する異国の来客として誇張なく事実のみを口にした。


「ここはアルバート帝国北セントール地方、第三の聖地スルト村。セツナ様は雪人として、偉大なる帝国の地に足を踏み入れた歴史上初の御方でございます」

「てい……こく……?」

「はい。セツナ様はルーナ女王陛下のお導きによりここまで参られたのです。大陸を横断するに等しい遥かなる道のりを。ご自身の、その足で」

「……あ」



 ガラン ガラン



 その言葉で剣が落ち、膝を折り、またも気を失ったセツナをユーリカは素早く抱きかかえ、再びベッドに横たえた。


「今はゆっくりとお休みくださいませ」


 次に目を覚ました時、セツナの数奇な人生は大きな転換を迎える事になる。



 いや―――



 故郷を発とうと剣を握り締めたその瞬間に、変わっていたのかもしれない。



 ◇



「まず女王陛下にはこの後、我々が用意した控えの間にて―――」

「さよか」

「ここにいるマティアス殿が宴の冒頭に一言申し上げた後―――」

「はいよ」

「明朝村をご案内させて頂きますので、その際は―――」

「へぇ」

「我々が傍生の神に連なる眷属、神獣ロードフェニクス像に祈りを―――」

「……」


 エドワードからこの後の予定が滔々と語られる中、菓子を食い尽くしたシリュウは机に突っ伏していびきをかき、コハクはアイレの膝でスヤスヤと寝息を立てている。


 二日後に到着するアルバニア隊の話にまで及ぶとさしものルーナも相槌に飽き、いつまで続くのかとうんざりして欠伸を噛み殺す。


 しかしそんな退屈な時間から目を覚まさせるように、ルーナ自慢の狐耳がクィと扉に向いた。


 ―――お、お待ちください! 今大事な会議の

 ―――それは我々がすべき事で後程

 ―――あっ!



 コンコン



「……申し訳ありません。女王陛下」

「かまへんよ(ウチも寝てまうとこやったし)」


 制止を振り切ったのか、不意に扉を叩く音で会議は中断。


 エドワードがルーナに許可を取った上で入るよう告げると、台車を押して髪の長い一人の村人が静々と入室した。


(んっ!?)

(えっ!?)

「むにゃ……はっ!?」


 その者は台車を入口の前に置き、深々と頭を下げて会議を中断させたことを謝罪。


 これにエドワードは驚いた様子で何者かとマティアスとロンに視線を送ったが、マティアスは引きつった顔をして口を噤み、ロンは天井を見上げて顔を覆っていた。


 そして、コーデリアは全てを察した。


「会議が長引いていたようですので、僭越ながらお茶をお持ちいたしました」

「ははうえっ!」

「シリュウ、ちゃんと会議に出ているのね。偉いわ」

「とうぜん! お師にしごとーっていわれた!」


(爆睡しとったやろが!)

(ははうえって!?)


 本来なら盛大に突っ込みたいルーナとアイレだったが、シリュウに『ははうえ』と呼ばれたその者を見て言葉が出ないでいた。


 は茶をゆっくりと立て、ルーナとアイレの前にコトリと置いた。


「村で採れた茶葉を使っており、村の者がよく好んで頂いておるものでございます」

「えーっ、あまいやつがいい!」

「はいはい、少し待っててね」

「まつ!」


(人間に素直!?)

(生粋の竜人が!?)


 意外過ぎるシリュウの反応に驚く二人。


 出された茶は有体に言えば粗茶である。騎士団で用意していた茶は別にあり、本来ルーナ程の地位にある者に出すような茶ではない上に、十全な毒見も済ませていないだろう。


 だが村人が出した茶を今さら下げさせるわけにもいかず、この者を知るはずの村長マティアスとコーデリアも何も言わないので、エドワードは固唾をのんで見守るしかなかった。


「ほ、ほなもらおかな」

「い、いただきます」


 どうやら自分たちが口にしないとは次の行動をするつもりが無いようなので、ルーナとアイレは恐る恐る湯気立つ茶を口に運ぶ。


 なぜか背を正さずにはいられなかった二人はゆっくりと茶をすすり、口に広がった圧倒的な苦味に一瞬眉を潜めたが、鼻を抜けた茶葉本来の香りと、豊かながら思いの外すっきりとした後味にすぐに頬を緩めた。


「にがい! うまい!」

「一瞬びっくりしちゃったけど、とってもおいしい!」

「ありがとうございます」


 会議中から憮然とした表情だったルーナに笑顔が戻ると、緊張の面持ちで見ていた皆は胸を撫でおろし、広間に安堵の空気が広がる。


(よかった……この方には後で礼を言わねば)


 そんな中でエドワードはこの村人に胸中で感謝しつつ、会議を進めるためにと村人の目を見て小さく頷いた。


 だが、これで察せられるのはずっとここにいた者達だけ。


 女性はルーナたちから三歩下がり、貴族顔負けの所作で美しく頭を下げた。


「遠路はるばる、ようこそスルト村へおいで下さいました。女王陛下、姫君様」


 顔を上げた女性は顔に掛かった前髪をスッと耳にかけ、二人に微笑む。



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