たったひとつの鈍ったやりかた

「くぅ~~~っ!! 極上の苦味が五臓六腑ごぞうろっぷに染み渡るゥ!!」


 ビールジョッキ片手に河合が唸る。

 CM出演の依頼が殺到しそうな見事なパフォーマンスだ。何が凄いってこれが一杯目じゃなくて二杯目ってとこが凄い。河合は演技派だなぁ……もっとも普段利用する大衆酒場とは異なった雰囲気の店なために少々浮いていたが。


「しかし月曜だってのにこの店は大賑わいだな」


 テーブルとイスだけが設置された仕切りのない開放的な店内を横目に、俺はジョッキを引き寄せる。

 空席は俺の真後ろや入り口など散見されるが、まだ比較的早い時間帯でここまで埋まっていれば大盛況と言っていいだろう。


「新しく出来たばかりスからね、一回来てみたかったんスよ。ほら、レビューも高評価で『料理激ウマ、落ち着いた店内、史上最高のスペインバル』って」

「ほー大したもんだ。その記事でいったいいくら貰えるんだろうな」


 スマホの画面を俺に押しつけていた河合が呆れ果てた表情を払うように首を振った。


「こんな捻くれた親愛なる先輩にも春が来た……ということで今日は僕が持ちますよ」

「俺は素晴らしい後輩を持ったな、ありがとう。だがアレはお前の勘違いだって何度も説明しただろうが」

「照れ隠しではなく? 本当の本当に?」


 俺は大きくゆっくりうなずいた。


「じゃここは割り勘ですよ。あと『違う』の一点張りは説明とは呼べませんからね」


 かわいい後輩が膨れるのも無理はない。

 先週の水曜、ノワール捜索時に河合と遭遇した際に告げた『明日説明する』を駆使すること三回。

 うやむやにしたかったが今日の追及からは逃れられそうにない。


「白状するよ。あの子は友人の妹なんだ」

「嘘はやめてください。先輩友達いないじゃないスか。友達の話を持ち出すとき、自分のことかネットで拾った情報のどっちかじゃないスか」


 ……こいつ……しかしどう説明するか。もういっそ彼女に――いや、ないな。

 言い訳を考える時間はたっぷりあったはずなんだが保科のお願い事や黒春を引きずってそれどころじゃなかった。


 アオハル学級、青春クラフトサービスに協力していると打ち明けるのはできれば避けたい。

 以前サシ飲みでボロクソにけなした手前、怪しさ満点アオハル学級に参加したとは言いづらいし、第一その動機を喋りたくない。

 だいたい青春してお金貰ってるなんて、それこそネットで拾ってきた都市伝説みたいで信じてもらえないだろうがな。


「……一ヶ月ぐらい前に飲んだの覚えてるか?」

「ええ、まあ。先輩がベロベロになってたときですよね? あそこまで酔ってんの初めて見たんでよぉく覚えてますよ」

「お前と別れたあと、そのベロベロな俺が公園のベンチで酔い潰れていたところをあの子が介錯――じゃない、介抱してくれたんだ。で、それっきりだった名前も知らない彼女と偶然再会して、ぜひお礼を~ってとこに……」

「ボクと鉢合ったと。そんなドラマチックな展開があるんですね~」


 完全ではないにしろ河合はうんうんと納得した様子だった。


「そうだ、お前の言うとおりチープなご都合展開ってやつだよ」

「そこはにしましょう先輩。気になる女子ができたとしてもそんな返しじゃ……もうちょっとロマンを求めません?」


 うんざりするように河合がやれやれと笑った。


「過去が積み重なって今が作られてる。その出会いは必然、そうなって然るべきだった――ね?」

「ねってお前な……」


 俺は鼻で笑ってジョッキに手を伸ばす。


 必然、か。

 今から約六年まえ新卒だった俺は会社の飲み会で初めて飲んだビールに驚いた。なんだこのクソ不味くてただ苦いだけの液体は!? と。

 強引に体へ流し込む心の内でもう一生飲まないと決心したのは何回あったか覚えてない。

 ビールを忌避きひする人にとっては呪いの言葉『とりあえず生』を幾星霜いくせいそう、今ではすっかり慣れ親しんで自ら望むまでになった苦味。俺がビールを好むようになったのも必然といえよう。


