第5話 本城咲希〈序〉

 

 ——同時刻。

 凪波大学 図書館。



 色のついた静寂が、広い館内を行き交っている。


 本のページをめくる音。パソコンのキーを叩く音。軽い咳払い。微かな足音。受付スタッフの声。


 世の中には、静寂を好むとする人間が多数存在する。

 しかし、完全な静寂というものは時に人を不安に陥れ、人の心を狂わせる。

 その点、多少の雑音を含んだ静寂は良い。世界がまるで、パステルカラーに彩られたような安心感を与えてくれる。

 この図書館はまさに、そんな安心感を得るのには最適な空間だった。

 恐らくこの空間にいるほとんどの者が、同様の安心感を求めて心地よい静寂の一部になっているに違いない。



 図書館二階の学習スペース。

 日当たりのいい窓際から少し離れた位置に腰かけ、ウェーブのかかったブラウンのロングヘアにシルバーフレームの眼鏡を携える彼女、——本城咲希もその一人だった。



 手には、色褪せた装丁が特徴的な分厚い歴史書。

 眼鏡の奥の瞳には、ページに綴られる難解な文章。

 まるで機械のように、一定の速度でページを捲る彼女の指先。


 そんな微かな動きから生じる物音もまた、心地よい静寂の一部として緩やかなハーモニーを奏でていた。


 しかし、中には周りのことなど一切気にせず、不快な雑音を辺りにまき散らす輩も存在する。



「……でさ、マジでウケんの」


「なになに?」


「いや、あの後ミサんちで飲み直したんだけど、タケルが急に脱ぎだしてさ——……」


「うっそ! それマジ? 笑うんだけど」


「オンスタにも動画あがってるから見てみ。マジ笑うから! ……あ、ってか来週の件だけどさ——」



 咲希の左斜め後方。一組の男女が、軽快な笑い声を交えながら絶えず談笑している。


 図書館内での私語は当然厳禁であったが、二人の派手な様相のせいか、誰も積極的に注意を促そうとはしなかった。

 そもそも、声を掛けて注意するほどの声量というわけでもない。彼らの付近にいる者が多少気になる程度の声量だ。


 それでも、心地よい静寂と知識に対する欲求で満たされた空間に、突然四尺玉の花火でも撃ち込まれたような穴が開いたことは事実であり、それに対して不快感を抱く者がいることも、また事実だった。


 咲希はそれまで動かしていた手を止め、深く息を吐き出すと、彼らに向かって強く舌打ちをしてみせた。



「……猿共が」



 幸い、男女は会話に夢中のようで、彼女が今しがた発した言葉を気にする素振りは見せなかった。

 しかし次の瞬間、咲希は椅子を引いて席を立ち上ると、そのまま迷いのない足取りで談笑を繰り広げる彼らの前までやって来た。



「そんでタケルが——」


「ねぇ」


「…………あ?」



 男はそれまで続けていた会話を一度止め、目の前に現れた咲希に対して奇異の目を向ける。それに釣られるように、男の正面に座っていた女も怪訝そうに眉を寄せた。

 また、それまで無干渉を貫いていた周囲の生徒たちも一様に動きを止め、咲希の大胆な行動に目を向けだした。


 咲希はそんな周りの変化には目もくれず、淡々とした口調で言葉を並べる。



「猿ごっこは他所でやってくれない?」


「……は? なに? どういうこと?」


「猿は猿同士、仲良く自室で猿語会話を楽しんでくれないかって言ってるの」


「……その『猿』っての、もしかして俺らのこと言ってる?」


「自覚無かったの? まぁ、猿は自分が猿だなんていちいち気にしないものね」



 誰が見ても挑発と取れるその態度に、周囲の学生たちは皆、額に冷たい汗を浮かべる。

 それまで心地のいい静寂を保っていたはずの空間には、ただならぬ緊張と張りつめたような空気が充満していた。


 ……嫌な静寂というのは、まさにこういった状況を指すのだろう。


 多くの学生がそう感じ取ったところで、沈黙を続けていた男が口を開いた。



「あー……わかったわかった」



 気だるそうに首の後ろを搔きむしりながら席を立ち、男は咲希に身体を向ける。

 それから不気味なほど満面な笑みを浮かべて、男は半袖シャツから伸びる太い腕を虚空に持ち上げた。


咲希の左頬に大きな衝撃と焼けるような痛みがやって来たのは、その直後だった。


 パンッと乾いた破裂音が、静寂で満たされていた図書館内に響き渡る。

 その様子を見ていた多くの学生が、唖然とした表情を浮かべていた。



「どう? 猿からビンタされた感想は」


「…………」



 口内が切れたのか、桜色の唇から微かに血が滲んでいる。

 そんな状態にもかかわらず、咲希は一切の悲鳴も涙も出さずに自分を見下ろす男を逆に見返した。

 それが男の目には単なる強がりと映ったのか、満足げに不敵な笑みを浮かべながら言葉を続けた。



「これに懲りたら、人を猿扱いするのはやめ——」


「やっぱり、どこまでいっても猿は猿のままね」



 再び、周囲の空気が凍てつく。



「……は?」


「暴力を行使すれば、相手が屈服すると思ってる。ほんと、いかにもバカな猿が考えそうなことだわ」



 男の予想に反し、咲希は怯えるどころか、まるで嘲笑するかのように罵倒を再開した。



「おまえッ……‼」



 咲希の一言で、それまで多少の余裕を見せていた男の怒りが頂点に達し、男は握った拳を勢いよく振り上げた。


 今度こそ、咲希の泣き声が館内に広がる。

 そう、誰もが予想したその時、騒ぎを聞きつけやって来た館内スタッフが、大声で制止を促した。



「ちょっとキミたち! 一体何をやってるんだ!」



 初老の男性スタッフが慌てた様子でこちらに向かって来るのを見て、多少の冷静さを取り戻した男は、さらに辺りを見回して周囲に多くの人だかりができていることに気がついた。



