保科楓は泣きたくない

「…………そうか、そうかそうか。自分の存在が母親の負担になってると、うんうん、だから家を出たいか。なるほどな――」


 俺は正しさを逃げ道として散々使ってきた男だ。だからこそ他人の不正には敏感だ。


 俺自身が正しさを理由に過去から逃げてきたように。

 保科はを理由に未来へ突き進んでいる。


「――お前なんもわかってないぞ」


 売り言葉に買い言葉だった。


「……そうだね、まずアンタが今言った言葉の意味がわかってないや。だから教えて? あたしは何をわかってないって?」


 俺は保科をよそに足元に落ちていた手ごろな木の枝を使って地面をガリガリ削る。


「自分が離れただけで母親の不安が解消されると本気で考えてるなら、お前はアカネさんの気持ちをまったく理解してないと言った。……ある計算式の穴埋め問題だ」


 地面に書いた『ハハしかくムスメ=幸せ』の計算式。俺は四角の部分を枝で指し示した。


「この空欄にお前はマイナス、負符号を記入してる」

「……それがなに」

「自分がいなくなればママが心置きなく彼氏を作れて、とってもハッピー幸せいっぱーいになるとでも思ってんのか? ハッ、冗談だろ」


 枝を手放した瞬間、刺すような視線が俺を襲った。それは今までと比べ物にならないほど一際鋭利なものだった。


「少し事情を知ったくらいで何? 一緒にお昼食べただけのアンタにお母さんの何がわかるの?」

「だ、か、ら、本来はランチに同席しただけでもわかるレベルなんだよ。俺には十九年間も一緒にいてわかってない方が驚きだよ。問題の答え、解けないなら教えてやろうか?」

「ふざけるのも大概にしてッ……!」


 保科が喚いた。

 これまで彼女との口論は何度もあった。しかしそのどれも、一度だって声を荒げたことはない。

 普段の怒った彼女は妙に落ち着きがあって、それでいてひどく冷淡で……だが今俺の目の前にいる彼女は、


「あたしはずっと……つらく苦しくてもがんばり続けるお母さんを誰よりも近くで見てきた」


 瞬きをすればボロボロ涙をこぼしそうなほど眼を真っ赤にして、必死に震えた声を抑えつけている。


「アンタが今バカにして笑ってる答えはそういうのを全部見てきたうえでの答えなの。六年前の出来事なんかよりもずっと前から考え続けてきたものなの……!」


 保科楓は誰にも涙を見せない。

 泣けば終わり、そこでうずくまって動けなくなってしまったら誰かの邪魔になるとでも考えてるんだろうな。


「お母さんからおじいちゃんとおばあちゃんを取り上げて、仕事に育児でお金と人生じかんまで奪って。あたしはただ、お母さんに幸せになってほしいだけなの。でもっ、あたしがいたら……いっそあたしが生まれなければこんな――」

「――だからそれ、間違ってんだよ」

「……ッ!?」


 俺は地面に書いた式を乱暴に踏み消した。


「お前の導きだしたその回答はケアレスミスどころじゃないぞ。テスト用紙の裏面を忘れて、おまけに名前も記入し忘れて、そもそもテストを受けたクラス、果ては隣町の学校に登校してましたって次元の間違いだぞ」

「……は、はぁ? 急になに言って……」

「要するに絶対ありえない間違え方だと言ったんだ。それも二つある。で、次にどこを間違えてるかって話だが、保科は女性が痴漢に遭ったらやれ薄着だのスカート丈がどーだのと女性側にも問題があったと述べる人種?」

「そ、そんなの痴漢したやつが悪いに決まって――」

「じゃあストーカー被害を受けた女性に対して、相手の目を見てお礼を言う行動にも思わせぶりな態度があったと指摘するお方? はたまた結婚詐欺なんかでも下心を利用されて騙された方が悪いって思想の持ち主?」

「ね、ねぇ、ちょっと落ち着いてってば……!」

「言わないとわからないようだからこの際ハッキリ言ってやる。六年前の事件を引き起こしたのは自分だからあたしのせい? ふざけんなよ、お前の責任なわけないだろうが。保科も母親も被害者なんだよ、加害者ヅラすんな」

「……っ!」

「それからもう一つ。お前は母親から奪ってきた以上に多くのものを与えていることに気付けよ。母親の望みは娘がただそこにいること、つまりもう保科は母親を幸せにしてんの。なのに母親を幸せにしたいから離れたいって? ……すれ違い続けるのも今日までにしとけ」