 そんな、最初は嫌いだったビールの水面に視る過去は俺のものじゃなかった。


 ――六年前。

 13歳という精神的にも未熟で多感な時期に起きた痛ましい出来事。

 彼女が子供心に父親を望んだことは一度や二度じゃなかっただろう。

 しかし今となっては男性恐怖症というとても大きな爪痕を残したむべき存在でしかなくなった。

 なのに保科は母親のためならば新しい父親を甘んじてどころか喜んで受け容れるという。

 俺にはこれが、たった六年で慣れてしまう苦味くるしみだとは思えなかっただけに愕然とした。


 保科楓は素直で芯の強い女の子だ。彼女の傷痕を知る俺ですらその気丈な態度の前に忘れそうになってしまうほど強い。

 なぜあんなにも強いのかと気になった俺はネットで調べてみた。

 するとどうやらトキワカエデという落葉高木らくようこうぼくの木材は非常にかたいらしい。

 さすがカエデさんだ。納得した。

 でも堅い木は折れる、なんてことわざがあるように衝撃を分散させる柔軟さを欠けば、簡単にぽきり。……考えたくもない。


 彼女が強いのは認める。だがだからといって自分から傷つきにいくのは蛮勇ばんゆうでしかない。さらにその蛮勇も常時発動技能パッシブスキルで、遺憾なく発揮されていたのだから俺は言葉を失った。


 昨日、保科と別れたあとのことだ。


 CHAINで『高校大学は共学か?』と脈絡もなくメッセージを飛ばしたら案の定『そうだけど、なに』。俺は先入観から女子高、女子大に通っているものだとばかり思っていた。

 これを踏まえれば保科が接客業のバイトを選りすぐる背景が自ずと見えてくる。


 無理くり苦難を丸呑みして体に慣らさせる。

 スパルタ教育とは時代錯誤もはなはだしい。俺はこの行動を健気の一言で片付けられなかった。


 異常だ。彼女は真っ直ぐに歪んでる。

 一度でも立ち止まったらそのままかもしれない、再び動ける保証はどこにもない。こんな強迫観念を燃料に保科は黒春かこから抜け出そうと走り続けてきたんだろう。


 楓の紅葉は茨の道を突き進むから――そう考えると山間を彩る紅葉の絶景ってホラーだな。絶景て絶望の景色の略だっけ?


 保科はトラウマを克服して、もう大丈夫だと母親を安心させたいんだ。だがそういう本人が傷だらけの血まみれじゃどうやったって不安は拭えない。却って逆効果……それをあいつはわかってなかった。


「運命に! 愛に! 歳の差なんて関係ありませんからね先輩っ!」

「……お前もか。あと何回違うと言えばわかってくれるんだ、あの子はそんなんじゃない」


 来栖さんと河合って実は親戚だったりしないかな。どことなく似てる。


「だって木金もくきんと二日連続ではぐらかすようなやましい理由なんてそれくらいしかないでしょ?」

「やましいってお前な」

「好意を抱くことは恥ずかしいことでも何でもないんですから素直になってください。それといざって時は恋愛マスターのボクに頼ってくれていいですからね~?」

「……だから、本当に違うんだよ」


 思い返してみても保科との出会いは酷かった。それにアオハル学級で再会したときの俺の心情といったら……最悪の一言に尽きる。

 すでに保科は学級のみんなに俺の醜態を悪し様に吹聴していて、青春活動はスタート時点から詰んでるもんだと思った。だけど実際そんなことはなくてむしろ保科は好意的に接してくれた。


