黒春を覆い隠せし者

 あたしは自分の住んでいる団地が嫌いだった。


 団地全体の印象を悪くする、外壁にこびりついた黒ずんだ汚れ。

 普通に閉めただけでも自重じじゅうで大きな音を響かせる玄関扉。

 それとベランダから見える雑木林。洗濯物に紛れて家に虫が入り込んだ時なんてお母さんとあたし、どっちが処理するかで必ずケンカになる。


 嫌いな部分を挙げればキリがないけどその中でも特に、建て付けが悪く開け閉めにもひと苦労な自室の窓が大嫌いだ。これが本当に重いし大変で、一度開けたら雨の日以外は絶対に閉めないほどだった。

 そんな窓から、もう夕方だというのにセミの鳴く声が風と一緒に運ばれてくる。


「これをあたしに……?」


 片手で持つにはちょっと大きくて、丁寧にラッピングされた箱はどちらかといえば軽かった。


「開けてみてごらん」


 箱をくれたその人は、まるで自分がプレゼントを貰ったかのような笑顔で催促してきた。

 あたしは包装紙を破かないようキレイに取ると、箱の中に敷かれていた薄葉紙うすようしをめくる。


「あっ……これって」


 プレゼントの中身はあたしがずっと欲しがっていたランニングシューズだった。これは陸上部のなかで流行はやってて、あたしだけが持っていなかったものだ。だからすごく嬉しかった。嬉しかった、けど……。


「もしかして別の色がよかったのかな? ごめんね楓ちゃん。おじさん、サプライズにしたくて……ちゃんと確認するか、一緒に買いに行けばよかったね。お店にお願いして交換してもらおうか」

「あっいえっ! 赤、好きです! その、そうじゃなくって……」


 あたしの視線は机の横にかけられたリュックへ移る。

 それはあたしの好きな読者モデルが愛用しているリュックと同じものだ。


「……先月も買ってもらったばかりだから」


 リュックのまえは机の上に置かれた色鉛筆とマーカーペンがたくさん入ったセットボックス。さらにそのまえは、それらが収納されている学習机そのもの。

 正直、プレゼントされた喜びよりもこんなにたくさん買ってもらっていいのだろうかと、後ろめたさの方が大きかった。

 そのせいであたしは大切なことを忘れてしまっていた。


「楓、まずは先に言うことがあるでしょ~?」


 プレゼントをくれた男性、ヨシユキさんの後ろから顔を覗かせたお母さんが言って、あたしはハッとする。


「っ……ありがとう、ございます…………ヨシユキさん」


 ――また、言えなかった。


「どういたしまして」


 とても穏やかで優しい笑みを向けられても、よそよそしくぎこちないものでしか返せなかった。


「私からもお礼を言わせて。いつも楓を気遣ってくれてありがとう。それから、今日は本当にごめんなさい。三人でご飯を食べる約束だったのに……」

「しょうがないよ。元はと言えば仕事の方は僕の責任でもある。新しい環境で大変だろうけど、一緒に頑張って乗り越えていこう」

「ヨシユキさん……!」


 中学一年。思春期の娘の前で平然と見つめ合うのはこっちが恥ずかしくなってくるしやめてほしい。

 ――けど、不思議とあたしの心は温かいもので満たされた。自己ベストを縮めたときより、どんな贈り物を貰ったときよりもずっと嬉しい気持ちになった。




 お母さんは十八歳であたしのお母さんになった。

 あと五年であたしも十八歳になるけど……とても考えられない。そしてそれはおじいちゃんとおばあちゃんも同じだった。


 両親の反対を押し切って、お母さんはお父さんと一緒になった。

 ……だけど、あたしが物心つく頃にはお父さんはもう事故で亡くなっていて、それからお母さんは誰にも頼れずにずっと一人だ。

 大切な人を失ってつらく苦しい生活の中でも、あたしをここまで育ててくれたお母さんにはいくら感謝してもしたりない。


「楓もごめんね。ママ、ちょっとがんばってくる!」


 仕事に行くときお母さんは必ず両手でガッツポーズをとる。なんでも幼い頃のあたしはすごい泣き虫だったらしく、どこまでホントかわからないけどそのポーズで泣き止んでいたそうだ。

