バカでいい
そのネーミングから俺は黒歴史というスラングを連想した。
羞恥から成る無かったことにしたい過去。
過ちや失敗から消し去ってしまいたい出来事。
それらが黒歴史。
性質上、思春期によくあてがわれる言葉であり、黒春にも通ずるものがあるそうだ。
が、しかし、黒歴史と黒春とではニュアンスが異なった。
黒歴史が恥ずかしい過去や出来事全般を表すのなら、黒春とは青春を謳歌できなかった問題の根底を指す。
平たく言えば、青春を邪魔した原因である悩みや
そんな御大層なモノを来栖さんは、
「皆様には青春をもって黒春を克服していただきたいのです」
簡単そうに言ってみせた。
当事者と部外者では温度差もある。
仕事でもこの手のクライアントとは飽きるほど遭遇してきたし別段驚きはない。実際言うだけなら簡単だからな。早口言葉じゃあるまいし。
ただ、こっちもこっちで安請け合いはしない。なぜなら、二つ返事をすれば
俺は眉尻を下げてわざとらしく口角を上げる。
「と、言われましても……」
お世辞笑い。
社会人になってから使用率一位であろう表情。あと数年もすればこれが俺のデフォルトの表情に違いない。
しかしながら残念極まりない、勤続六年の集大成であるベストスマイルも彼女には通用しなかった。
「どうか、青春の可能性を我々に示してください」
「……っ」
いやいや二人合わせて57、アラウンド還暦ですよ。
だってのに、真剣な顔で青春の可能性って。
青春よりも先に羞恥心を求めた方がいいんじゃないか。
日本で普及してるアプリのQRコード読み取りすらできなかったのに若々しい。
「示すも何も青春自体が曖昧だ。始めるにしても定義の擦り合わせからですかね? 生徒だけでも五人分、こりゃ大変な作業だ。……そもそも黒春のせいで青春を謳歌できなかったのに青春をもって解決って矛盾してませんか?」
「青春を謳歌さえできれば、それは黒春を克服したともいえます」
「逆説ですか……」
とまぁ、それはいい。噛みついたものの本題はそこじゃないからな。
来栖さんは対象者に例外はないと言った。
生徒全員が黒春を抱えている、いや、覆い隠している。
そしてそこには当然俺も含まれているわけで。
「はぁー……で、いったいどうやって俺の過去を?」
「……」
だんまりかよ。
俺が会社の前で捕まったあの恐怖体験も偶然じゃなかったわけだ。
「まさか、わざわざ探偵でも雇って全員の身辺調査を?」
「その質問にはお答えできません。また、各々が覆い隠す黒春についても同様です」
はっきり宣言した来栖さんは生徒全員の黒春そのものを把握している口ぶりだ。
生徒側もそれぞれが抱える悩みの全容は不明。だがアオハル学級に参加している時点で、心のうちに黒春を孕んでいることは周知なわけか……。
誰にも見られたくない触られたくないから、土を覆い被して隠してきた地雷。それが参加者の数だけ存在する原っぱ。
みんなが仲良く手を繋いだ横並びの状態で、夕陽をバックに
いやはや、枕に顔をうずめて足をバタつかせるくらいには
「あの、来栖さんは覆い隠してるって行動の意味、わかってます? それを勝手に調べあげて、あまつさえ爆弾を掘り返すようなマネは――」
いかがなものか。
そんな無粋な一言は、来栖さんの深刻な顔を前にしたら口にできなかった。
「はい、理解しています。ですのでアオハル学級への参加、脱退は任意ですし、ご協力いただけた場合にはその都度、せめてもの誠意として報酬をお渡ししてきました」
そこまで言って、彼女は心苦しそうに唇をきゅっと結んだ。
「……青瀬さんにはカフェでの一件といい、重ねてになってしまいますが……」
「い、いやっ! それはもう済んでることなんでっ」
来栖さんが頭を下げた瞬間、やってしまったと罪悪感が押し寄せた。
机の下から飛び出た俺の手もどうしていいかわからずに行き場を失う。
「すいません、今のは来栖さんを責めていたわけじゃなくて……」
情けない。全部が全部、彼女の本意じゃないことぐらい会社員ならわかるだろうが。しかも元はといえば自分から持ちかけといた話題で不機嫌になって……ほんと、世話ねえな。
「その、口ではこんなですけど、アオハル学級に参加して本当によかったと思ってるし、これからも続けたいって気持ちは変わってませんから……」
最悪なムードだ。これでさよならは次回に響く。後腐れのないようにしたいものだが……仕方ないここは道化に回ろう。
「想像よりも参加者若い子ばかりだったから、歳相応というかそれっぽく振舞ってましたが……ほら、これ」
ももを圧迫していた携帯を不恰好なポケットから取り出し――たいのだが、座ったまま実行に移ったせいで苦戦を強いられた。
はい、ここ! ここで伝家の宝刀、
俺はやっとの思いで携帯を机の上に置き、メモ書きが表示された画面を来栖さんに差し出した。
「自己紹介で使おうとした渾身の掴みネタ。実は色々考えてきてて……あ、これは俺が中二ぐらいの時にハマった漫画の名ゼリフでしてね……いやーはっはー、深夜のテンションって恐ろしい。こりゃ自己紹介が飛んで正解だったかな~月見さんに風邪ひかせちゃうとこだった、なんて……」
弾切れになってやっと相手の顔を窺う。
「素敵な挨拶だと思いますよ。実際に聞いてみたかったです」
来栖さんの頬が微かに緩む。
……よかった。とりあえず雰囲気改善の糸口は掴めたみたいだ。
アオハル学級に対して来栖さんが真摯に向き合っているであろう事実は、彼女を慕うみんなの様子からも伝わってきていた。なのに俺はおちょくった態度を取って……猛省だ。