 そんな彼女の近くにいると、こう、引っ張られるというか、俺も続こうと前向きな気持ちになる。

 河合は俺が保科に気があると踏んでいるようだが、残念ながら彼女への気持ちの正体は恋愛感情じゃない。


 憧憬しょうけい――強い憧れだ。


 自分以外の誰かを素直に認めて褒めることができて、揺るがないものを胸に進み続けるだけの強さを持った彼女に、俺は強く惹かれた。

 彼女は大昔に思い描いた理想。俺は保科のようになりたかった。


 俺と保科は正反対な存在だ。自分の前に大きな問題が立ちはだかったとき俺は目を背けて止まったが、保科はそれを乗り越えて先に進もうとする。

 そういうとこがなんつーか、カッコいいんだよ。

 特撮ヒーローを初めて見てテレビにしがみついた子供みたいに、漠然とだが確かに感じたんだ。


 俺はガワだけ大人で中身はガキのまま。さっきはグダグダとあいつは歪んでるだ、わかってないだの散々否定したが根本的な部分じゃずっと応援してる。自分が唯一認めたヒーローが絶対的な存在であってほしい、という身勝手な理由で。


 あいつの努力が正しいものだったと、まざまざと見せつけるように証明してほしい。俺が惹かれ、憧れたものが――


「間違ってなかったスね!」

「……え?」

「この肉料理、先輩はやらせって疑ってたレビュー通り激ウマですよ!」

「そ、そうか、そりゃよかったな」


 ……いかん、熱くなった。どうも今日は酒の回りが早すぎる。


 とにかく俺はテレビの前の良い子で、いくら熱中しようが結局のところ部外者だ。その作品の登場人物ではないから保科ヒーローのピンチに手は貸せない。

 俺にできることはせいぜい「がんばえー!」の可愛らしい声援ぐらいであって、あの母娘おやこを支える役目はクボタさ――


「――最悪だよ」


 ん……あれ、今後ろから……。


「昨日女と会ってきたんだけどさー、騙されたわ」


 え、幻聴……? そこまで酔ってんのか俺。


「たまにはお昼に会いたいってワガママ言うから付き合ったってのに、店に着いたら実は会ってほしい人がいるとかって。それで娘と……その子が働いてるバイト先の店長? が居てさ。聞いてないっつーの」

「は? てんちょう? クボタさん今店長って言いました? ちょっと意味が……」

「そう!! そうなるよな? な?」


 こんな偶然ある? いやまぁ俺も無理がある設定だと思ってたけど……そんなに爆笑するほどですか? 穴があったら入りたい。


「これはまずいな」

「口に合いませんか? ボク味付けめちゃくちゃ好みなんですけど」

「え、あ、いやっ! う、美味いよ料理は」

「ですよね! せっかくだしもう一個同じの頼んじゃおうかな。先輩飲み物は……?」

「や、まだあるから大丈夫だ、ありがとう」

「了解っす。あ、すいまっせ~ん!」


 とりあえずクボタさんの方は俺の存在に気付いてなさそうだが……まいったな。前と後ろ完全に板挟みだ。

 とにかく俺が店長じゃないとバレるのはまずい。そこから芋づる式に次々と問題が発覚するからな、なんとしてでも回避せねば……。


「ご飯の間もなんか俺とアイツが結婚間近みたいな空気でほんと勘弁してほしいわ。そういう場だって事前にわかってたら休日出勤だったよ」


 気が合いますね、俺もです。


「でもそれはクボタさんだって悪いでしょ。ずっと結婚をニオわせてたんでしょう? そりゃ気持ちがはやって勘違いもしますよ」

「しょうがないだろ、あれぐらいの歳の女には未来もちゃんと見据えてますってアピールしとかないと。結婚する気がないってバレたら関係が終わるだろ」

「冷めたもんですね。二人で娘さんのこと話し合ってるってあれだけ言ってたのに」

「思えばそれがダメだったのかもな。いくら結婚をちらつかせても『娘さんの気持ちを優先しよう』の一言で好感度を上げつつ面倒事に蓋ができたから……便利なのも考え物だよ。娘を言い訳に使いすぎたからそこは反省かな」

