第6話 穂澄由依〈序〉
——同時刻。
凪波大学 中央棟二階 第三講義室。
初老の男性教授が、壇上に佇んでいる。
「……そして、我々の日常における〝無意識〟の役割を『人間の創造力の源泉である』とし、無意識こそ、意識の働きに絶えず新しい創造力を供給する母胎なのだと提唱したわけです。また、精神というものは、外界に対してある特殊な現れ方をするという事象を、彼は『ペルソナ』と呼称し、人が外界に適応するにあたって必要不可欠なものであると示したのです。そんな彼の社会心理研究の中には、以下のようなものも存在し……」
壇上には白いスクリーンが設置され、そこに小型映写機によってやけに文字量の多いスライドショーが投影されている。
演壇に置かれたノートPCをカチカチと不器用に操作する初老の教授。
講義内容の密度に対してハイテンポで切り替えられるスクリーン上の資料をぼんやりと眺めながら、穂澄由衣は小さく息を漏らした。
——退屈だなぁ。
机に広げられたA4用紙には、難解な専門用語が何かの暗号のように書き連ねてあり、用紙の端には、彼女の今の心境を鮮明に表すような落書きが施されてある。
由衣はそんな愛らしい落書きの一つに手を加えながら、ふと考えを巡らせる。
……とうの昔に亡くなった知らないおじいちゃんの難しい考えを理解したところで、一体何の役に立つんだろう。就職に活かせたりするのかな。それとも結婚相手を決めるときとか、老後の人生で? どうせなら、今日の夕食に活かせる斬新なアイディアとか、レポートを簡単に作成できる裏技とかを教えて欲しいな。
……あー、もうそんなことより早く帰ってアイス食べたい。お昼寝したい。
まるで何かの連想ゲームのように次から次へと雑念を浮かび上がらせる彼女は、一度落書きの手を止め、階段状に並んだ席の後方から、なんとなく講義室内を見回してみる。
最前列で真面目にノートを取る人。
開いたノートPCでこっそり動画を見始める人。
周りの目などお構いなしに仲良く談笑を続ける男女。
スマホのオンラインゲームに勤しむ男子二人
昨夜の合コンの話で盛り上がる女子二人。
授業開始から居眠りを続ける人。
夏休み中の補習ということもあってか、講義室内は比較的閑散としている。まばらに空いた席がその証拠だ。
おそらく、この場にいるほとんどの学生が、わたしと同じように大学の生徒専用ホームページに記載された、やけにふんわりとした授業内容を見てこの授業を選択したに違いない。
視界に映る受講者たちの授業態度を見て、由衣はそんなことを思った。
同時に、夏休みに補習なんて受けるくらいなら、もっとちゃんと授業に出席しておけばよかったな、と後悔を滲ませた。
……夏休み明けからは、バイトのシフト少し減らそうかな。
そう、頭の中で呟きながら、由衣は視界を窓の外へと移す。
季節は夏本番。
澄み切った蒼穹に浮かぶ八月の太陽はどうやらサービス精神が強いらしく、余りあるエネルギーをこれでもかと地上に降り注いでいる。
こんな炎天下でも臆することなく街を練り歩くサラリーマンは、やっぱり凄い。外で部活やサークルに勤しむ学生たちも尊敬に値する。
今日は気温が三十度を超えるって今朝のニュースで見た気がするし、熱中症にならないといいけど。
ふとそんなことを考え、冷房の効いた快適な講義室から外の世界の住人に対して軽い敬意を表した彼女は、スカイブルーの空を一直線に横切る一機の航空機に目を留めた。
青い空。
降り注ぐ陽光。
一直線に横切る航空機。
微かに聞こえる楽し気な声。
そして、窓ガラスに映る独りぼっちの少女。
見飽きるほどに見た夏の景色が、確かにそこに存在していた。
由衣は、とうに切り捨てたはずの記憶が再び色や形を持って少しずつ甦ろうとしていることに気がつきながら、そっと目を背けるように長机の上に顔を伏せた。
壇上では、相変わらず難解な講義が進められている。
「……例えば、まるで一貫性のない事柄が関連して結びつくといった経験や、虫の知らせのような同時発生型の偶然。これらは心理学の分野において『非因果的関連の原理』と呼称されるわけでありますが、彼はそんな意味のある偶然の一致を『シンクロニシティ』と名付け、分析心理学の概念として提唱したわけです」
……また、知らない用語。堅苦しい解説。
全然使っていなくても、不思議と頭が重くなってくるのはどうしてだろう。
由衣は再び小さく息を吐き、五感を講義とは別の箇所へと集中させる。
由衣から見て前方、五列離れた席で先程からノートPCを開き、授業そっちのけで動画を見ている男子学生。
画面には、銃を駆使して戦うオンラインシューティングゲームの荒廃したフィールドの風景が映っている。
右斜め前方。昨夜開かれた合コンの話で秘かに盛り上がっていた派手な見た目の女子学生二人。話題は合コンから、先程大学構内の図書館で起きたらしい事件へと移り変わっていた。
「……てか、聞いた?」
「何が?」
「なんかさっきサリナから連絡来たんだけど、図書館でリョウ、キレたらしいよ」
「え、なんでなんで? ってか誰に?」
「わかんない。ただ、相手は女子らしい」
「マジ? やばくない?」
「ねー、それな」
由衣の瞳と耳には、殺伐とした荒野で激しい銃撃戦が繰り広げられているPCの画面と、自分の住む世界とはまるで正反対の世界で起こっているような剣呑な内容が情報として入ってくる。
そんな情報を認識するたびに、彼女は「みんなも、退屈を嫌っているんだなぁ」と、ほんの少しだけ安堵した。
由衣はそんな少しばかりの安心感と、シャットアウトしようにも絶えず耳に入ってくる難解な講義内容に耐えかねて、静かに目を閉じる。ちょうど前列左側、一番日光の当たる窓際の席で微睡む男子学生のように。
由衣は握っていたペンを手から離し、書きかけの落書きの上で眠りの態勢に入る。
——わたしは夏が嫌い。
いつにも増して、自分の人生が寂しく映るから。
——わたしは勉強が嫌い。
頭だけ良くなったところで、得られるものなんて一つもないと知っているから。
——わたしはお母さんが嫌い。
身勝手なルールにわたしを縛り付けて、絶対に離そうとしないから。
今さら改めて理解する必要などどこにも無いと知っているはずなのに、どういうわけか、彼女は閉じた瞳の奥で自分の嫌いなものとその理由を羅列していた。
……きっと、必要のない情報を入れすぎたせいで、本当に大切な情報を整理しようと、わたしの脳みそが勝手に判断したのかな。
そんなことを考えながら、由衣は静かにゆっくりと、深い海の底に沈んでいくように現実の世界から離れていった。
落ちて、落ちて、落ちていった先が、とうに切り捨てたはずの過去を映す、陽炎の世界だとも知らずに——。
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