 保科にとって母親が何よりも大事なように、それは母親だって同じだ。

 アカネさんが保科をどれだけ大切にしているか、たった二時間で無関係な俺にもありありと伝わってくるほどだった。


「あと、さっき出掛かった言葉は決して口にするべきじゃない。絶対に幸せになってほしいと望む、大好きな母親の幸せを否定したいのなら勝手だがな」


 互いを想うがゆえに己の幸せを対価に無実の罪をあがなって傷つき合う。

 ここまで生産性のないものに直面したのは初めてだったから、もどかしくて口を挟んでしまった。

 保科も自分より取り乱してる俺を見て冷静に……というか引いてる。


「……なんでアンタがそんな怒ってんの」

「おっと悪かった、正しいことや正論を振りかざす行為が大好きなもんで、つい」

「うわ、ほんとしつこいっていうかネチネチと陰湿だよね。何回も謝ったじゃん」

「何回も? 謝罪は一回だけだったぞ」


 ブツブツ文句を垂れた俺は缶の飲み口を引き寄せた。そこで子供を遊ばせていたママさんと目が合う。

 十代少女を論破して悦に浸るアラサーって娘を連れて逃げるには充分すぎる理由だよな、本当にお騒がせしました。


「……ねぇ。ここで酔っ払ったアンタがあたしに言ったコト覚えてる?」

「記憶にございません」

「ふーん……そっか」


 保科が面白くなさそうにスマホを取りだすと、聞き覚えのある声がした。


『振られたのか? ……ちょっと飲みすぎてご覧の有様だ。ぼーっとしてんのも味気なくてつい話しかけちまった、ごめんな』

「ブフーッ!?」


 俺の吹き出したコーヒーはさながらスイカの種飛ばし……そういや上京してから食ってねえなスイカ。


「思いだせた?」

「ああ、もう六年以上は食ってないって違うッ! 動画それ消したって言ったじゃないですかぁひどい騙したんですね」

「あたし、騙される方も悪いって思想の持ち主だから」


 してやったりと挑発的な笑み。

 イラッとはするが、まぁ、泣きそうな顔よりはマシか。


「なるほど、こりゃ一本とられました……動画だけに」

「…………」

「社会に放り込まれるまえにお世辞笑いは覚えとくといいぞ。これマジなアドバイスな」

「アドバイスね。……動画これみたいなことをさ、SNSで――」

「えッ!? まさか動画あがってんの!?」

「そっちじゃなくて。動画はあげてない。助言、忠告のほう」

「ああ、そっち……人生終わったと思った」

「動画はちゃんとあとで消しとく。安心していいよ」


 心の中で今じゃねーのかよとボソっとツッコんだ。


「こっちはどこにもぶつけられない不平不満をただ吐き出したかっただけなのに、アンタみたいに諭そうとしてくる人それなりにいるんだよ。改善や解決を求めてるわけじゃないのにね。……多くの人はあたしに同情して優しい言葉くれるけど揃いも揃って『娘の気持ちも考えない毒親』ってさ。あたしにはどうしてみんながそういう考えに繋がるのか理解できなかった」

「あー……忖度なしに意見を申し上げると、情報ぼかして断片的ともなれば、その子供サイドの感想もわからなくない……というかわかる」

「そっか。まぁそのアカウントはもう消しちゃってるし、どうでもいいんだけどさ」

「交流もあっただろうに消すのはなんとなくもったいない気もする」

「もともと不満か『ばおわ』しか言ってなかったし」

「なるほど」

「……ばおわの意味わかってる?」

「バカにすんな。バイト終わっただろ。後輩の河合もよくしてる」

「へー、やるじゃん」


 まあなと胸を張ってお互いに笑ってしまった。

 ベンチひとつ分、近すぎず遠すぎずの幅は妙に心地よかった。


「それじゃ、結構いい時間になったしあたしそろそろ行こうかな」


 保科がサンダルを履くと勢いよく立ち上がった。


「用事か?」

「うん、バイト。今日シフト入れてたから」

「っは~……俺なんかよりよっぽど働いてんな。そういや保科のバイトって結局なんなんだ? 俺聞かされないで店長やってたけど」

「あっ、ごめん言ってなかったっけ。今はカラオケ店だけ。ちょっと前まで居酒屋でも働いてたんだけどね、そっちはクビになっちゃってさ」


 保科は笑って軽く流したが俺の方は引っかかった。


「……? どうしたの?」

「……いや……てっきり洋服屋さんとか、ほら保科ってお洒落だしファッション関係のバイトやってんのかなって思ってたから」

「お洒落なんて初めて言われた。べつに特別気を使ってるとかじゃないけどまぁ褒められて悪い気はしないかな」

「ほお、意識してもいないのにそのお洒落度。本気だしたら年末の歌番組、オオトリを狙えちまうな」

「アンタのオシャレの基準って……あたし自分のセンスが不安になってきた」

「センスが壊滅的で、外に着てく服がないから日曜もスーツなアラサー男子の戯言ざれごとだ、そこまで気にしなくていいぞ」

「ふーん。じゃあさ、今度アンタの服でも買いに行こっか。心配しなくてもランウェイ歩けるくらいカッコイイの選んであげる」

「さすが攻撃全フリ少女、ファッションも攻め攻めですか。楽しみにしとく……バイト頑張れよ、いってらっしゃい」

「……っ、うん、がんばる。今日はありがとね……じゃ、また教室で」


 保科は若干照れながらも小さく手を振り返してくれた。

 やがて彼女の後ろ姿は見えなくなり、貸し切りとなった公園でコーヒーを一口。


「……にが」


 舌に留まるブラックコーヒーの酸味と苦味に顔を歪めた。

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