 それ以来ガッツポーズはあたしから離れる際の習慣になったと本人から聞いたことがある。


「うん、ファイト。気をつけてね」


 でもそのままマネるのはちょっと恥ずかしいから、あたしは小さく手を振り返すだけ。そうしていつものようにがんばり屋で大好きな自慢の母を見送った。


「よしっ、じゃあアカネさんが帰ってきてすぐおいしいご飯を食べられるように、僕は作り置きを……」

「あっ、手伝います!」

「いーや、大丈夫。これでも料理の腕には少し自信があるんだ。楓ちゃんはもうすぐ夏の大会だったよね? こっちは僕に任せて、新しいシューズでも履き慣らしておいで」

「……でもそれじゃ」


 いきなり「あーっ!」と芝居がかった声でヨシユキさんが言う。


「困ったなぁ、お醤油が切れてる。悪いけど楓ちゃん、練習ついでにお買い物お願いできるかな?」


 ヨシユキさんは物腰が柔らかくて丁寧な人だ。


「っ……はい、お願いされました」


 母と娘の二人暮らし。お母さんは昼も夜も働き詰めで体を壊してしまわないかって常に心配だった。

 それが半年前、ヨシユキさんとの交際が始まって、お母さんも疲れていることには変わりないんだろうけど毎日楽しそうにしてて……なんだか安心したのをよく覚えてる。


 そして先週になってお母さんが夜のお仕事を辞めた。代わりに朝、昼、夕方とフルタイムだ。

 ヨシユキさんは仕事に理解のある人だったから何も言わなかったそうだけど、お母さんが自分で決めたことだった。

 それがどういう意味を持つのか、あたしも理解しているつもりだ。


「じゃあこれ、お願いするね」


 新品のシューズを履いたところでヨシユキさんからお金が手渡される。ただ、それがちょっと多かった。


「アカネさんチーズケーキが好きだからね。いつもがんばってるご褒美に。もちろん楓ちゃんも好きな物買っておいで。それじゃ気をつけて」


 きっと大人な人ってこういう心配りができる人のことを言うんだと思った。ヨシユキさんの優しいところにお母さんは惹かれたのかな。


「はい、いってきます……!」


 初めて男の人に『いってらっしゃい』と見送られた。




「ハッ――ハッ――」


 ジリジリとセミの鳴き声がまだ騒がしい夕暮れを走る。

 上り坂なのに体が軽い。新しいシューズのおかげなのかな、前に出す足がステップするように弾む。


「ハッ――ハッ――……ハァ……」


 坂を上りきって空を見上げると汗が首筋をつたう。服が体に張り付くけど不快感はなくていっそ清々しくさえあった。


 沈む太陽が流れる雲を茜色に染めて、まもなく夜空に切り替わろうとしている。

 ……あたしは夕陽のあたたかい色が好きだ。それはお母さんも同じ。

 お母さんは色が似てるからという理由で植物の中では楓が一番好きらしい。だからあたしの名前も楓と名付けたそうだ。


「……善は急げって言うもんね」

 