「……チッ、行くぞ」


「う、うん……」



 人目に付く場所で暴力は流石にまずいと判断したのか、男は同席していた茶髪の女性に声を掛ける。それから男は、咲希の耳元に顔を寄せ「顔、覚えたから」と言葉を残して、その場を去って行った。


 そして、騒ぎの中心に一人残された咲希もまた、初老の男性スタッフに状況の説明と謝罪を求められている中、読みかけの本を近くの書架に戻すと、スタッフの制止を聞くことなく、すみやかにその場を後にした。



 ***



 ……世の中にはバカと、無能な傍観者が溢れている。


 図書館を出て、学習スペースのある中央棟キャンパスを目指している途中、咲希は心の中でそんなことを思った。


 約80億人もの人間が暮らすこの世界。

 その大半を占めるのが、ろくに頭も使わず繁殖を続ける猿もどきのバカと、ただ目の前の状況を傍観し、見てみぬふりをしてくだらない人生を謳歌する無能たち。


 そんなゴミクズ同然の生き物たちがこの世界を支配している。

 ……と、異様に歪んだ考えを持ち、つい先ほどまで見ず知らずの人間を猿呼ばわりして散々バカにしていた彼女だったが、自分もそんなバカの一員で、尚且つ無能な傍観者にも属していることを誰より深く理解していた。


 同時に、この世界にはそんなゴミクズたちの目が眩むような、美しい輝きを放つ者たちが多少存在することも理解していた。


 そして、そんな美しい輝きすら、膨大なゴミクズの波に呑まれてかき消されてしまう現実があるということも——。



「………っ!」



 耳に張り付いたような喧しい蝉の鳴き声と、圧し掛かるようなの真夏の暑さ。

 そして、薄く切れた内頬から来る疼痛と口内に広がる血液の味。

 それらの不快感が苛立ちへと変わり、咲希は近くに設置されていた自動販売機に拳を叩きつけた。



「……一体、何がしたいのよ……」



 それが他者に対しての言葉なのか、それとも自分自身に対しての言葉なのか。

 発した本人である咲希ですら、理解出来てはいなかった。


 咲希は俯かせていた顔を上げ、唇に滲む血液を手の甲で拭う。



 ——わたしの背には、一人で抱えるにはあまりにも重すぎる十字架が掛けられている。



 その存在を意識するたびに、身体中が痛み、荒れ狂う感情の波がわたしの心を引き裂いていく。

 けれど、それを苦痛だと感じたことは一度もない。

 何故ならそれは、他でもないわたし自身が己に科した罰であり、唯一の救いなのだから。


 絶えず照りつける激しい陽光と蝉の声。

 どこまでも澄み渡る青い空と、時折吹く心地良い風。

 そんな鮮烈で爽快な夏の化身たちが、「償え。そして、忘れるな」と、責め立てるように彼女の五感を支配する。


 咲希にとっての夏とは、暗く冷たい罪の季節を意味していた。



「……分かってる」



 まるで、姿なき何者かに告げるかのように切れた唇を動かす咲希。

 キラキラと反射を繰り返すレンズの奥で開かれた彼女の瞳には、少女の形をした『何か』が咎人を蔑むような目でじっと佇んでいる様子が映っていた。


 そして、咲希にだけ見える少女の形をした『何か』は、彼女に向かって静かに口を動かす。



『——ウラギリモノ』



 あどけない少女のような声でそう言葉を残すと、次の瞬間には少女の形をした『何か』は視界から煙のように消え去っていた。

 あるのは、見慣れた大学構内の風景だけ。



「分かってるから……」



 咲希は顔を俯かせ、足元に出来た自分の黒い影に向かってもう一度そう唱える。

 それから深く息を吐き出し、再び顔を上げると、学習スペースのある中央棟を目指して大きく足を踏み出す。


 ——と、その瞬間。

 彼女は突然、強烈な眩暈に襲われ、炎天下の路上に伏すように倒れこんだ。



「……えっ……うそ……」



 先程、図書館で思いきり頬を叩かれたせいか。

 それとも、全身を刺激するこの暑させいか。


 自身の身体に何が起こったのか考える暇もなく、咲希の意識は徐々に遠退いていく。



 ……あぁ、あんな事しなければよかった——。

 いつだって、わたしは間違いを犯す。今回も、あの時も……。



 咲希は薄れゆく意識の中、過去の自分を嘲るように口元を歪める。


 ぼやけた視界には、消えたはずの『何か』が映り込み、地面に伏した咲希をあざ笑うかのように見下ろしていた。

 加えて〝それ〟は、咲希に向かって何かを伝えようと、小さく口を動かす。



『————』



 〝それ〟が一体何と言ったのか、咲希には理解できなかった。


 きっと、蟻のように這いつくばるわたしを見て、「いい気味だ」とでも笑っていたんだろう。


 そんな様子を思い描きながら、咲希は静かに、逃れることのできない深い夢の世界へと堕ちていった──。

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