エピローグ カエデの花
「だからなんでそういう話になるの!? もう意味わかんないッ!」
怒鳴ってすぐ。じわじわと視界がぼやけはじめる。
「……いい、別れるなんてあたし絶対許さないから……!」
「……っ、待って楓! どこ行くのっ!? 楓ッ!」
ここまでの大ゲンカは本当に久しぶりだった。
お風呂あがって髪を乾かしたばかりだったのに、あたしはスマホだけ持って家を飛び出した。
まだ梅雨も明けていない七月の夜。ジメジメとした不快で湿った空気が肌に纏わりつく。
あたしはそれを振り切りたくて、ただがむしゃらに走った。
おかげで……
「――いったっ」
ストラップサンダルのヒモはちぎれて、足の皮も剥けた。
あたしはそれを悔やむように、近所の公園にあるベンチの上で一人うずくまっていた。
一刻も早くお母さんから離れようとしたあたしは素足だったこともあって、スニーカーじゃなくサンダルを履いて外に出た。
そんな格好で走りこんだら足を怪我して、サンダルがダメになってしまうことくらい誰だって簡単に予想できる。でも、あたしはそんなことすら考えが回らなくなるほどに我を失っていた。
ずっと一人でがんばってきたお母さんに彼氏ができた。他の人から見てもこれは喜ばしい出来事のはずだ。実際にあたしは嬉しかった。
……なのに、なんで。なんであたしの気持ちがお母さんに伝わらないんだろう。冷静になった今でも考えただけで胸が痛くて悔しくなってくる。
「……もう、最悪」
お気に入りだったサンダルもボロボロ。落ち着いたと思ったのにまた視界がぼやけてきて、抱き寄せていた膝へと顔をうずめる。
あたしは昔から泣きそうになると体を丸める癖がある。泣き顔を誰にも見られたくないからだ。
ただ、この体勢なら泣き顔は隠せるけど、真下を向いてるせいで鼻水が垂れてきてしまうのが難点でもある。
――うっぷ。
あたしが鼻をすすったタイミングで、どこからかしゃっくりのような声が聞こえた。
うずめた顔を少しだけ上げて周囲を確認する。
男だ。フラフラしててかなり酔っ払ってるみたいだった。
もしかしてあたしに気付いてない? あっ、ベンチでふんぞり返った……。
ほんと、最悪だ。
ていうかこの人、さっきからボーっとしていったいどこ見てるんだろ。心なしか虚ろな感じだし……ちょっと心配になってきた。
急に倒れたりしないよね? 一応救急車はすぐ呼べるようにしとこう……。
「あっ……そうか。俺はもう、あっち側なのか」
大きな独り言だった。
「って言ってしみじみするほど、子どもの頃なんて覚えてねーし、どうでもいいわ」
膝を抱く腕に鳥肌が立つ。
一人でノリツッコミして笑ってる……こわっ。
「しかし今ブランコに乗ったとして、そこから見える景色はどっちだ? 親でも子どもでもない俺が見る光景はいったい……」
この人、酔っ払ってる割には聞き取れるくらいはっきり喋ってる。まさか、あたしに話しかけてるつもりだったり……?
「――なにシテンだ……?」
体がビクッと震え上がった。
男は何してんだと確かに言った。あたしに話しかけていたんだとわかった途端、言い表せない恐怖感が押し寄せた。
どうしよう、脚が竦む。ただでさえ怪我もしてサンダルだって……。
なら大声で叫ぶ? それとも警察に通報……ダメだ。もしこの場で逆上でもされたら……。
動けないならせめて何か起こったときの証拠となるものを残さなきゃ。あたしは過去にそれを学んだ。
男に気取られないようなんとかスマホの録画ボタンを押す。そしてサンダルを履いたところで男と目があってお互いに固まった。
「振られたのか?」
フられっ……あ、そういうことか。この人にはあたしが失恋して落ち込んでいるように見えてたんだ。
「ちょっと飲みすぎてご覧の有様だ。ぼーっとしてんのも味気なくてつい話しかけちまった、ごめんな」
男は手をあおいでなんともないように振る舞ったけど、あたしは警戒したまま無言を貫いた。
この人は
「青春だねぇ」
鼻で笑った。その瞬間、恐怖心の他にこの男への嫌悪感が芽生えた。
「でもアラサーの俺と違って君はまだこれからだろ。働いてると業種によっては出会いもめっきり減るし、自分から動かないと難しいもんだ。おかげで独り身……君の場合は可愛いし、すぐに彼氏の一人や二人できるって」
どうして無言を肯定と自分の都合のいいように受け取るんだろう。この男も抵抗がなければ同意と見なすような人なのかな……。
それはともかく、この男が言うように年齢を重ねると恋愛が難しくなっていくという考えにはあたしも同感だ。ただでさえ難しいのに19になった娘を持つ母親ともなればなおさら。
だからあたしはお母さんにそのチャンスを無駄にしてほしくないだけなのに。
「そんで振った彼氏に後悔させてやればいい。見返すためにも今こうしてうつむいてるヒマがもったいねーぞ、時間は有限だからな。社畜のおっさんが言うんだ、説得力あるだろ?」