 今日はすごく調子がいい。体は軽くて全然疲れない。呼吸も、思考だって冴えわたっている今ならすんなり言えるのかもしれない――お父さんと。

 きっとあたしがそう呼ぶことをお母さんは望んでて、ヨシユキさんはがんばってるんだと思う。


 目的地のスーパーまでちょうど半分。

 けどたった一言を伝えるためだけにあたしは振り返って、坂を一気に下る。そこにもう迷いはなかった。

 帰りは行きなんかよりも遥かに速い。このスピードなら簡単に縮められるはずなんだ。伸び悩んでいたタイムも家族までの距離だって――――。




 ――バタンッ!! お腹にまで響く大きな音に思わず目を瞑り肩が竦む。

 扉を閉める時も勢いに任せすぎた。ヨシユキさんもびっくりさせちゃっただろうな……あ、まただ。何回も練習してるのに……。


「……お父さん、お父さん……――よしっ」


 小さく呟いたそれが抜けないうちに。脱いだ靴を揃えもしないでそのまま台所を目指す。


「あれ……? トイレかな」


 台所そこには中断された料理があるだけだった。そしてあたしはある違和感に気付いた。


 セミのなき声が聴こえない。


「……なに、これ」


 窓も閉めきられた薄暗い部屋の床に散らばった衣服。中には洗濯機に放り込んだはずの体操着もあった。

 机の上で山になった自分の下着を手に取ったとき――ドアがそっと閉まる。


「おとう、さん……?」


 その言葉に反応したあの人は笑う。けどそれは父親が娘に対して向ける笑みじゃなかった。

 あたしは逃げ場のない部屋で唯一の光源に縋りつくことしかできなかった……。


 あの窓が開きさえすれば何か変わったかもしれないのに――。


   ◇   ◆   ◇


「――満足した?」

「……っ」


 その一言で俺は現実に引き戻されて、頭で響いていたセミの鳴き声はいつの間にかスズムシに変わった。


「あたしが成実くんを突き飛ばしてしまった理由に納得できた? それとももうちょっと詳しく説明した方がいい?」


 痛ましい過去を何事もない、または他人事のように保科は語った。そこに悲哀なるものは微塵も感じさせず、ただただ俺への鬱積うっせきした怒りがあるだけにも感じられた。


「必要ない。……その」


 悪かったと口走りそうになったところを抑える。

 こうなるかもしれないと重々承知で俺から仕掛けたんだ。いまさら謝罪もおかしな話で、謝るくらいなら最初からこんなことするべきじゃない。


「もう一つだけいいか。初めて会った夜、保科が公園ここに居た事と今の話は関係が……」

「それは日曜ね。明日ちょっと早いし、アンタも普通に仕事でしょ。今日はもう終わり」

「そうか……そうだな。わかった」

「日曜のアオハル学級、欠席の連絡はちゃんとしといて。じゃ」


 棘を含んだ挨拶。

 ベンチに座る俺を残して保科は帰る――と思わせて立ち止まった。

 こちらに振り返ることなく彼女が言う。


「気にかけてくれたことは……その、ありがと。おやすみ」


 歯切れの悪い謝辞を述べた背中は真っ暗闇に呑まれていった。


「……罵られる覚えはあれど感謝されるいわれはねえだろ」


 ベンチに力なく倒れこむ。

 赤ん坊のように首のすわっていない、無気力状態である俺の視界に広がった夜空。そこに浮かぶ月は雲で覆われていた。


 これが来栖さんの言っていた黒春。いやはや、ドス黒くてドスグロいな。で、確かこれを乗り越えることがアオハル学級の真の目的なんでしたっけ?


 一目ひとめで「なるほど、これはくぐる競技か」と答えを導きだすほどに高すぎたハードル走。

 立ち止まっても、引っかかっても、転んでも、なんら不思議はない。むしろそうなる方が正しい在りかたに思えて堪らない。間違えても飛び越えようなんて考えもしない。


 だからこそ、俺にはあいつの真っ直ぐさが歪んで映った。


 俺だって軽い気持ちで行動に移したわけじゃない。保科の抱えた問題を解決まではできなくとも緩和する、軽くすることぐらいなら俺にでも……手助けになればって。

 しかし結局その差し出がましい俺の手は、あいつにとって忌み嫌う対象でしかないというオチだった。


 この手でしてやれる事といえば、一ヶ月前にこのベンチでふんぞり返って、好き勝手に論じていたサラリーマンをぶん殴ることぐらいか?

 鉄拳制裁ならその気になればただちに実行し達成できる。だがそれじゃ俺の頬と手にアザが残るだけ。

 ……残るんじゃダメだ、それじゃ意味がない。消し去ってなかったことにしてやりたいんだから。


 となると、やはり過去へタイムスリップ以外に方法はないんだろうな。

 スマホを取り出して検索。個人的にアキバのとあるビルの屋上か、とある民家の引き出しの中があやしいと睨んでいるが――残念。

 検索ついでに電車の時刻表を確認する。


「あと五分もしないで終電…………タクシー、拾うか」


 ――お安い御用だと引き受けた本日の青春活動は高くついた。

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