「プライベートでもPDCAですか、デキる男は違いますね」


 なるほど。血の気がサーッと引いて、とても気分が悪い。

 アカネさんの気持ちを考えるとキツいな。最低な男だって感想しか浮かばないし、それ以外にも色々思うところはある。


 アカネさんもこんなやつとは早々に別れた方が幸せだと思うが、それでも何も知らない保科は二人の破局にショックを受けるんだろうな。あたしが余計なことをしたせいでと自分を責めなきゃいいが……。


 ……でもこればかりは仕方ないだろ。

 恋愛なんて当事者間の問題だ。ましてや結婚ともなれば人生を左右するほど。交際したら必ず結婚しなければいけない、なんていうルールはないんだ。

 部外者でしかない俺がとやかく言える筋合いはないし、もし仮にここで俺がでしゃばったとしても話をややこしくするだけ。


 触らぬ神に祟りなし。俺は何も聞かなかった事にしよう。これまでもそうやって生きてきたんだし、うん……。


「それでどうするんですか。クボタさんにしてはかなり長続きしてましたけど、結婚しないならやっぱ別れるんですか?」

「それも考えたけど……なんだかんだいって、一緒にランチしてみて俺も寄り添ってみようかなって思えてさ」


「……っ!」


 クボタさんの気が変わった? それに寄り添うって……つまりそういうことだよな? 考え直し――――






「楓ちゃん、押せばイケそうなんだよな」


 ――………………。


「たぶん俺に気があるんだよね。俺を見る目とか態度が男として意識してるよ、あれは。上手く事が運べばそのまま禁断の愛、背徳感もあって盛り上がるんじゃないかな」

「うっわ、さすがに彼女の娘に手を出すのは……。だいたいどうやってアプローチを?」

「お母さんとうまくいってないって相談する形で二人きりの時間と空間を作ればいい。そうなればこっちのもんだ。女ってのは頼れる男の押しに弱いから」


 経験則に基づいてんのか大した自信と作戦だ。保科はその誘いに迷うことなく応じるだろうな……。


 つーか、やばい、吐きそう。胃の中がぐるぐる掻き混ぜられてるみたいに気持ちが悪い。


「なーんかゲスい話題が聞こえてきますね~……って先輩? あ、トイレなら入り口の……」

「ああ、ちょっと行ってくる。入り口の方だから、あっちか」


 トイレの方向を確認した俺はいきなり立ち上がったせいか目が眩んだ。


「先輩、大丈夫ですか?」

「ああ、体調が良くないのに飲み過ぎたみたいでな」


 席を立とうとした河合を「大丈夫だ」と片手で制止した時だった。


『飲みすぎて酔ってる? 違うでしょ――アンタは正しいだけの自分に酔ってるの』


 今だけは聞きたくなかった声が頭の中で再生された。


「…………いや、正しさは関係ない。俺はただ酒に酔ってる。その証拠に正常な判断力を失ってる」

「先輩……?」


 やっぱり保科の攻撃力は高すぎるんだと思う。

 いつぞや俺にトドメを刺した言葉は今回もまたトドメとなった。


「乱暴された過去があるって聞いてたけどそうは見えないんだよな。俺の見立てじゃあれはかなり遊んでると思うね。実はあの店長とも関係を持って――」

「呼びました?」

「たり……」


 クボタが口に運ぼうとしていた料理がテーブルに落ちる。

 絶句した彼の大きく開いた目と口がその驚きを物語っていた。


「……あお――――」


 皿とグラスが割れる。

 名前が呼ばれるよりも先に手が出て、クボタは料理をひっくり返し倒れた。周囲の客が悲鳴をあげたのはそのすぐ後だった。


「ちょ、先輩ッ!? なにしてッ!? 先輩ッ!!」


 いち早く駆けつけた河合が俺を羽交い締めにする。


 顔の左半分を押さえるあいつに言ってやりたいことは山ほどあった。だがやかましい鼓動に合わせるかのような浅い呼吸が俺から思考を奪う。


 それでも、たった一言だけ吐きだせるものがあった。


「二度とあの母娘おやこに近付くな」

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