きっとこの男の中では良い事してるとか人助けのつもりなんだろうな。
でも最初から間違えてるんだから言うこと全部が的外れ。
男は感傷に浸るかのように押し黙る。
それからほどなくして急に地面を蹴り上げるとあたしに言った。
「……みんな大なり小なり悩みを抱えてる。君だけが苦しいわけじゃないんだ……」
……アンタに何がわかるの。
「っと、ごめんな、急に。さすがに、みんなも頑張ってんだから君も頑張ろうは社畜脳が過ぎたか。でもほら、そう考えたら少しだけラクにならないか? なんて……」
あたしのがんばりが足りないのはアンタなんかに言われなくたって。
「こんな夜中に女の子が一人で出歩いてちゃ危ない――」
――親御さんも心配してるだろうし、余計な迷惑かけちまうぞ。
あの言葉で怒りと恐怖が逆転した。
正直に言えば投げた文句の半分は、どこにも吐き出せなかったストレスを発散しただけの八つ当たりに過ぎなかった。
やっぱり、何度思い返してもひどい出会いだ。
忘れたくても忘れられない、最悪な思い出。
あの時の酔っ払いと関わることなんて、もう絶対にありえないはずだったのに――
「知ってたか? アサガオのような
――まるで植物の蔓みたいに、あたしの人生にしつこく絡んでくるとは夢にも思わなかった。
「ふーん、光を求めて……ちゃんと理由があるんだ。植物ってすごいんだね」
「な、すごいよな。脚光を浴びようと努力する向上心を備え、威光を求め支えとなる人脈作りに余念がない。アサガオは意識高い系で苦手だわ俺」
「なんていうか、三春はもうちょっと太陽の光浴びた方がいいかもね」
「俺もそう思う。ここまで陰湿になったのもアサガオのような奴が上にのし上がり、俺が浴びるはずだった光を遮ったせいかもしれん」
アオハルビルの屋上。
すっかり日が落ちた空の下、三春はあてつけがましく笑うとコンビニで買ってきた缶ビールを飲む。
「そんな物欲しそうにこっち見たって酒はやらんぞ。これは大人の飲み物だ、あと一年我慢しろ」
「……三春もあたしに構わないでみんなとお祭り行ってくればよかったのに」
「俺があんな青春の塊みたいなとこに行ってみろ、秒で焼け死ぬ。それにマスター
有名な花火大会の開催日とアオハル学級の日程が重なった今日の青春活動は『花火を観よう』だった。
女性陣は栞先生が用意してくれた浴衣を着て夏祭りに参加する予定だったけど……
「あ、言い忘れてたけどその浴衣、似合ってんぞ」
「……ありがと」
体がくっつくほどの人混みにまだ慣れていないあたしは出席だけして帰ろうとした。それを三春が屋上からも花火が見えると誘ってきて今に至る。
「アサガオの浴衣か。そういやアサガオの花言葉って色によって違うんだよな」
三春が手にぶら下げた缶の底でプランターを示して、思い出したかのようにまた雑学を披露した。なんでか今日はやけに知識をひけらかしてくる。まぁそれはいいとして得意げなのがちょっとムカつく。
「へー、そうなんだ。じゃああたしのやつ青いの咲いてるけど花言葉は?」
「冷静……いや、絆だったか……? すまん、忘れた」
三春が笑って誤魔化すとあたしもつられて笑う。カッコつけるけど締まらないのが三春っぽい。
二人の笑い声がおさまった時だった。
「楓ってさ――」
遠くで響いた夏の音が次の言葉を遮る。
「おーっ! はじまった――けど、観て楽しむ分には距離があるなぁ。これじゃ花火の色しかわかんねーわ」
三春は残念そうに言うけど、あたしはその色すらわからなかった。
言葉の続きが気になって花火どころじゃなかった。
「……ねぇ、今なんて言おうとしたの?」
「え? 今? や、だから色しか」
「その前。花火が上がる前にあたしの名前呼んだでしょ?」
「えぇ……名前……あ~~~っ! 違うちがう、楓って保科じゃなくて植物の方な」
「……植物のほう」
缶を小さく振って否定した三春はそのままお酒を口にする。
なんだろ、すごいムカつく。
「楓って葉っぱのイメージが強いけど、やっぱ花言葉もあんのかなって」
肩の力が抜けたあたしは三春と同じ方向を見る。
「美しい変化、大切な思い出……あと遠慮、だったかな」
「おぉ、さすがに詳しいな」
「そりゃ名前の由来だしね。あと、それから……」
夏の夜空に茜色の花が咲いて、ぱらぱらと散っていく。
三春が言ったとおり本当に小さくて色しかわからなかった。
だけどそれが、すごく綺麗だった。
――楓の花は春に咲くんだよ。
こじらせアラサーが公園で泣いてた銀髪ツンデレ美少女に声をかけたら、ボロクソに罵られて青春ラブコメがはじまった話――完
【完結】こじらせアラサーが公園で泣いてた銀髪ツンデレ美少女に声をかけたら、ボロクソに罵られて青春ラブコメがはじまった話 遅歩 @BeJohn
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