「カリンさんや南畑さんにも質問していたくらいですし、青瀬さんは本当にマンガお好きなんですね」
「中学生からなんも変わってない、成長してないだけですよ。高尚な趣味の一つや二つあれば格好もつくんですけど、二十八になっても中身は全然で」
「『好き』に年齢は関係なくて、そういうものなんだと思います。私だって二十九になったいまでも十代向けの恋愛ドラマできゅんきゅんしますし、中学生の頃に読んだ『おねがい☆妹ドリーム』の決めゼリフだって未だに覚えていますから!」
「あ、やっぱり来栖さんも『おマド』読んでますよね?」
「そりゃもう世代ドンピシャ影響されまくりです! カリンさんともよく語り合ってますよ!」
しばらくなかった笑い声が教室を包んで、来栖さんはカリンの席を見やった。
机の落書き。亀のようなキャラクターだが元ネタがわからん。しかしカリンがめちゃくちゃ絵が上手いことだけは確かだ。
「思春期って多感ですからね。影響されやすくて、染まりやすい。……私は
「土台、ですか」
来栖さんが席を立つと教卓へ向かう。その力強い歩みは長靴を履いた子どもがわざと水溜りを踏んで遊ぶみたいだった。
「千差万別、百人百様、三者三様……」
のっしのっしと、そのたびに呟いて彼女は黒板の前で止まる。そして、
「「十人十色」」
言葉が被さった。
青いチョークを手に持った来栖さんが驚いたように「そうです」と笑う。
「表現する色も土台も人それぞれ。仮に、黒板であればこうやって限られたスペースを使って描っ……くぅ! ふんぬ……ッ!」
チョークをなめらかに走らせていた彼女が懸命に背伸びする……が、届かない。諦めて青から赤いチョークに持ち替えると新たに模様を追加する。
「一度や二度じゃない。影響されて何かを感じた分だけ反映される。黒板にチョークなら失敗しても上から線を引けますし、簡単に消せます。人によってはこれがキャンバスに油彩、コンクリート壁にカラースプレーだったり……シアン、マゼンタ、イエロー、三色の透明水彩絵具と画用紙の人もいる」
絵の具の三原色。
コピー機のインクなんかでもお馴染みだな。
たしか理論上ではそれらを混ぜれば大抵の色は作れる、だったか? まぁあくまで理論上。実際は――
「筆を重ねて、重ねて、重ねて。何度も繰り返すうちに鮮やかだった色は混じって、滲んで、濁ってしまう。そうして真っ黒になってしまった上にいくら色を置いても変わらない。却って汚れていびつになっていく。黒は……他の色を呑み込んでしまうほど強い色だから」
「変わらずに……汚れるだけ、ですか」
「あっでも! 中には私のようなモニターとRGB、色を足すほど真っ白になるお気楽能天気な人もいますけどね! なのでみんながみんな、変われないで汚れるだけというわけでは……」
来栖さんは慌てて沈みかかった空気を繕った。
「つまり今言っていた画用紙の状態が黒春ってことですよね」
「……はい。私はそのように捉えています」
なるほど、と小さく返す。来栖さんの言いたいことはまぁ、わかる。
彼女の言う色とは、思春期に強い影響をもたらした思い出そのもの。
色のひとつひとつは綺麗でも、それが複雑に混ざり合えば話は別だ。
楽しかったはずの……いや、楽しかったからこその思い出が、目を背けたくなるほど醜悪なものを産みだすことだってある。
「すべてを呑み込んでしまう色、か」
窓の外へ視線が引き寄せられる。
郷愁に駆られた
……老けたな。けど、変わってない。
あの時から何一つ変わっていなかったのは茜色の空なんかじゃなく――俺自身か。
青春とは過去だ。
糧となっていて振り返られる過去。
俺は青春を手に入れることで、時間が止まったままの
画用紙が真っ黒になる原因なんて人それぞれ。
求められた形や色に近づこうと描き足すから。
出来上がった絵を隠すように塗り潰したから。
作品が完成しない焦りから誤ってパレットをひっくり返したから。
本人の意思とは無関係に他者が無理やり手を加えたから。
パッと思いついただけでもこれだけある。
アオハル学級のみんなが抱える黒春の中身はわからない。知られたくもないだろう。
……なのに、この教室で彼女達は笑いあっていた。これまでの
求めてるんだ、青春を。
「――消せずに塗り替えることも叶わないなら、また新しい土台を用意すればいいのです。一人一作品までなんてルールはないんです! 上手く絵が描けないならトレースでもいい、誰かが作り上げた作品を自分のものにしたっていいんですッ!!」
「いや、最後のは絶対ダメでしょ。訴えられ――っ!」
目の前に差し出された小さな手が憎まれ口を阻む。
「真っ黒な絵を描き上げてしまっても、その作品のおかげで今があると笑えるなら、どんな失敗も失敗ではなくなる。青瀬さん、過去の自分にお礼を言えるぐらいの今を――青春をその手で作りましょう……!」
いつぞや鼻で笑った、カフェに居合わせた客誰ひとりとして支持しなかったその理念。
俺はそれに賛同すべく、机の下で汗ばんだ手の平をズボンに擦りつける。
俺が投じる清き一票は死票になる可能性しかない。だが、それでも――
「……はい! 作ります!」
手を伸ばさずにはいられなかった。
青春をその手で作りましょうと言われて「はい! 作ります!」と快諾するアラサー男はこの地球上に存在するんだろうか。もしいるならそいつはどうしようもないバカだ。
そして、ずっと欲しかったものが手に入るなら、過去を振り返って笑い飛ばせるようになるのなら――俺はバカでいい。
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